35.舞姫
コンコン。
控えめなノックの音に、アロイスはハッと我に返った。やけに響いたその音に、心臓がドクんと脈打った。
「アロイス王子、大丈夫ですか?」
心底、心配しているような声だった。あのシャルロッテが……なぞとは、もう思えない。思えるはずもなかった。
アロイスは手早く服を着る。額のガーゼを隠すように、今までは上げていた髪を下ろした。鏡へもう一度目を向ければ、そこにはいつもと変わらない自分がいた。
何を血迷ったのだろう。あの姫に心動かされるなんて、それはとても愚かなことだ。姫が自分にあんな態度でいるのは、単なる好奇心と怖いもの見たさからだ。純粋すぎる好奇心と、未知なるものを開拓する喜び。そうだ、それに違いない。
自分へ言い聞かせるように心の中で呟けば不正に打つ脈が次第に正常なはやさへと戻っていく。
扉の前に立ち一つ深く息を吐く。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
「アロイス王子!」
そこには、眉を八の字にしたシャルロッテがいた。彼女はアロイスの顔を見るや否や、にこりと笑った。そのあまりにも邪気のない笑顔に、アロイスは毒気を抜かれてしまった。否…力が抜けてしまった。
「けがの具合は?顔色が悪いですが、体調はどうですか?あ、それと」
「待ってください、シャルロッテ姫。そう矢継ぎ早に言われたら、答えられるものもありませんよ。」
怯えていた自分が馬鹿みたいだ、と思いながらもクスクスと笑えば、シャルロッテは「あ、そうですわね。」と、上品に笑った。
「けが自体は大したことはありません。あと、俺の顔色はもとからこんな色ですよ」
「え…そうでしたっけ?!貴方、そんなに不健康な顔色してましたか?!」
「…嘘に決まってるじゃないですか。俺は、血を見るのがあまり得意じゃないんです…そのせいですよ。」
素っ頓狂な声を上げたシャルロッテに笑いかければ、彼女は心底不満そうに頬を膨らませた。
「意地悪しないでください」
「してません。だまされた方が悪いのです」
「……根性悪」
ぼそりとシャルロッテが言った言葉は、運悪くアロイスの耳に入ってしまった。
ぴたりと足を止めたアロイスに、シャルロッテは振り向く。にこりとそれはそれは美しく笑ったアロイスに、何かを感じたシャルロッテは逃げ腰になった。
「ダイナ妃にチクって差し上げましょうか?」
「や、やめてください。お母様はマナーに厳しい方なんです」
「さて、どうしましょうかねぇ」
「…!アロイス王子!」
笑いながらもくるりと背を向けたアロイスに、シャルロッテは慌ててついて行くのであった。
*
アロイス達は宿屋の階下に訪れていた。二階部分が宿屋になっていて、一階部分が酒場になっているらしく、丁度民衆は盛り上がりの時間を迎えているのか、とても騒がしかった。盃を上げ、皆が大声で歌を口ずさみ、そして華やかな衣装に身を包んだ女性たちがダンスを披露している。従業員たちもこぞって踊り、食事を運びながらも楽しそうに笑い声を上げている。
思った以上に人が多かったため、アロイスはいつも通りフードを被るとあまりのうるささに驚いているのか、その場に止まったままでいたシャルロッテの腕を引っ張った。
「席は空いている?」
「…はぁ、こちらへ」
フードを被ったアロイスの姿を、不審がっている従業員に口元だけで会釈をする。申し訳ないとは思うが、全ての民が自分に偏見を持たない訳ではないとアロイスは身をもって知っているのだ。これ以上傷を増やしたくはない。
今までは王城にいたからありのままで居られた。この姿のままでいなければ、むしろ不審がられてしまう。リラ王国の第一王子。それは、国の頂点である王と、王妃が決めたことだ。だからこそ、城の者達は一応は自分に仕えている。
でも、その一方で外を出れば、自分はただの異端なる存在だ。
この姿は限りなく異質で、それでいて様々な人を怖がらせてしまう。だからフードは自分と周りを守るための手段なのだ。
