◇蓼沼8◇ 下の名前を呼び合うって恥ずかしい
うわうわうわうわ。
今日は一体どうしちゃったんだろう。
朝も途中までだけど一緒に登校しちゃったし、そんで、いまも一緒に帰るとか!
すごい、すごいよトンちゃん!!
角でぶつかる作戦って、こんなに効果があるんだね!
結局ぶつかってはいないんだけど、有効なんだね!!
何か雲の上を歩いているみたい。夢みたいで、ふわふわする。
「蓼沼さん?」
「は、はいっ!」
「何か、ぐらぐらしてるけど、大丈夫?」
「ぐ? ぐらぐら? してないよ! してないしてない! 大丈夫!!」
「……なら良いけど。こっち側歩きなよ。ここ、歩道ないから」
下を見ると、どうやらうっかり白線をはみ出していたらしい。そ、と肩を押されて、
「どうもありがとう」
普通、好きな子に触れられたら、ぎゃああ柘植君が私の肩にお触りしたぁ! って大騒ぎするところだと思うんだけど、私の場合、トンちゃんだけじゃなく他の友達も日常的にお触りして来るからか、その辺の耐性があるらしい。いや、たぶんもっと強めに掴まれたりすれば違ったのかもしれないけど。柘植君のお触りは、まるでたんぽぽの綿毛にでも触れるかのごとき優しさだったのだ。
「いつもね、トンちゃんからも言われちゃうんだ。もっと端に寄りなさいよ、このヌマ子! って」
何か話さないとと焦ると、口から出てくるのはどうしても自虐ネタになってしまう。本当はもっと楽しい話が出来たら良かったんだけど。ああ、こないだ古本屋さんで見かけた『これでばっちり! 気になる女性との会話術』ってやつ、やっぱり買っておけば良かった! だってあれ『男性』じゃなかったから!
「
「え? あ、うん、そうなの。ちょっとやらかしちゃってる時はね、『ヌマ子』なの。蓼沼だから、ヌマ子」
「成る程」
「あっ、でもでも、普段はね、ちゃんと下の名前で呼んでくれるよ?」
「下の名前、か。『
「ひょわぁ! 何で知ってるの?! わ、私の名前……!!」
ちょっとちょっと今日はもう何?!
心臓に悪いよ!
柘植君の口から『
ごめんね、私の心臓、今日ちょっと過剰に働かせすぎかも! ちょっと休む? ってそれだと私死んじゃうからダメだ! やっぱごめん、働いて、心臓!
「何で、って言われても……クラスメイトだし」
「あ、そ、そうだよね。そうだよねー、そう、そうだよ、そう。あはは」
まぁ、よく考えたらそうなんだけどね。
何これ、恋って全体的に心臓に悪いよ。
「蓼沼さんだって、俺の下の名前知ってるでしょ?」
「そ、それはもちろん。えと『
くぅぅっ! そして、これも心臓に悪いっ!
良いの?! 何これ! ほんと何これ! 下の名前を言っただけなのに何でこんなに緊張するし恥ずかしいんだろう!
「でしょう? 大したことじゃないよ」
「そ、そうだよね。大したことじゃないよね。でも、私の場合、漢字がね、ほら、『
「確かに、富田林が『
「よく? よく聞いてるの?」
「うん。富田林の声、大きいしよく通るから。どこにいてもすぐわかる」
「そうだよねぇ。トンちゃんの声って、何かこう……遠くまでまっすぐ届く感じだよね。こう……矢みたいにひゅって飛んできて――、私の耳にダイレクトにイン! みたいな」
「あれがダイレクトにインしたら、蓼沼さんの鼓膜破けるんじゃないかな」
「はうっ! そうかも! 保護! 鼓膜保護!」
思わず両耳を押さえる。
いまここにトンちゃんはいないのに、何だかいまにもあの「木綿ちゃーんっ!」っていう声が聞こえてきそうだったのだ。
両耳を押さえた状態で
「蓼沼さん面白いね」
いつもつんと澄ました公家顔の柘植君が、眉を寄せて笑っている。ああ、こんな風に笑うんだ、なんて思ったら、また心臓がどくどくうるさくなった。
「あ、そ、そういえば」
その音はさすがに聞こえたりしないとは思いつつも、それでもついつい声がちょっと大きくなってしまう。黙っていたら、そのうるささでこっちの頭がどうにかなってしまいそうだったからかもしれない。
「何?」
「柘植君、今日はどんな映画をプレゼンするつもりだったの?」
そうよ、私。柘植君は映研なんだから、映画の話をすれば良いんだ! ふふん、冴えてるぅー! ああ、ここにトンちゃんがいてくれたら、きっと「ナイスよ、木綿ちゃん」って褒めてくれるに違いない!
