第19話 悪意の塊


 “零”。

 その数字が表示された瞬間、ズンッと室内の空気が重くなった。

 あり得ない。

 今まで振って、そして全ての“面”を見て来た私だから言える。

 『こんな数字は、描かれていなかった』

 中からちょっと気持ち悪い音はするが、それでも見た目は普通のサイコロと変わらない。

 一から六。

 物理的に、ソレは変わらない筈だ。

 だというのに……今目の前に表示されている数字は、一体なんだ?

 個人的な感想を述べるのであれば、急に妹の名前を上げられたのかとも思った。

 でも順序的に、ソレは多分勘違いだろう。

 というか、この“儀式”。

 順番に数字が揃う事自体がおかしいのだ。

 サイコロを振って、六から一まで順番に出る確率って、いったいどれ程低いモノなのだろう。

 今までは“噂箱”から聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるような“噂話”ばかり気にしていたが、巡目もおかしいのだ。

 それに気づいた頃には“壱”が出ており、更にサイコロを振らされた。

 そして目の前にあるのは“零”の数字。

 なんだろう、凄く嫌な感じがする。

 振ってはいけない牌を投げ捨てた様な、いわゆる“やってしまった感”が凄い。

 友だちが居ない私としては、ネットゲームの麻雀とかでしか経験のない代物だが……それでも、何か不味い気がする。

 なんて事を考えている間にも、“噂箱”は震え始める。


 『ねぇ知ってる? 神庭治さんの話』


 『なんでも親が再婚な上、妹が訳ありなんでしょ? そのせいで一人暮らしとか』


 『何それ、ちょー恵まれてんじゃん。 羨ましー』


 それはさっき聞いた複数の声の主と同じだった。

 しかも、好き勝手な事を言ってくれている。

 恵まれている? 羨ましい? どこが。

 何を見て、そう判断しているのだ。


 『ねぇねぇ、そしたらさ、今度声掛けてみようよ』


 『どしたの急に。 あ、もしかして同情でもしちゃった?』


 『んな訳ねぇー。 高校の時からひとり暮らしとかしてんのに、アイツいつもブスッとしてんじゃん? 私は不幸ですよーみたいなオーラ出して』


 いつ出したよそんなオーラ、言ってみろよ。

 聞けば聞くほどイライラしてくる。

 というかコレ、私がアイツらを殴る前の話だろうか?

 声掛けてみる、とか言ってたし。


 『あぁー分かるかも。 しかもアイツ何気に結構コクられてるんじゃなかったっけ? あんなのの何が良いんだか』


 『それで余計調子乗ってるんじゃない? そんで? 何で声掛けるかって発想になった訳?』


 『ぶっちゃけ神庭治自体はどうでもいいんだけど、要は部屋よ部屋。 自分ん家鬱陶しい時とか、皆でたむろ出来る場所欲しくない? そ・れ・に、彼氏と良い事する時とかに部屋貸してもらえばさ?』


 『あぁね、確かにソレはいいかも! ていうかお前今彼氏いねぇだろ』


 ギャハハ、としか表現できない笑い声がいくつも上がる。

 正直に言おう、ぶん殴っといてよかった。

 何だこいつ等、頭の中腐ってんのか?

 フツフツと沸き上がる怒りで、握った拳がプルプルと震えている。

 先程店主が「下らない」と言った意味がようやく分かった。

 こいつ等が求めていたのは“部屋”だ。

 タダの遊び場欲しさに私にすり寄り、そして私を激高させる言葉を吐いて来たのだ。

 相手はこちらを気遣う“つもり”のセリフを用意して来たのだろう。

 確かに私の様な年齢なら、家族を疎ましく思う人も多い。

 だが全員が全員そうだという訳では無いのだ。

 あの時相手は「そうなんだよ、私も困っててー」とか返してくれるとでも思っていたのだろう。

 残念ながら、ソレが私の地雷だった訳だが。


 「さて、美鈴ちゃん? ココまで聞いた訳だけど、殴った事……後悔してる?」


 答えが分かっているであろうに。

 意地悪な店主はニコニコしながら、こちら質問を投げかけて来た。


 「殴った事自体は悪いと思ってる。 でももう一回殴りたい気分」


 「一般的に暴力はダメだからねぇ、そこは抑えよっか。 また君が悪者になっちゃうよ? でも気持ちは分かる」


 ペシペシと軽く頭を叩かれて宥められてしまった。

 もちろんもう一度殴りに行くつもりはない、けど……こういう話を聞かされれば腹も立つ。

 そもそも私は家族を馬鹿にされたから怒った訳だけど、相手はそもそも“そんな事”に興味が無かったというのも、これまた腹立たしい。

 というかそんなに羨ましいならバイトでもして金稼げよ!

