第35話 眠り姫をそっと

「改めて、テストお疲れ様でしたー!」


 バイト後、白音の家。

 夕食中、白音がオレンジジュースを掲げ元気な声で言った。


「お疲れ。無事に終わってよかった」

「ですね! とはいえ、来月にはまたすぐ期末なので、完全には気を抜けませんね」

「ぐっ、目を逸らしていた現実が」


 日野宮高校では、一学期に中間と期末の2回テストがある。

 テストのタイミングはきっちり学期の半分ごと、ではない。

 学習内容の進行量や諸々のスケジュールによって調整されていて、今回終了した中間から一ヶ月ちょい後にすぐ、期末テストが控えていた。


「まあまあ、完全にエンジンが切れると戻す方が大変ですから、アイドリング期間ということで予習復習を心がけましょっ」

「俺は人生をエコに生きたいから、1ヶ月ほど冬眠する」

「起きたらすぐテストじゃないですか!」

「追い込まれた時のブーストにすべてを賭ける所存」

「それは人生エコに生きてるんじゃなくてギャンブルで生きてると思うのです。とても燃費が悪そうです」

「メリハリがついているとも言う。……とはいえまあ、流石に今年も最後だし、徹底的にグータラ決め込むのもあれだから、そこそこは頑張ろうかなと」


 頭を掻いて言うと、


「はい! また、がんばりましょうね」

 

 ぱあっと、白音は表情を輝かせ上機嫌に言った。



◇◇◇



「ところで叶多くん」

「ん?」

「今回のテスト、いつもより調子良さそうでしたね!」


 夕食後。

 ソファでくつろいでいると、白音が隣にちょこんと座って言った。


「ん……ああ、普段よりは、そこそこ、な」

「いつもより70人くらいごぼう抜きしてて、凄いです!」

「あ、ああ……うん、すごいの、かな?」


 そこでふと、「あれ?」と気づく。

 70人抜き、という正確な数字を提示できるということは、白音は自分の前回までの成績を把握していたのだろうか。


「凄いですよ! なかなかできるものじゃありません!」


 褒められる、という経験に乏しい叶多は、この時にどのようなリアクションを取ればいいのかわからなくなる。

 でも、ひとつ伝えるべき言葉がある事はわかった。


「白音の、おかげだよ」

「……ふぇ?」


 間を置いてから、こてりんと小首をかしげる白音。


「なんというか、その……勉強会が効いた? というか、白音が当たりそうな範囲とか、色々教えてくれたから、いい点数が取れたと言うか、その……だから……」


 後半にかけて下がっていくボリュームと、目線。

 膝の上に置いた両手を固く握って、精一杯の気持ちを言葉にする。


「……ありが、とう」


 なんだこれ、超恥ずかしい。

 顔が発火してそのまま破裂してしまいそうだ。

 それに、聞こえたかどうかわからない声量で言ったから、不安の気持ちも襲ってくる。

 

 

 ──くすり。


 小さな笑い声で顔を上げる。

 ふんわりと、白音は柔らかい笑みを浮かべていた。

 

「どういたしまして」


 嬉しさたくさん、ちょっぴり気恥ずかしい、みたいな声。


「でも」


 そっと、白音が叶多の手の甲に掌を添える。


「成績が上がった一番の要因は、叶多くんが頑張ったからですよ」


 愛しい我が子に向けるかのような、慈愛に満ちた顔立ち。


 ばくんと、胸の奥で血液が沸騰するような感覚。

 次いで、お腹の底から肺のあたりにかけて、何かがきゅうっと締まった。


 だから、なんだ、これ。

 

「し、白音に比べたら全然だよ、学年の7位とか、ほんと流石と言うか」


 さっきから収まらない感情の奔流を流すように話題を逸らすと、ぴたりと、白音が動きを止めた。


「あー……」


 ちょっぴり困ったように下がる眉。


「……ん? どうした?」

「い、いえ! なんでもないですっ」


 ぶんぶんと、白音は顔の前で手を振った。

 まるで、壊してしまったおもちゃを母親の前で隠す子供みたいに。


 同時に、思い出す。


 順位発表の掲示板の前。

 白音を囲う友人たちの、どこか励まし気なムードを。


 頭の隅に違和感が引っかかったように感じたが、それを掘り出すことには前向きになれなかった。

 なんとなく、つついちゃいけない気がしたから。


 それよりも、難儀な体質のか、学年トップレベルの成績を叩き出した白音に対する労いの気持ちを抱いた。


 気がつくと、


「白音も」


 手が、ひとりでに、動いて、


「すごく、すごく頑張っていると思う」


 その小さな頭を、そっと撫でた。

 

 一瞬、自分が何をされているかわからないという風なきょとり顔。


「今回も、今までも」


 ──テスト期間中は、放課後すぐに夜遅くまでやってる電気屋さんや、イートインのあるコンビニに行って睡眠をとって、それから帰って一晩勉強して、そのままテストを受けていました。


 そんな白音の言葉を思い起こしながら。

 彼女の今までの頑張りを想像しながら。


 労るように、慰めるように、優しく、その銀髪に手のひらを滑らして、


「よく、頑張った」


 気がつくと、白音の表情は、さまざまな感情で彩られた。


 嬉しさ、気恥ずかしさ、嬉しさ、安心感、嬉しさ。


 どこか泣き出しそうなその面持ちは複雑だけど、奥行きがあって、様々な気持ちを想起させられる。


 一番大きな気持ちは──羞恥。


 いきなり頭を撫でるなんて、何やってんの俺?

 モラルを犯したことに対する後悔や後ろめたさがあるはずなのに……おそらく、自分の想像を超える苦労をしてきたこの子を褒めてあげたい、という気持ちの方が上回った。


 胸の脈拍数が今日いちばんを更新しながら、何度も何度も、叶多は白音の頭を撫でた。


「……ありがとう、ございます」


 ぽとりと、どこか、震えている声が溢れる。


 ドギマギする心臓を宥めるのに必死で、叶多は気づかなかった。

 その澄んだ瞳の端に小さく光る、一筋の雫に。


 しばらくの間、叶多は白音の頭を撫で続けた。

 その間ずっと、白音は身体のどこかを震わせていた。

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