◆柘植2◆ もし仮にこれが恋愛映画だったなら

 蓼沼たでぬまさんと富田林とんだばやしがいつものようにじゃれあいを始めた。さすがにそこに加わることは出来ず、歩くペースを速める。


『いっつもどこにもしわなんか作らないで澄ました顔しちゃって』


 歩きながらふと思い出すのは、富田林の言葉だ。

 澄ましている自覚はあんまりなかったんだけど、確かに、顔にしわを作るような表情はしていなかったかもしれないと思う。もちろん俺だっておかしい時は笑うし、眉を寄せることもある。けれどもそれを例えばクラスの中で日常的に行っているかというと、疑わしいところだ。


 でもむしろ、腹を抱えるほど面白い出来事があるわけでもないんだから、何もないのに顔にしわを作って大笑いしていた方がおかしいし、それは良いんだけど。


 クラス内に、仲の良い友人がいないことも原因としてあるかもしれない。この度のクラス替えで、一番仲の良かった竹谷とは離れてしまったのだ。でも、映研に行けば会えるから、わざわざ休み時間に会いに行く必要もないし、本も読みたいから、いまのこの状況に不満はない。そもそも前のクラスの時だって、四六時中竹谷とつるんでいるわけでもなかったし。


 だけど、


『もっと愛想よくしないと、木綿もめんちゃんから相手にされなくなるわよ?』


 そう言われた時、はっきりと「それは嫌だ」と思った。


 蓼沼さんは、何か不思議な人だ。

 俺なんて、彼女にしてみればクラスの中でも『その他大勢』に分類されるタイプだと思うのだが、朝、必ず挨拶しに来てくれるのである。他のクラスメイトに対しては、自席までの道中ですれ違いざまに言う程度なのに、なぜかわざわざこちらの席を経由してまでやって来るのだ。そして必ずきちんと立ち止まって、おはよう柘植君、と言う。


 例えばこれが恋愛映画だったなら、蓼沼さんは実は俺に好意を抱いていて――なんて展開が期待出来るわけだけど、そんな都合の良いことがあるわけがない。彼女はいつも明るくて、隣の席の橋場はしばともよく話してて、それで、富田林とよくじゃれている。ちょっと派手な女子グループの中にも、自分の世界に入り込む感じの地味目なグループの中にもひょいひょいと混じっていけて、たぶん、親友ポジションは富田林なんだろうけど、クラス全員をナチュラルに『友達』だと思っていそうなタイプというか。目立つわけじゃないけど、どこにいても自然と溶け込めて、マスコットみたいに可愛がられる、そんな存在だ。


 そんな天真爛漫な彼女に正直惹かれる気持ちはあるけれど、きっとそれは俺みたいなのが抱いて良いものではないはずだ。そう思って、蓋をしていたのかもしれない。


 だけれども、もし、俺がこのまま自分を変えずにいたとして、それで蓼沼さんが遠くに行ってしまうのは寂しい。

 

 ちょっとくらい、しわを作ったっていいんじゃなかろうか。そうは思うものの、表情筋が既に固まってしまっているのか、何だかぎこちなくなってしまう。この固まった頬をいくら揉んだところで、自然に笑える自信もない。最も、『自然に』なんて意識した時点で不自然なわけだけど。


 

 誰にというわけでもなく「おはよう」と言いながら教室に入ると、数人が俺を見て、おはよう、と返してくれる。英語の宿題やった? であるとか、なぁ昨日のドラマ見た? などとすれ違い様にかけられた言葉をぽつぽつと返し(宿題はやったし、ドラマは見ていない)、席に着く。英語の宿題のことを聞いてきた田村が「頼む、見せて!」とついてきたので鞄からノートを出して渡す。授業が始まる前に返して、と言うと、やけに芝居がかった口調で「恩にきるぜぇ」とこちらを拝む素振りをした。


 一昨日買った小説を取り出して、いざ読まん、とページを開いたタイミングで、一連のやり取りを見ていたらしい隣の席の橋場はしば武樹たけきが、「柘植は太っ腹だな」と苦笑する。


「何が」

「宿題。あんなあっさり見せてやるとか」

「もったいぶっても仕方ないだろ」

「いや、だってさ。アレ結構時間かかったじゃん。それなのに。ずるい、とか思わないわけ?」

「別に」

「まぁ、柘植が良いなら良いけどさ。俺はそこまで聖人ではいられないなぁ」

「俺も聖人じゃないよ」

「いいや、柘植は聖人だ。昨日は蓼沼さんのためにウェットティッシュまで出してたし」

「あれはたまたま鞄に入ってたから」

「たまたまで鞄に入ってるようなもんでもないだろ、ウェットティッシュなんて」

「そうかな」


 いや、あれは本当にたまたまだったんだ。あれは小暮んトコのハマナス書房でもらったやつだから。対象の小説を含めて何冊か買うともらえる、っていう。


「いや、柘植は聖人だ。お前、誰にでも優しいし」

「そうでもないよ」

「クールだけど、意外と情け深いっていか」

「クールでもないし、情け深くもないよ。根暗なだけじゃない?」

「別に柘植は根暗でもないと思うけどな」


 そう言うと、橋場はちょうど目の前を通り過ぎた女子におはようと挨拶をした。委員長の工藤五十鈴くどういすずだ。彼女は急にかけられた挨拶に驚いた様子である。ちょっと顔を赤らめつつぎこちなく返す様を見ると、何だか橋場に対してクラスメイト以上の感情を持ち合わせているように思えた。橋場の方は平常通りだったが。