 家賃と光熱費分くらいなら、頑張れば学生バイトでも貯められんぞ!

 まぁ、遊ぶ金は残らないかもしれないけど。


 「ま、結局悪意を振り撒く“人”なんてこんなモノだよ。 求める事しか考えていない、そもそも相手の事なんて考えてもいない。 だからこそ、君が今更後悔する必要はないんじゃないかな? あ、暴力を肯定している訳じゃないよ? 今度はちゃんと“お口”で勝負しようね?」


 「わ、わかってるよ……」


 思いっ切り子供扱いされてしまい、思わず顔が熱くなる。

 私に対して、こんな風に気兼ねなく接してくる相手は随分と久しぶりだった。

 両親や妹ならまだしも、それ以外の場所では大人だって私の事を毛嫌いする様な眼差しで見てくる。

 まあ、見た目と目つきが悪いせいなんだろうが。

 なんて事を思いながらモジモジしていると、目の前に転がっている“噂箱”とやらが、再びカタカタと振動し始めた。


 「え? もう終わったはずじゃ……?」


 「ん? 何言ってるの美鈴ちゃん。 これからだよ」


 少し離れていてね? なんて不穏な言葉を残し、店主が立ち上がった。

 その間も“箱”はカタカタと揺れ続ける……というか段々と揺れが大きくなっている?

 さっきまではココまで揺れていれば“声”に変わったのに、今では箱自体が飛び跳ねる程揺れ動いている。


 「ちょ、ちょ、ちょっとっ!? 何かヤバそうなんですけど!?」


 思わず座布団から立ち上がり、店主の背中に隠れた。

 へっぴり腰になりながら、彼の横から“箱”を覗き見してみれば……。


 「何、アレ?」


 “箱”の上の面。

先程まで零の文字が書かれていた面が僅かに開き、黒い煙の様なモノがあふれ出ていた。

一体その質量が何処に押し込められていたのかと言いたくなる程、モクモクモクモクとどんどん出てくる。


 「最初に言ったでしょ? 噂が“怪異を作る”事もあるって。 今回は具体的な形があった訳じゃなく、ただの悪意の塊みたいなものだから……多分酷い見た目をしていると思うよ?」


 いや、何をそんな冷静に。

 などと文句を言いたくもなるが、さっきから“箱”から目が離せない。

 だって、黒い煙の奥に“何か”居るのだ。

 正確な形までは分からないけど、何かが蠢いている。


 「この“呪具”はね、別に本人に関わる噂話の内容が聞ける便利道具って訳じゃないんだ。 そもそもそんな気軽に使っていい代物でもないし。 使用するには対価が必要になるんだよ」


 「えと、もはや聞くのも怖いんだけど。 その対価って?」


 「寿命、または命なんて言われてるねぇ」


 「おっ前、何て物使わせてんだよ!」


 酷い、コレは酷い。

 そういうのは使う前に説明するべきだ。

 え、という事はなんだ? 私は寿命が減ったのか?

 それともココで死んじゃう的なアレなのだろうか?

 最初に言ってくれれば、あんな気持ち悪いサイコロ絶対に振らなかったのに。

 もはや泣きそうになりながら店主の事を睨み上げてみれば、そっちはそっちでいつもの笑顔を浮かべている。

 死ぬ前にもう一発殴っておこうかな……なんて事を考えた瞬間、慌てた様に店主は口を開いた。


 「えっとね、勘違いの無いように言っておくけど。 普通の“呪い”というのは、刃物なんかの凶器とは違うんだ。 呪った相手に不幸な出来事を起こす、相手の体調を徐々に崩すみたいな。 つまり即効性がない。 よほど強いモノなら話は別だけど、ほとんどのモノは君が家で体験したような出来事が起こるだけだよ?」


 「んん?? えっとつまり、精神的に参らせる……みたいな?」


 こんな状況で何をとは自分でも思うが、相手の言葉に思わず頭を捻ってしまった。

 不幸な出来事というのが、私の家で起きていた“怪奇現象”みたいなの指すのであれば……体調を崩すと言うのは何だろう?

