38.海底の王子
「一族の中で黒鬼を宿した大抵の子供は殺されました。だけど、ごく稀にその子の親が、親が子を殺すという恐怖のあまり始末することが出来ず、やむをえず牢に閉じ込めたりすることがありました。そういった者たちは城の奥底で、死なないギリギリのところで息をひそめるように生き永らえさせられました。そして十九の年月が過ぎ去り、二十になるその日。その者の中で、積もりに積もった怒りや憎しみを…それを糧にしていた黒鬼が姿を現したのです。
さて……どうなったと思いますか?」
アロイスが投げかけた質問に、シャルロッテは悲痛そうに顔を歪め、わからないとでも、言いたくないとでもいうようにゆっくりと首を振った。
アロイスは皮肉じみた笑みを浮かべる。そして、一言一言を噛み締めるかのように言った。
「その者の身体と人格は黒鬼に乗っ取られました。黒鬼は血を好んだ。人々の悲鳴を、痛みを、苦しみを好みました。己が抱えた悲しみを誰も救ってはくれなかった、だから、黒鬼は復讐をしたのです。幸せな人々には『死』を。黒鬼は、見るもの問わず殺し尽しました。その者の両親、その者の姉兄、妹弟、その者に仕えていた召使いまでもが無慈悲にも無残にも殺されました。そして、城の中が血の海に染まると、今度は黒鬼は城の外にいる国民に手を出そうとしました。」
シャルロッテは黙ったまま聞いている。
「だけどそこで、その者の自我が一瞬だけ元に戻りました。その者は自分の手が真っ赤に染まっているのを見て、周りが血の匂いで埋まっているのを見て、自分がバケモノに乗っ取られたことを、そして自分がしたことを理解してしまいました。
それからのその者の行動はとても迅速でした。その者は、厨房に忍び込み、肉切り包丁を盗みました。そうして、その者は己の罪を受け入れるかのようにゆっくりと、包丁を自らの腹に突き刺しました。」
「……つまり、呪いを放置したところで、待っているのは『死』だと…そういうことですか?」
話を聞き終えてから震える声で尋ねたシャルロッテに、アロイスは笑って頷く。
「そうです」
アロイスの顔はひどく穏やかで、とても落ち着いていた。シャルロッテの方が困惑し、非常に動揺しているのにもかかわらず、アロイスは微笑みを浮かべたままシャルロッテの方をじっと見つめていた。
呪いの意味…それは、つまりアロイスに待っているのは『死』であると。
どう足掻こうとも、それは変わることのない事実だと。
シャルロッテにはそう言われている気がしてならなかった。いや、それは気のせいでもなんでもなく、事実なのだろう。
そこではシャルロッテはあることにひっかかりを感じた。そうだ、確か、アロイスの年齢は……。
「アロイス王子、貴方は確か、十九でしたわよね?」
さらに肩を震わせたシャルロッテに、アロイスは頷く。
「先ほどの話が本当ならば、もしかして呪いの期限は二十年、なのですか…?」
「そうです。」
ついにこらえきれず、シャルロッテの瞳から涙が滴り落ちた。静かに流れたその雫は、シャルロッテの頬をつたり、固く握りしめた拳の上に落ちた。
「…俺に残された時間はもうほとんどありません。こういった形で貴女にお話する前に、さっさと消えてしまえばいいと願っていましたが…それも、もう無理な話です。話したことによって、こうして貴女にまで負担を与えてしまうことをとても申し訳なく思います。」
アロイスはそう言うと頭を下げた。シャルロッテの泣き顔を見て、良心が疼いたとでもいうのか。自身の浅はかさに笑ったアロイスは、彼女の澄んだ涙から目を背ける形でうつむいた。しかし、そんなアロイスの手に、シャルロッテの手が重なった。
「そんなことは、どうでも良いのですわ。今まで『これ』を、貴方はたった1人で抱えてきたのですか?」
しゃくり上げることなく、いつもと同じ声のトーンで彼女はそう問いかける。ただ流れ落ちる涙が、彼女の動揺を表している。
彼女の問いかけに、アロイスは少し迷ったが、もうここまできて取り繕うのもおかしな話だと思い、その口を開いた。
