◇蓼沼21◇ 漫画みたいになるわけないじゃん!

 うぐうぐべそべそと泣きながら、手の甲で乱暴にその涙を拭っていると、「これ使いなさい」と差し出されたのは、真っ白なハンカチだ。


「怖がらせて悪かったわね」


 いつものトンちゃんの声。

 その声に安心するけど、違う、きっとこれは私が泣いちゃったから、無理やり作った声なんだ。そう思って、ふるふると首を振る。


「トンちゃん、いままでごめんね」

「はぁ? 何がよ」

「私、トンちゃんのこと、女の子の友達みたいに思ってたっていうか。本当は男の子なのに」

「……まぁ、一応、男の子、だわねぇ」

「私に合わせてくれてたんだよね。それなのに怖いって言っちゃってごめんなさい。これからはさっきみたいに、男の子みたいになっても――」

「何言ってんのアンタ」

「――あいだぁっ!?」


 額をピン、とはじかれる。手加減してくれてるとは思うけど、結構痛いよぉ。


「男の子みたいとか女の子みたいとか細かいこと気にしてんじゃないわよ。でも、ま、強いて言うならこっちが素のあたしかしらね」

「……そうなの?」

「そうよ。あーぁ、らしくないことしたわぁ。ちょっと柘植つげのこと焚きつけてやろうと思ったんだけど、逆効果だったみたいだし。やっぱり漫画の様にはいかないわねぇ」

「ちょっと待って。これももしかして『ラブベタ』の……?」

「そぉよ? 本来の予定では柘植があたしから木綿ちゃんを無理やり奪還するか、あるいは木綿ちゃんがあたしのことひっぱたいて、柘植の胸に飛び込むか、だったんだけど」


 予定が狂ったわぁオッホッホ、と高らかに笑うけど、こっちはそれどころじゃない。


「もう! トンちゃんの馬鹿ぁ! そんな漫画みたいになるわけないじゃん! 私がトンちゃんのことひっぱたくわけないでしょ!」

「だからぁ、悪かったわよぅ。ちゃんと責任取るってば」

「責任って何の――おわぁ!?」


 そう言うや否や、トンちゃんは私を横抱きにして走り出した。いわゆるお姫様抱っこというやつである。


「ちょ、ちょっと何?! わわわわ、怖い! 降ろして、降ろしてえええ!」


 お姫様抱っこって女子なら割と憧れるやつだと思うんだけど、それはゆっくり歩いてくれる場合だけだと思う。うおおおお、と髪を振り乱して全力疾走されたら、キュンとときめくどころじゃない。


「柘植ぇ~!! アンタ尻尾巻いて逃げてんじゃないわよぉ~!!」

「ひ、ひえええ! トンちゃん、か、階段は危ない!! おち、落ちるぅぅぅぅぅぅぅ!!」

「落としゃあしないわよ、大事な親友ですもの! アンタはしっかりしがみついてなさい!」

「ひえええ! 私、降りて自分で走るからぁ!」

「アンタが走るよりこっちの方が速いのよ!!」

「そんなぁぁ」


 トンちゃんは風のように階段を駆け下り、誰もいない廊下を爆走した。ひゅんひゅんと風を切る音と、だんだん、という力強い足音、そして、さすがのトンちゃんでもきついらしく、はぁはぁ、という荒い息遣い。色んな音を聞きながら、私はぎゅっと目をつぶっていた。地に足がつかない状態で上下にガクガクと揺すられるのは、ただひたすらに『怖い』の一言だ。さっきトイレに行っといて良かった。


「見ぃ~つけたぁ~!!」


 その言葉と共に、キュッ、と靴底を鳴らして立ち止まる。思わず目を開ければ、さっきまでのポーカーフェイスではなく、目をまん丸にして驚いている柘植君がいた。本当に私が走るよりも速く、あっという間に玄関へと到着していたのだ。


「な……何だよ」

「ふ、ふふふ……アンタのことだから負け犬よろしく泣きながら走って逃げ帰るなんてこたぁないと思ってたのよ」

「はぁ?」

「俺は全然気にしてないしー、なんて余裕かましていつも通りに澄まして歩くだろうってこと。当たってたでしょ」

「別にそんなんじゃ」

「良いの良いの。そんなことより、はい、するわ」


 その言葉でトンちゃんは少しだけ腰を落とした。爪先が床をかすめて、ホッと胸を撫で下ろす。早く降ろしてとじたばたすれば、「暴れんじゃないわよ、このじゃじゃ馬」と舌打ちされてしまう。だけれども、お姫様抱っこってやつが思ってた以上に心臓に悪いものだとわかった以上、一刻も早く自身の足で歩きたい。


「お返しする、って俺のもんじゃないだろ。ていうか、物みたいに扱うなよ」


 柘植君は、ぷいと顔を背け、そのまま下駄箱に手をかける。ず、とスニーカーを取り出して、それをゆっくりと置く。男子も女子も外履きは乱暴に落とす人が多いけれど、柘植君はそんなことをしない。物を乱暴に扱って嫌な音を立てたりなんてことをしないのだ。その仕草がまた品があって雅だ。そう私は好意的に受け取るわけだけど、そこもまた「何か女々しく嫌」という評価に繋がったりするらしい。