 確かにあんなのが毎晩、しかも何年も続いていたら体調くらいは崩しそうだが。


 「色々と種類があるから一概には言えないけどね。 簡単なモノだと、その通り。 他には“霊”を直接取りつかせたり、もしくは憑りつかれ易い環境、精神状態にしたりと色々だ」


 「……つまり何が言いたい訳?」


 なんというか、この状況で“呪い”講座を聞いても仕方ない気がするのだが。

 だって何か目の前に居るし、寿命が減るっていうサイコロ振っちゃった後だし。


 「簡単に言うと、“コレを使うと死ぬか寿命が減る”みたいな道具って、“呪われたり元凶を呼び寄せてしまう”モノがほとんどな訳だよ。 詰まる話、何処かの名前を書かれちゃうと死んじゃうノートみたいに、即効性というか……明確に寿命を削り取るような効果はないんだよ」


 「えぇっとぉ? ゴメン、良く分かんないから“噂箱”限定で話して。 どうなるの?」


 多分店主は、呪いや呪具全体を指しながら話しているのだろう。

 だから余計に分かりづらい。

 私に必要なのは、今この状況の説明。

 そして私の行く末なのだ。


 「ごめんごめん、悪い癖だね。 この呪具はね、“本人に憑いているモノを呼び寄せる”んだよ。 元々憑いているんだから呼び寄せるも何もって思うかもしれないけど、コレは自身を差し出す代わりに相手を調べる道具。 と言ったら良いのかな? ダイスの目が小さくなればなる程、自分の事を食べていいよって言っているようなモノ。 本来は零までは振らず、大きい目の間に相手を特定する為に使うんだよ。 零まで振った君の場合……分かりやすく言うと、昨日来た怪異に対して玄関を開けた上、お茶まで出してるようなモノかな?」


 「いやそれ色々不味すぎ……あっ、もしかしてソレって。 誰かに呪われた人が、呪った相手を探す為に使う道具って事?」


 「ピンポーン、大正解。 呪った相手さえどうにかすれば、呪いが解けるのが殆どだからね」


 さっきから色々と怖い事を言っているが、各所は無視して話を進めよう。

詰まる話呪いとは精神的な毒の様なモノで、“噂箱”を使ったからと言って明確に何年分寿命が減りました! なんて事にはならない。

使った分だけ、“怪異”に自身を近づける事を許してしまう。

そして“噂箱”は数字が大きい程、代償が少なくて済むと。

零まで振ってしまった私の今の状態は非常に不味い訳で、すぐにでも殺してくださいと言っている様なモノな訳だ。

という事は、だ。


 「あのさ、それってつまり……眼の前の箱に入ってる“怪異”は」


 恐る恐る、未だ黒い煙を吐き出し続けている“箱”を指さした。

 あ、こういうのって指差さない方が良いんだっけ?


 「そうだね、君の噂から生まれた“怪異”。 出来損ないの、“蛹”と分類される怪異。 それが今まさに、差し出された君という生贄を食べに来たって訳」


 「最悪じゃん! どうにかしてよっ! ていうか幽霊って人食べるの!?」


 最悪の返事をもらい、思わず店主の服を掴んでブンブンと揺さぶった。

 さっき私が零まで振ってしまったせいで、相手は遠慮なし姿を現したという事なのか。

 昨日見た“腕”を思いだして、全身に鳥肌が立つ。

 嫌だ、あんなのに食われたくない。


 「幽霊が食べる、というか“蝕む”のは人の魂、そして精神。 食い尽くされた人間は廃人の様になったり、自殺したりと色々……おっと、もう出てくるみたいだね」


 説明の途中で店主の顔が正面を向き直り、険しい表情へと変わった。

 それにつられて、私も視線を“噂箱”に戻したのだが……。

 正直、見た事を後悔した。


 『入れて、入れてヨ』


 サイズ比的に、テニスボールより少し小さいくらい……だろうか?

 それくらいの大きさしかない“噂箱”。

 だというのに、その上部が開いて出て来たのは、間違いなく“人の腕”。

 どうやって入っていたんだと聞きたくなるが、質問しようにも声が出ない。


 『居るんデショ?』


 『ココに来れば、好きに出来るンデショ?』


 ひじの関節辺りまで這いだしてきた白い腕から生えているのは、昨日も見た唇の数々。

 それらが好き勝手な言葉溢しながら、ベラベラと喋っていく。

 間違いなく昨日のヤツだ。

 そう思いながらも、未だに動き続ける“腕”を見ていた。

 しかし。


 「ほぉ……もしかして、“噂”は校外にも広まっていたのかな? 意外と大きいね」


 何でもない様な口調で店主は語るが、私はもう震える事しか出来なかった。

 青い顔でガチガチと奥歯を鳴らしながら、必死で店主の服を握りしめた。

 なんだ、アレ。


 『あの部屋に行けバ、ワカイ女の子が――』


 『予約、とか無いノカ、ヨ――』


 明らかに学校の人ではないだろうと思われる声の数々。

 その声は、腕が完全に外へ出てから聞こえて来た。

 腕があるのだから、体もあるのだろう。

 そんな予想はしていたが……あれは?