「ああ、ええとね……」
そう言って、学校指定のショルダーバッグから取り出したのは、一冊のノートだ。表紙に『映研用プレゼンノート』と書かれていて、かなり分厚い。それを「どうぞ」と手渡される。すごい、ちゃんと専用のノートとか作ってるんだ。何かたくさんいろんな色の付箋貼ってるし。出来る男って感じがする。
渡されたそれを、ぺらり、とめくってみる。
うわ、もうほんと、柘植君ってば、字がうますぎる! めちゃくちゃ読みやすい!! 私だったら、ちゃんときれいに書くのなんて最初の数行だけだよ!
「ちなみに、今日予定してたのは、その赤い付箋のやつ」
「――あ、ここだね。ええと……『午前0時、非通知』……?」
「うん」
「これはもしやホラー?」
「もしかしなくても、そうだね」
「こ、これは、血とかあんまり出……?」
「いや、これはちょっと出る。だから、蓼沼さんはやめた方が良いかも」
「ちょっと? ちょっとだけ?」
「まぁ……猟奇殺人鬼とかそういうのが出て来るわけじゃないから、ズバズバ切られるとかそういう血じゃないけど。普通に吐いたりするっていうか」
「そ、そうなんだ……あはは……」
トンちゃんの話ではどうやら柘植君はホラーが好きらしいので、きっとこのノートに書かれているタイトルはホラー映画ばかりなんだろう。ということは、きっと私が見ても、ここから話を膨らませたりなんかは出来ないはず。
ああ、私の馬鹿馬鹿。何が映画の話をすれば良いんだ! だよ。そもそも好きなジャンルが全然違うじゃん!
「蓼沼さんは、どういう映画が好きなの?」
「え? わ、私?」
「昨日はホラーもちょっと気になるとは言ってたけど、ということは、いままではそうでもなかったんでしょ? どういうのを見てたの?」
柘植君優しい!
私のために話題をホラーから変えてくれるなんて!
ああ、なんて紳士なんだろう。トンちゃん、聞いた、いまの? 柘植君が紳士です!
「ええと――、私は……」
あれっ? でも待って。
私、よくよく考えたら自分の好きなジャンルとかわかんないかも。その時面白そうって思ったやつを見るとか、そんな感じだった! ええと、どういうジャンルが多かったっけ……?
「い、色々見る、かな」
「色々見るんだ。あれは見た? 『グラスホッパーマン』の最新作」
おお、さすが映画好きの柘植君。どんどん話題を振ってくれる。
「見たよ、実は私、あれは1からずっと見てるんだ」
「良いよね、疾走感があって」
「わかる! こう、ビルとビルをジャーンプ、って飛び移ったりとか! ね!」
「そうそう。敵役も個性的だしね」
「そうそう! 私はね、2の『プロフェッサー・スクィッド』が好き!」
「ああ、デザインが良いね、あれは」
「イカ人間だもんね。お尻から十本足が生えてるとか、最高!」
「ははは、確かに。それじゃ、『グラスホッパーマン』つながりで『スチールマン』は?」
「見た見た! 1も2も! くぅぅっ、2のラストは手に汗握ったよぉ! 手に汗も握ったし、涙もとんでもないことになったよ!」
「あのラストは絶対泣かせに来てるよね。そうか、成る程、蓼沼さんは疾走感のあるアクション映画が好きなんだ」
「え?」
「違った? この感じからして『マッハタクシー』シリーズとかも好きじゃない?」
「うん、好き。全部見た」
「で、それが好きとなると、そこから派生させて……例えば『デス・スピード』とか」
「すごい! 何でわかるの!?」
「何となくだけど」
「何となくでわかっちゃうんだ! すごい!」
と、さんざんすごいすごいを連発させてから、はた、と気づく。
あれ、私、全然女の子っぽい映画見てないな? と。
待って、違う違う! 私だって恋愛映画とか見るよ! 見たよ! えーっと、ちょっといまパッと浮かばないけど、見た! 確か見た! あの、シェアハウスが舞台の……何だっけ。あーん、タイトル出て来ないよぉ! おっかしいなぁ、見たはずなのに! でも見たよ! あの、男の人と女の人が出てるやつ!
と、心の中で振るっていたはずの熱弁は、どうやらしっかりと私の声帯を通っていたらしく、柘植君はまたも拳を当てて肩を震わせていた。
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