「ほら、木綿ちゃん、もっかい勇気お出しなさいな。――あぁ、言っとくけど、柘植」

「何だよ」

「さっきのはまるっと冗談よ。アンタ達がじれったいから焚きつけてやろうと思っただけ。ついでに言えば、何をどう勘違いしたんだか知らないけど、昼休みのだってアンタの勘違いだから」

「そ……」

 

 そうなのか、と呟いて、柘植君はチラリと私を見た。何を聞いてどう勘違いしたのかわからないけど、とにかくこくこくと頷いてみせる。


「さ、木綿ちゃん。これ以上ややこしくなる前にバシッと言っちゃいなさいよ。まったく、どうしてこんなところまで保護者同伴なんだか」


 とん、と背中を押されて一歩前に出る。本当は私だってトンちゃんを後ろに控えさせた状態で言いたいわけではない。だけれども、正直なところちょっと心強かったりもする。一応、少し離れたところで背を向け、耳を塞いでくれている。その配慮がありがたい。


「あ、あのね、柘植君。あの、あの」

「えっと、うん」

「あのね、私ね。……ああ、さっきは言えたんけどなぁ、もう」


 分割してではあったけれど、それでもさっき一応言えたはずの言葉がまた喉の奥に引っかかって出て来ない。少し刺激を与えたら良いのかも、なんて浅はかな考えでぺちぺちと喉を叩いていると、「待って、蓼沼さん」と声を掛けられる。


「何してんの」

「あ、えっと、ちょっとうまく言葉が引っかかって出て来ないから、こうやって叩いたらつるっと出て来ないかな、って」

「つるっと、って……。たぶんそれじゃ出て来ないんじゃないかな」

「そ、そうかな。わぁ、困った。頑張れ私」


 今度は両手をぎゅっと握って、ううんううん、と力を入れてみる。何だか言葉よりも別のものが出てきてしまいそうで、これは失敗だったと早めに悟った。


「あのさ、蓼沼さん」

「な、何?」

「何か色々頑張ってくれてるところ申し訳ないんだけど」

「へ? あ、もしかしてこの後用事とかあったりした? ご、ごめんね? 急ぐね、なるべく」

「いや、別に何も用なんてないんだけど」

 

 そう言って、柘植君は、一歩分、私との距離を詰めた。


「俺が言う」

「……はい?」

「俺が言うよ」

「え? 何を?」

「たぶん蓼沼さんが言おうとしてくれてること、だと思う。思いたい」

「ええ?」


 それってつまり、私の代わりに柘植君が柘植君に告白する、ってこと? 


「そんな、悪いよ」

「悪くないよ。俺も言おうと思ってたことだから」

「そうなの?!」


 知らなかった。柘植君、そんなに自分のことが好きだったなんて。


「……何か誤解してそうな気がする」

「え? そんなことないよ、たぶん」

「あのさ、俺が言いたいのは――」


 そしてまた一歩、私に近づき、す、と手を伸ばして、私の手を取った。柘植君の手は冷えていて、それとは逆に私の手は、さっき強く握りしめたからだろう、暖かかった。それに気付いてか、小さく「ごめん」と謝られてしまう。良いよ、と言い終わらないうちに、柘植君が声を被せてきた。


「好きです、蓼沼さん」

「へ」

「蓼沼さんも同じ気持ちだと、その、すごく嬉しいんだけど」

「わ……私も、好きです」

「それなら良かった」


 そこでやっと柘植君は笑った。それまで彼のちょっと怒ったような顔や驚いた顔は見ていたけれど、笑った顔は一つもなかったから。そのことにホッとする。大口を開けて歯を見せるような笑い方ではなく、口の端をほんの少し上げて目を細めるいつもの『公家スマイル』ではあるけど、青白い蛍光灯の下で、耳まで赤くしているその様を見れば、きっと見た目以上に余裕なんてないのだろう、ということがわかって、それが何だかむずがゆい。


 なんて冷静に観察している場合ではないのだ。私もさっきから何だか顔がぼわぁっと熱い。たぶん身体中の血が全部頭の方に集まっているのだろうと思うほどに。


「蓼沼さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫って、何が?」


 正直大丈夫ではない。

 まるで水の中にでもいるみたいに、柘植君の声が何だか遠くから聞こえてくるようだ。


「顔がものすごく赤いんだけど」

「そ、そうかな。でも、柘植君だって赤いよ」

「まぁ、その自覚はある」


 頬に触れてみると、思った以上にほかほかしていたけど、自分の手も暖かいものだから、どうにも冷まらない。と。


「俺の手の方が冷えてるから」

「ふぎぇ」


 不意に両頬を挟まれておかしな声が出る。たぶん柘植君は善意でやってくれてるんだろうけど、どうやらこれは逆効果らしい。確かに頬は冷たくて気持ち良いんだけど、私の身体はそれに負けるものかとどんどん内側から熱を発生させているようだ。


「つ、柘植君。もうその辺で……」

「冷えた? まだ赤いけど」

「赤いかもだけど、も、もう大丈夫だから」


 そう言うと、柘植君はうんと小さな声で「何だ」と言って手を離した。

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