 「言ったでしょ? 酷い見た目をしているって。 辛いなら目を逸らしていて良いよ?」


 そう言われても、もう恐怖で目が離せないのだ。

 だって腕から続けて出て来たモノは……臓器の腸? としか言えない見た目をしているグロテスクな代物。

 そこにはやはり口が開いており、好き好きに言葉を発しているのだ。

 しかも、その腸が終わりではない。

 まだ続いている、というかどんどんと“箱”から吐き出されているのだ。


 腸から始まり他の臓器、そしてまた腕。

 しかもへんな形の突起みたいなのが生えた内臓まで飛び出してきた。

 もはやテーブルの上に収まり切らず、溢れて来た臓器達はそこら中に這いまわる様にして散らばっている。

 とはいえ全て一本に繋がっているのだ、散らばっているというよりかは“散らかっている”と言った方が正しいのかもしれない。


 「コレはまた随分と……」


 「ぅ、うっぷ……」


 思わず吐きそうになった。

 動物の内臓なんて、食用の加工されたモノくらいしか見たことがない。

 ココまで生々しく、更には脈打っている代物を見るなんて始めただ。

 しかも、ホラー映画でさえコレは無いだろうというくらい、内臓に“口”が付いているのだ。

 もっと言えば、たまに腕が生えている。

 とにかくキモチワル。

 こんな物が私に憑いていたと考えると、余計に胃の中身がひっくり返りそうだ。


 『入れタ、ヤット入れた』


 『居る、目の前ニ、イル』


 『お金、持ってキタ』


 口々に声を上げるソレは、一か所に集まるように動き始める。

 ソイツの上げる声が、匂いが、そして肌に感じる生暖かい空気が。

 その全てが不快だった。

 もはや見ているのも嫌なのに、目が離せない。

 視線を逸らした瞬間に襲い掛かってきそうで、瞬きすら忘れて“ソレ”を見ていた。

 怖い、気持ち悪い、吐きそう。

 色んな感情がゴチャゴチャになりながら口を手で押さえ、もう片方の手は店主の服を必死に掴んでいた。

 体はガタガタと震え、もはやいう事を聞いてくれない。

 漏らしたり吐いたりしていない事だけが、唯一の救いだった。

 そして。


 『貴女を』


 『お前を』


 『部屋を』


 『快楽を』


 『『『頂戴?』』』


 「――ヒッ!?」


 「……おやおや、随分勝手な事を口走りますね。 “ココ”が何処なのかも知らずに」


 バッ! と音を立てて、店主が扇子を開いた。

 黒地に数々の赤い花。

 一瞬恐怖を忘れて見入ってしまいそうな程、美しい扇子だった。

 そしてその瞬間、“怪異”の動きも止まる。

 アレだけ煩かった口々が一斉に鳴りを潜め、全ての唇が閉じたのだ。

 まさに静寂、そうとしか表現できない静かな空間が一瞬のうちに出来上がった。


 「“境界”、“冥界”、“迷界”、“狭間”、“異界”。 どれかは聞いた事がありますか? ソレは“間”の世界。 この世とあの世の、どちらでもない世界。 そしてココは、俺の作った“箱庭”」


 そう呟きながら店主はゆっくりと扇子を相手へと、“化け物”へ向けた。

 そして、異常なほど冷たい笑みを浮かべながら。


 「私の掌の上で踊っているだけの小物が、“我”を通せると思うなよ?」


 パチンッ! と音を立てて扇子を閉じる。

 何でもない動作、別段変わった動きをした訳じゃない。

 だと言うのに……“怪異”の一部が、鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、スンッと音を立てて“切断”れた。


