◇蓼沼1◇ いち、にいの、さん、のタイミング

「良い? いち、にいの、さん、よ?」

「う、うん。いち、にいの、さん、ね?」


 放課後の家庭科室である。

 私は、私の専属恋愛軍師であるトンちゃんこと富田林とんだばやし千秋ちあきちゃんと中央にある大きな作業台の前に並んで立っている。


 この『いち、にいの、さん』が何なのか、というと――、


 話はこの数時間前に遡る。



「つ、柘植つげ君おはよう」

「おはよう、蓼沼たでぬまさん」


 これが毎朝の私の日課である。

 何も柘植君だけに挨拶をしているわけではなく、クラスメイトには皆挨拶をしているのだが、やっぱり柘植君は特別だ。特別感を出すために、柘植君だけは必ず名前を呼ぶようにしている。けれども、そんなささやかな特別なんて当然伝わるわけもなく、柘植君は、一瞬だけ私を見たけど、またすぐに手元の小説に視線を落としてしまった。


 そこで軽く「何読んでるの?」って聞ける私なら良かった。いや、きっとちょっと前の私なら聞けたのだ。だけど、トンちゃんとあんな話をしてしまった後だから、ちょっと意識しすぎちゃって、というか。


 だから、どうにかその薄い茶色の紙カバーがうまいこと透けてくれないかなとかそんなことを考えて、表紙をじぃっと見つめてみたけど、何の情報も読み取れずじまいである。せめて表紙の雰囲気だけでも、と思ったんだけど、あのカバー、案外透けないのね。でも、書店名はわかった。それは書いてた。ハマナス書房だ。駅前のかな、それとも柘植君の家の近くにあるのかな。そんなことを考えながら席につく。


木綿もめんちゃん、おっはよ」


 と、後ろから声をかけられた。声でわかる、トンちゃんだ。一つに結わった長い髪を右肩の方に垂らしている。今日もつやっつやだ。さすがはトンちゃん。


「トンちゃん、おはよう」

「ちょっともう、見てたわよ」

「見てた? 何を?」

「いまのやりとりよ。もうちょっと会話したら良いのに」

「そんな簡単じゃないよ。第一、何を話したら良いのか、とかさぁ」


 もそもそと鞄から教科書を取り出す。


「あ」

「どうしたの?」

「教科書ない。世界史の。忘れてきちゃった」

「はぁ? またぁ?」

「うん、また」

「そういうところがね、『ヌマ子』だっつってんのよねぇ。お隣さんから見せてもらいなさいな」

「そうする。ううう、また橋場はしば君に迷惑かけちゃうなぁ」

「仕方ないわよ。それか隣のクラスまで行って借りるのね」

「だよねぇ」


 などとそんな会話をしつつ、ちらりと柘植君を見る。私の席から見える彼は、いつも横顔だ。それも、間に一列挟むので、いまみたいに隣の席の人が座っていない時じゃないとよく見えなかったりする。いや、見ようと思えば見えるけれども、身を乗り出してまで見ているとお隣の橋場君に怪しまれちゃうから。


「ま、教科書は良いわ。それより昨日の続きよ」

「昨日の? ああ、刺し子の布巾ね。ああでも、部室に置いてきちゃったから放課後で――」

「違うわ! このヌマ子!」

「ひええ、ごめんなさい」

「だから! 柘植の件よ」


 トンちゃんが背中を丸め、ぐっと顔を近づけて声を落とす。ああ、そっか、そうだった。


「ごめんごめん。それで、うん、ええと、はい」

「あのね、いまのやり取りを見てて思ったんだけど」

「はい」

「木綿ちゃん、アンタ、柘植の視界に入ってないんじゃない?」

「……はい?」

 

 目の前にいるトンちゃんは、片眉を下げ、何とも言えない表情をしている。なんていうか、こう、憐み……のような。


「もしね。もしも、よ? もし、少ぉーしでも木綿ちゃんのことを意識っていうかね? 多少なりともよ? 他の女子とは違うっていうならね? もうちょっとでもしっかりと視線を合わせるなり、もう一言くらい会話があるんじゃないかって思うわけよね」

