36.海の底
あの人を愛した。
ほしかったのはあの人の心。
それだけだった。
私が求めたものが『なに』であるのか。
あの人は知っていた。
あの人は、私にそれをあげると約束してくれた。
私は、あの人の言葉を信じた。
愛した。
この身を捧げた。
凡てを懸けた。
『それなのに』
あの人は私を裏切った。
泣きわめき。
絶望に狂い。
悲涙で大海原を作った。
あの人は、そんな私をみて。
まるで、あざ笑うかのように離れていった。
『憎い』
『殺して、やる』
「…?!」
ぱっと見開いた視界に最初にうつったのは、オレンジ色の淡いろうそくの光だった。何度か瞬きを繰り返しているうちに、ろうそくの光だけではなく薄汚れたクリーム色の天井の存在にも気づいて、ホッと息をつく。
まるで何かに呼応したとでもいうかのように、俺はひどく狼狽していた。とまどい、驚き、恐怖、悲しみ、痛み、様々な感情が胸をよぎり、その度に心臓が早鐘を打つ。落ち着かない感情に、思わず何度も何度も深呼吸をした。
そうして、呼吸も整わないまま上半身を起き上がらせる。じめっとした汗を体中に感じ顔をしかめると、頬から落ちた汗が手のひらに零れた。
不意に、真横へ気配を感じ、俺は思わず身構えた。確認するために顔を向ければ、そこにはすやすやと寝息を立てて眠るシャルロッテがいた。
「……」
そうだ。その一瞬ですべてを思い出す。
長く長く息を吐いた。荒ぶっていた心音はおさまりつつある。思わず手のひらで顔を覆うと、アロイスは大きく息をついた。シャルロッテをみていたら、悔しい事に、心が穏やかになっていくのに気づいた。
シャルロッテを起こさないようにそっと立ち上がり、ベッドから抜け出すと、洗面台の方へ向かった。コップに水を注ぎ、一気にあおる。冷たいものを体に入れたからか、だいぶ思考がクリアになったようだ。
「……また、あの夢」
アロイスは、腹に手を当てる。
「今度は、何に呼応された?」
その問いかけは、『そこにいるもの』に向けたものだった。しかしもちろん、応えることはない。俺の体に巣食うこいつは、たまにああやって俺に夢を見させる。まるで「お前の中にいることを忘れるな」とでも、言わんばかりに。大抵は、俺が感じた「負の感情」から誘発されることが多いが、今回は何だったのだろうか。身に覚えがない。
「ちゃんと時が来たら、この身体はお前にくれてやるからさ。もう少しだけ辛抱してくれよ」
「…それは一体、どういうことですか?」
その思いもよらなかった声に、文字通り俺の息が止まった。
おいおい嘘だろ。そんな偶然、嬉しくもなんともないぞ。ひくりとひきつった頬に、アロイスは目を瞑る。そうして仕方もなしに振り向いた。
「シャルロッテ姫」
「今回ばかりは言い逃れできませんわね、アロイス王子」
アロイスはとぼけた表情のまま、ぽりぽりと頬をかく。
「…何のことでしょう?寝ぼけているんですか?夢でも見たのでは?」
「……私、俺、僕」
「はい?」
俯いて、何かをぶつぶつと言い始めたシャルロッテ。
その様子にさすがに大丈夫だろうかと、アロイスは彼女の顔を覗き込む。シャルロッテはばっと顔を上げ、アロイスを強く睨みつけた。
「一体『あなた』は何人いるのですか!?一人称はころころ変わるし、すぐに繕うし、人を小ばかにしたその態度も、だまそうとする言葉も、大嫌いですわ!!」
大声をあげたせいかはぁはぁと息を切らすシャルロッテは、まだ言い足りないのか、ぐいっと前へでてきた。
「人を何だと思っているのですか?! 自分をどうしてそんなに卑下するのですか?! 人に幸せになれと言っておきながら、どうして自分は幸せになろうとしないのですか!!!」
「ちょ、姫、声が」
「貴方を異端視する声もわかりますわ! でも、貴方はバケモノだと自分を言うだけで、具体的にどうバケモノなのかも教えてくださらない! 私を汚すとも仰いましたけど! 私はそうは思いません!! いつだって貴方は誰かのためを思って行動してくださってる!! そんな人を、どうして!バケモノだと言えますか!?!?」
「…姫」
シャルロッテの声に湿り気を感じ、アロイスは思わずシャルロッテの肩に触れた。しかし、シャルロッテは揺らぐ瞳をまっすぐにアロイスに向けたまま、唇をかみしめてアロイスを睨みつけるだけだった。固く結ばれた手は微かに震えている。それでも、彼女はアロイスの手を拒むと、そのまま続けた。
「アロイス王子――私は、貴方のことが気になるのです。まるで、いつも泣くのをこらえているように思えるのです。」
シャルロッテの言葉は、アロイスの胸に深々と刺さった。しんと揺れた脳が、急に脈打ち始めた心臓が、アロイスがずっとずっと隠してきた心が、告げている。
――これ以上は、だめだ。
もし、シャルロッテが感じているその感情の正体に気付けば、シャルロッテはどんな目に合うだろうか。それは想像を絶する結末だ。あまりにも――あまりにも悲惨すぎる。
好奇心だけだと、そう思っていたのだ。けれどその瞳に浮かぶ感情を、俺は知っている。決して、好奇心だけではないと。明らかに――シャルロッテにとって余計な――感情が混じってしまっている。
アロイスは動揺を悟られぬように大きく息を吐いた。シャルロッテに拒まれた手をもう一度彼女の肩に掛け、じっと彼女の瞳を覗き込んだ。
「……確かに、フェアではありませんでした。何も知らない貴女からしてみれば、これまでにおいて俺が貴女に放った言葉はひどく不明瞭で自分勝手なものでしかなかった。俺は、愚かだった。こんなにも貴女を混乱させてしまう事になると、気づくことができませんでした。」
だからこそ、アロイスはとても穏やかに続けた。
それが『好奇心』である内はまだ救いようがある。好奇心欲が満たされれば、勘違いであると思ってくれるかもしれない。それに、気づかせてしまったら、終わりだ。
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