「たった1人で、という言い方には当てはまらないと思います。この呪いの話はリラ王家の当主に代々伝わっておりました。黒鬼を宿した者が世界を破滅させないようにと、祖先から継がれてきたものです。もちろん、今まで黒鬼と共に亡くなったリラ王家の者達のことを考えれば、1人ではないと」
「そうではありません。今、現時点で、貴方は呪いをたった1人で抱え、いずれ死ぬ運命だと受け入れてきたのですか?」
アロイスの言葉を遮ってシャルロッテが言った。まっすぐな彼女の言葉にアロイスは目を瞬かせる。なるほど、そういうことか、諦めたようにクシャりと笑うと、痣で覆われたその顔を手のひらで覆った。
「…呪いは常に、一族の者の中でたった一人の男性にだけかけられます。それは、孤独との戦いです。自分のことではないにせよ、己の祖先がしでかした罪を、呪いを受け入れ、贖わなければならない。しかし、ひたすらに悔い改めたところで、待っているのは確実な『死』です」
しぼりだすかのように言ったアロイスの言葉。
その言葉は、これまでに、当主に……アロイスの父から言われてきた言葉だった。待っているのは『死』だと、それでも「生きたいか」と、問われた。死ぬための人生だとしても、たった数十年間の人生だとしても、人として、リラ王家の者として生きていたいかと。
そして俺は、答えた。
それでも『生きたい』と。
「…けど、俺は、孤独がなんだと思いました。待っているのは『死』だとしても、俺は、人として生かしてもらえる。あろうことか、二十年間も、生きることができる。貴女にとっては悲劇で終わる話かもしれませんが、俺のとってこの話は、ハッピーエンドなんですよ。俺にとって、人として生き、人として終わることができるのはとても、幸せなことです」
アロイスは、本心から笑っていた。シャルロッテにもそれがわかった。喉をついて出た声は、嗚咽か、同情か。傍から見れば哀れな話も、アロイスにとってはただの幸せな話だったのだと。
人の幸せを願い、自分の幸せを願わなかったのは、自分はもう、とうに幸せだったから。これ以上の幸せはないと、わかっていたから。もう十分に、十分すぎるほどに、この人は幸せだったのだ。
「…貴方は、幸せなのですね」
「はい。とても」
「なら、もう何も言うことはありませんわ」
シャルロッテは、目を伏せた。
零れ落ちた最後の涙は、何を思っての涙なのか、シャルロッテにはわからなくなっていた。
私が今まで考えていたことは、何一つこの人のためにならなかったのか。この人は、いま、自分が幸せだと。本気でそう考えているのに、これ以上どうして「もっと幸せになるための努力をしてほしい」などといえるだろうか。
何も言うことがないのでは無い。もう、何も言えなかったのだ。
「視察が終われば、正式な結婚式まで猶予があります。」
アロイスはすくりと立ち上がると、シャルロッテに渡していたたタオルを受け取った。
「以前も申し上げた通り、この間、またこれ以降において俺と関わらないと約束していただけますか」
「……それは、私のためにですか」
「いえ……俺のためにです」
笑ったアロイスは、再び濡らしたタオルをシャルロッテに渡した。
「ここで、最後まで平和に生きて行くには、息を殺して生きなければならないのです。貴女はいささか人目を惹きすぎる。俺とともにいると……俺にまで人の目が向くのです」
にこりと、音をたてて笑ったアロイスに、シャルロッテは鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。
「……貴女は、貴女の幸せを見つけてください。俺は、今のまま幸せに死にます」
「…わかりました。おやすみなさい。アロイス王子。」
シャルロッテは、ショックを受けた表情のまま、アロイスが渡したタオルで目を覆い、ベッドに横になった。
アロイスはろうそくの灯りを消した。静寂と闇に包まれるその刹那、シャルロッテの啜り哭く声が聞こえた気がした。身動き一つしないシャルロッテが、今何を考えているのか、アロイスにはわからなかった。
……けれど、これで俺から離れてさえくれれば。
そうすれば、きっと「幸せ」になれるだろう。
アロイスはゆっくりと瞳を瞑った。
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