26.Sea

一時間ほど馬車を走らせ、目的の場所についたのはもう昼前のことであった。


「アロイス王子、シャルロッテ姫、つきましたよ」


馬に乗ってきたレオナとロイクは、揃って馬から降りる。そうして馬車の扉をコンコンと叩いた。暫くしてから扉は静かに開いたがでてきたアロイスとシャルロッテの表情をみて、途端にレオナはぎょっとした顔になった。


「……姫、アロイス王子、一体何があったのですか?」

「なんでもありませんわよ?ね!」


恐る恐る聞いてきたレオナに、シャルロッテはあっけらかんと答え、同意を求めるようにアロイスに向かって首を傾げた。すっかりやつれた顔になっているアロイスは、はははと乾いた笑みを浮かべる。


「ずっとおしゃべりしていたから、お疲れになったのかしら。殿方は、おしゃべりがあまり好きではないといいますもののね」


ちなみにそう言いながらにっこりと笑ったシャルロッテは、肌はつやつやとかがやきおりすっきりとした顔をしている。


「それより、アロイス王子ご覧になって。海ですわよ!」


不意に、ぱっと腕を広げ、馬車の反対側へと走り出したシャルロッテ。それにつられるようにして、アロイスも彼女を追いかける。鼻腔をくすぐる甘い潮の香り。あたたかな陽の光が砂浜を焦がす芳ばしい香り。それらを胸いっぱいに吸い込んで、シャルロッテの背中を追いかける。そうして、すぐに止まったシャルロッテの後ろで、アロイスも立ち止まる。白い薄手のドレスを着たシャルロッテの背景に、どこまでも深い青が見えた。


青───こんなにも広く、こんなにも深い青色を、アロイスは見たことがなかった。ザザーッと響く波の音は、白い砂浜に何度も打ち付けるあの水の音だろうか。太陽が青に反射して、水面がきらきらと輝いている。

大きく息を吸い込んで、長く息をつく。それは、迸る生命の香り。海について、噂には聞いていた。それでもアロイスは自分が知っていると思っていたことは、世界のほんのわずかなことなのだと気付いた。知識として頭の中に入れること。それと、本当に知るということは全く違うのだとアロイスは悟った。

この美しい光景を、アロイスは忘れることは無いだろう。世界は、美しい。匂い、色、音、五感全てで、アロイスは「海」を感じていた。

言葉を出さず、感嘆の息を漏らしたアロイスに気付いて、シャルロッテが振り返る。アロイスの惚けた顔の中で、まるで少年のように感動で震える表情が垣間見え、シャルロッテはにんまりと笑った。


「どうですか、アロイス王子。世界は美しいでしょう?」


どこか悪戯気に笑ったシャルロッテは、アロイスに近づくとその顔を覗き込んだ。今まで海をじっと見つめていた瞳が、ゆっくりとシャルロッテにうつる。その瞳にうつる高揚感とも言える興奮した彼の顕になった感情に、シャルロッテはどきりと心臓を高鳴らせた。


「えぇ」


かすれた声でアロイスは頷く。しかしその黒々とした瞳は、シャルロッテをとらえて離さない。


「世界は美しいですね、貴女の言う通りだ」


アロイスは笑った。無邪気に笑ったその顔は、シャルロッテには随分と幼くうつった。


「…っ、これからはいつだってここに来れますわ。もし──もし、貴方が海を気に入ってくださったのならば、の話ですけれども。」


どぎまぎとしながら言ったシャルロッテ。アロイスの目線に耐えられなくなって先に目線を外したのは、シャルロッテの方だった。


「……」


言葉が返ってこないことに不審に思い、ちらりとアロイスの方を向くと、アロイスは目線を落としていた。縁どれた睫毛が、目の下に影を落としている。


「アロイス王子…?」


その様子がいつもと違うことに、シャルロッテはすぐに気が付いた。声をかければ、アロイスははっと目線を上げ、シャルロッテの揺らぐ瞳に柔く笑いかけた。その笑みは──また、仮面だった。


「……ありがとうございます。」

「アロイス様!貿易商の方がお待ちですよ!」


遠方にアロイスを呼ぶロイクの姿が見えた。その姿をとらえるや否や、アロイスはすぐに体をそちらに向ける。


「ああ、今行く!」

「……アロイス王子?」

「行きましょう、姫。視察もラストスパートです。頑張りましょうね」


誤魔化すように笑ったアロイスに、シャルロッテはうなずくしかなかった。1つ笑みを零してから、アロイスはロイクの方に走り去ってしまう。思わず手を伸ばしたシャルロッテの手は、空を切った。何故だろうか。こんなにも近くにいるのに、先に行ってしまったアロイスの後ろ姿が途方もなく遠く感じた。

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