 『あぁぁぁアアァァ!』


 室内に木霊する絶叫。

 思わず耳を塞ぎたくなるような、ただただ痛みを訴えるだけの悲鳴。


 「煩い」


 今度は再び扇子を開く。

 すると先程とは違い、怪異の一部が爆発でもしたかのようにはじけ飛んだ。

 情け容赦ないとは、多分こういう事を言うのだろう。

 まるで這いずる虫を虐めているかのように、店主は次々と怪異を“壊し”はじめる。

 時には扇子を振り、時には仰ぐ。

 そしてまた開閉すれば、目の前の肉塊はどんどんと小さくなっていった。


 「ココまで磨り潰せば、多分概念も残らないだろう」


 「え、えっと……店主、さん?」


 震えながら声を掛けてみれば、彼は悲しそうな微笑みを浮かべながらこちらを振り返る。


 「ごめんね、気持ち悪いモノを見せて。 でもこういう“集合体”は、なるべく細かくしておかないと不安が残るから」


 「は、はぁ……」


 もう既に良く分からないが、コレ以上聞いてももっと良く分からなくなるだけだろう。

 兎に角このなぶり殺しの刑には、意味があったという事なのだろうか。

 ちょっと、しばらくお肉が食べられそうにないが。


 「それじゃ終わらせるね」


 そう言いながら腰を曲げ、彼は畳に手を付いた。

 同時に服を掴んでいた私も腰を折る形になったが……って、おい。

 あの残虐シーンを見ながらも、店主の服を握っていたのか私。

 思考が止まっていたとかそういうのもあるかもしれないけど、コレはちょっと恥ずかしい。

 また少しだけ顔を赤くしながらも、店主が今度はなにをやるのかと正面に視界を向けた。

 目の前にあるのは……はっきり言ってしまえば惨殺現場。

 そこら中に血や肉が飛び散り、部屋の中央に僅かな肉の塊が蠢いている。

 その塊にも唇はついているが、もはや声を上げる元気は無さそうだ。

 荒い息遣いを繰り返すだけで、こちらに何かを訴えかけてくることは無い。

 そんな瀕死の相手に向かって、店主は……。


 「“喰らえ”」


 そう呟いた。

 もう、何と表現したらいいのだろう。

 言葉と共に、空間が歪んだ? というか変な形になった?

 そうとしか言えない表現で、畳も襖もそして天井すらもぐにゃぐにゃと揺れ動き。

 そして畳だった筈の場所が、“口を開いた”のだ。

 目の前にあった肉塊の口とは違い、間違いなく獣の様な牙。

 まるで鮫の様なギザギザした大きな歯が幾つも現れ、残った肉塊を“飲み込んで”しまった。

 悲鳴を上げる間もなく、飲み込めれていく怪異。

 内側から何かが擦り潰れる様な音を響かせながら、“歪み”は元に戻っていく。


 「……今のは?」


 「俺の箱庭に、食べさせただけだよ?」


 説明にもなっていない説明を頂き、もはや「はぁ」としか答えられなかった。

 その後は何も無かったかのように元通りになる和室と、綺麗さっぱり消えてしまった血潮の痕跡。

 まるで今までの事が全て夢だったと言わても信じてしまいそうな程、“元通り”になってしまった。


 「あ、あのさ……終わったの?」


 恐る恐る店主へと声を掛けてみれば、そこにはココヘ足を踏み込んだ時と同じような、嘘くさい笑みを浮かべた男が居た。


 「えぇ、貴女に憑いた“霊”は祓いましたよ。 今日からはゆっくり眠れる事でしょう」


 普通のお祓いとかなら「本当かよ?」なんて思ってしまいそうなその台詞。

 でも先程までの光景が、未だ瞳に焼き付いているのだ。

 あの匂いが、生ぬるい温度が肌に残っている。

 だからこそ“アイツ”はさっきまでココに居たし、店主が“呪い”を殺したのも確かなんだろう。

 だからこそ、はぁぁと大きく息を吐きながら座り込んだ。


 「こ、怖かった……てか、キモかった……」


 「お疲れさまでした。 まとまった形は無いとは思っていましたけど、あそこまで醜悪な形をしているのは想定外でしたから。 よく頑張りましたね」


 そう言って私の頭に手を置いた店主に対して、ジロリと睨み上げる。

 相手は「はて?」と言った雰囲気で首を傾げて居たりする訳だが。


 「敬語は嫌だって言った、なんか気持ち悪い。 あと呼び方どうにかしろよ。 さんとかちゃんとか、色々だったぞ」


 「では神庭治さんで」


 「妹も神庭治だろ」


 「零ちゃんは零ちゃんと呼んでますから」


 「何で私だけ苗字なんだ?」


 「……じゃあどうしろと」


 呆れた様な、困った様な表情の店主をジッと見つめてみれば。

 「はぁ……」と数秒後にはため息をもらした。

 そして。


 「美鈴、お疲れ様。 終わったぞ」


 「うん、お疲れ様。 それから、ありがと。」


 何となく彼は、こっちの方がしっくりくる気がした。

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