「ああ――……はい、確かに」


 それはね、私も思ってた。

 何かこう……その他大勢も良いところだな、って。それはね、思ってた。


「だからつまり、仕切り直さないといけないと思うのよ、あたし」

「仕切り直し? おはようテイク2ってこと? いまからもう一回言ってくれば良い?」

「馬鹿ね。不自然すぎるでしょ」

「それじゃあどうしたらあああああ」


 頭を抱えてぐねぐね動いていると、丸めたプリントでぺこんとおでこを叩かれた。


「あいたっ」

「痛いわけないでしょ、ちゃんと手加減したわよ。もう、変な動きしないでよね。こっちが恥ずかしいじゃない」

「ご、ごめんトンちゃん」


 アンタもう黙ってこれ舐めてなさい、とトンちゃんは私に飴玉を握らせてきた。トンちゃんのポッケの中であったまっていたその飴は、桜餅味のやつで、中にあんこゼリーが入っている。


「まずはしっかりと柘植の視界に入ることが大切だと思うのよね」

「もす」

「相変わらず何か食べてる時の木綿ちゃんの相槌って可愛いわぁ。それでね。だから、とりあえず四月の『初めまして~』は一旦なかったことにして、もっと劇的に出会うわけよ」

「もす!?」

「そこでガツーンと印象付けるわけ。まずはそこからだと思うのよね」

「もすもす! もす!」


 成る程! 仕切り直しってそういうことね! さっすがトンちゃん!!


「というわけで、今日、練習するわよ!」

「……もす?」


 練習?

 何の?



 というわけで、その日の放課後、私とトンちゃんは家庭科室でその『練習』をしているのである。


「でも、これっていつどこでやるの?」

「良いの、木綿ちゃんの場合、まずはしっかりタイミングをつかむことが大切なのよ」

「は、はいっ」

「行くわよ、もう一回。いち、にいの?」

「さんっ、はいっ!」


 この『いち、にいの、さん』ってやつは個人的に2パターンあると思うのだ。

 すなわち、『いち、にいの、さん』の『さん』と同時に飛び込むパターンと、それから、『さん』を聞いてから飛び込むパターンである。どうやらトンちゃんのイメージは前者で、私は後者の方だったらしい。


「っダ――――――――!! 違う! ちっがぁうっ!」

「え? あれれ? どうして?」

「どうしても何も! 『さん』で来なさいよ!」

「えええ、そうなの? そのパターン?」

「そのパターンって何?!」


 というような練習を何度か繰り返し、やっとトンちゃんからのOKをもらった頃には、もう五時を過ぎていた。


「まぁ、とりあえず、形にはなったわね。全く、そこが可愛いところとはいえ、木綿ちゃんってばほんとどんくさいわぁ」

「そこは可愛くないところだよ!」

「そんなことないわよ? なんていうの? ドジっ子属性みたいな、そういうのが案外良かったりするのよ。母性に訴えかけてくるっていうか。でも、柘植に刺さるかはまた別の話だけど」

「刺さるわけないじゃん。うううう」

「安心なさい、あたしには刺さってるわ」

「トンちゃんに刺さっても!」


 しょんぼりと肩を落とし、家庭科室を出る。

 

 柘植君はクールだから、きっと、きりっとしたクールな子が好きなんだろう。手足がすらっと長くて、勉強も運動もばっちり出来て、それで、教科書を忘れるなんてこともなくて、それからえっと、何だろう。まぁとにかくそういう子の方が並んでもずっと絵になる。私みたいなのは全然似合わないんだろうな。


 そんなことを考えて背中を丸めていると、ちょうど背骨の真ん中あたりを、トンちゃんが拳でコツコツと叩いてきた。


「猫背は可愛くないわね。ほら、しゃきっと!」

「しゃ、しゃきっ!」

「馬鹿ね。口だけで言ってもしょうがないでしょ。ほら、胸張って!」

「は、はぁい!」


 拳で背骨をぐい、と押され、慌てて背筋を伸ばす。


「自信持ちなさいよ、木綿ちゃん。アンタはね、結構可愛いのよ」

「そうかなぁ」

「そうよ? 小動物みたいで」

「小動物みたいで……?」

「そうそう。餌を与えたくなるわね、無限に」


 やめて、太る! と一応言ったものの、手品師みたいに、右手をくるりんぱってして桜餅の飴を出されてしまったら、それは受け取らざるを得ないし、食べざるを得ない。だってちょっとお腹空いたし。それ好きだし。


「大丈夫よ木綿ちゃん。今日みっちり練習したんだから。明日実戦よ? 良いわね?」

「も、もす!」


 右の拳を高く上げてそう返すと、トンちゃんは、「やっぱり何か食べてる時の木綿ちゃんって良いわぁ」と言って、楽しそうに笑った。

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