従業員に案内されたまま席についたアロイスとシャルロッテ。フードを被ったままのアロイスを不思議に思っているらしいシャルロッテも、答えを察しているのか何も言って来なかった。物分かりのいい彼女にアロイスは少しだけ笑うと、踊る民衆に目をやった
「活気がありますね。国民達は皆幸せそうだ」
「そうですね、私の誇りです。」
ふふん、と自慢げに笑うシャルロッテ。無意識にか、音楽に合わせて身体が動いている。ウズウズとしたその様子に、アロイスは笑ってしまった。
「踊ってきてはいかがですか?俺のことは、大丈夫ですから」
「!…いえ、そのそのようなつもりでは」
「ダンスがお得意であると、噂はかねがね聞いておりました。ぜひ見せてくださいよ。」
悪戯っぽく笑ったアロイスに、シャルロッテは瞳を丸くさせた。ちらりと踊る民衆たちとアロイスの間で何度か目を交差させる。
本音では踊りたいのだけど、建前上ってところか。
幸い民衆の視線は、ダンスと音楽に向けられている。俺という異端なる存在がここにいることを誰も気には止めていない。だから、大丈夫だろう。
「良いのです。俺に見せてくださいよ。」
ニッコリと笑って促せば、シャルロッテは嬉しそうに顔を輝かせる。
「わかりました!私に惚れないでくださいね!」
「心に留めておきます。」
と笑いながら頷けば、シャルロッテは勇ましげにダンスの輪の中へ入っていった。アロイスは、周りが口々に「あの美しい人は誰だ?!」と騒いでいるのが面白くてたまらなかった。
民衆がざわつく中で、シャルロッテは平然と微笑む。
そうして始まった軽快な音楽に身を任せ始めた。
艶やかなピアノの音と軽快なヴァイオリン、重厚なギター、人々の声……様々な音色が重なり合い、調和を生む。その中で、まるで舞姫のように踊るシャルロッテは、非常に美しかった。
天使のようにも、悪魔のようにも、美しく踊り狂うシャルロッテから目を離せないでいると、不意に従業員らしき女性に肩をたたかれた。
「?」
「サークスフィード様よりお手紙を預かりました。」
そう言いながら女性は有無をいわさずに手紙をアロイスに押し付けると、そのまま去ってしまった。
「レオナから手紙…?」
不振に思いつつも、アロイスはそっと封を切る。中身を取り出せば、そこには確かにレオナからの手紙があった。アロイスは不信感を拭えないまま、とりあえずゆっくりと手紙を読み出す。
「…王城にて不測の事態発生。予定を早め、明日帰還」
不測の事態…?
アロイスはその短い文章を、かみ砕いて理解するように何度も何度も読み返す。
何があったのか、までは書いていないということは、その不測の事態が何かまではわからないということか、それとも…。
「俺には教えられないということか」
少なくとも、レオナからの手紙ということは何か俺に関するやばいこととは思い難い。ロイクからの手紙だったら可能性はあったけども。ここから帰れば、アルント王による様々な企みが俺を襲うだろう。ダイナ妃との約束のことも、ロイクに話さなければならない。シャルロッテとは、事実上これでお別れと言っても過言ではない。
「……」
アロイスはシャルロッテの方へと目をやった。
影一つなく光り輝くその笑みは、ここにいる酒場の民衆たち全てを照らしている。皆が皆、彼女の笑顔の虜だった。その光景に無意識に息をつけば、シャルロッテがこちらを向き、にやりと笑って手招きしてきた。
おい、ちょっと待て、まさか。
「あなたも踊りましょう!」
彼女の叫んだ声に周りが、野次を飛ばす。盛り上がる周囲に、アロイスは頬をひくりとさせた。
「おい兄ちゃん!呼ばれてんぞ」
隣にいたゴツイ人に思いっきり肩を叩かれる。どうやらこの人には俺が王子だということはバレていないらしい。ガッハッハと笑う姿に、今は少しだけ殺意がわく。シャルロッテをちらりと見れば、彼女は笑ったままこちらに視線を向けたままだった。来るまで、許さないということか。
アロイスはため息をつく。仕方もなしにゆっくり立ち上がる。
そうして、周りにバレないように深くフードを被りなおすと、シャルロッテから差し出されたその手を取ったのだった。
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