 今度こそ、と本を開く。

 別に何かが起こることを期待して、というわけではないものの、藤子とうこさんに言われた通りに書店のカバーは外している。可愛い女の子が少々きわどいポーズをしている表紙のラノベを堂々と読んでいるやつもいるから、まぁ、恥ずかしいことでもない。それにこの本の表紙は全体的に暗い色――というか、夜の森なのだ。白っぽい三日月の下、夜の森をかき分けて、抜けた先にある小さな村の明かりをじっと見つめる少女が描かれている。これがこの小説の主人公である【アンナ】だ。


 まだ序章しか読んでいないが、大まかなストーリーは何となくわかる。誰に聞いたわけでもないし、映画を見たわけでもないのに、それでも有名作というのはどこからか耳に入り込んでくるものだ。それでももちろん、それが百パーセント正確な情報というわけでもない。伝言ゲームみたいに少しずつ変わっていって、最終的には、スーパーメジャーな殺人鬼のトレードマークでもある凶器が全然違うものになっていたりもするのだ。だから、ページを飛ばしたりせずきっちりと読む。何だ全然違うじゃないか、という発見も面白い。



「――ああ、やっぱりもう着いてた。柘植君、おはよう」

「あれ、蓼沼さん。おはよう? さっきも言ったけど」


 ぱたぱたと小走りで教室に入って来た蓼沼さんが俺の机の前で立ち止まる。急いできたのか、ちょっと顔が赤い。


「気付けばいなくなっちゃってたから、びっくりしちゃった。あはは」

「ああ、ごめん。富田林と楽しそうだったから。そういや富田林は?」

「トンちゃんはね、お手洗い。さっきほら、しわが~って言ってたでしょ? 今日は乾燥しそうだからクリームもう少し塗ってくるんだって」

「……マメだなぁ」

「すごいよねぇ。私も見習わないとって思うんだけど、トンちゃんのレベルに達するのは難しそうだなぁ」


 いや、蓼沼さんが富田林あいつレベルになるのはどうだろう。蓼沼さんこそいまのままで良いんじゃないかと思うけど。富田林は……まぁ別格だから。


「蓼沼さんもそのままで良いんじゃないかな? 富田林は富田林なんだし、好きでやってるんだろうしさ」

「そうかなぁ。あっ、でもね、実は昨日初めてお風呂上りに保湿クリームっていうのを塗ってみたの。効果は……正直あんまりわかんないけど」

「そういうのって、使い続けたらわかるんじゃない?」


 確か母さんも新しい化粧品を買って試しては似たようなことを言っていたのだ。で、最後は必ず「こういうのは使い続けないとわからないのよね」なのである。


「そうだよね。一回だけじゃわかんないよね」


 蓼沼さんはぱぁっと表情を明るくさせてから、シャツの袖をまくって、目の高さに腕を持ち上げ、すんすん、と鼻を鳴らした。そして「うん、やっぱわかんないや」と笑った。

 

 そこではた、と気づくのだ。


「ああ、そうか。わかった」


 今日の蓼沼さん、何か良い匂いがする、ということに。


 今日の、というか、厳密には、昨日とはちょっと違う香りがする、というだけなんだけど。何せ、普段そんなに接点があるわけじゃない。いつもはただ一言二言挨拶を交わすだけだったのが、最近は、少しだけ近い距離にいる機会があったというだけだ。


「何がわかったの?」

 

 と、蓼沼さんは腕を構えた状態のまま首を傾げている。不思議そうに、眉を寄せて。さっきあんなやり取りがあったから、ここに富田林がいたら「ちょっとしわ!」なんて怒声が飛んできそうだなんて、ついそんなことを考えてしまいそうになる。


「蓼沼さん、今日、何か良い匂いがしたんだ。成る程、クリームだったのか」

「ほ、ほんと?!」

「何かはわからないけど、花の香り? かな?」

「えっとね、これ、すずらんなの!」

「すずらんってこういう香りなんだ。勉強になった、ありがとう」

「どういたしまして! うふふ、やったぁ!」

「やった? 蓼沼さん、一体何が……?」

「大丈夫大丈夫! あぁ良かったぁ! ふふふ、うふふふ」


 一体何が「大丈夫」で「良かった」なのかはわからないが、何やら楽しそうに弾んだ様子で蓼沼さんは自席へと向かった。


 と。


「……お前、すごいな。わざと?」


 橋場が呆れたような声を上げた。


「わざとって、何が」

「おい、わざとじゃないのかよ。無自覚? こっわ」

「だから何が」


 いや、気にするな、と言って、橋場は隣の席の蓼沼さんに「良かったね、蓼沼さん」と声をかける。そこで富田林が戻り、「あら、何かご機嫌ね、木綿もめんちゃーん」と耳につくあの甲高い声だ。


 いつもどおりの一日が始まる。

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