◇蓼沼10◇ 柘植君は柘植君のままで良いんだよ

 翌朝、私は、鼻をすんかすんかと鳴らしながら、昨日と同じ時間に通学路を歩いている。


 昨日の夜、お風呂から上がって、早速あのクリームを塗ってみたのである。あんまりぬたぬたになり過ぎたもんだから、一度洗い流して再トライしたけど。


 塗っている間は何だかもう自分がとんでもなく『イイ女』に思えて、何だか無意味に照れ臭くなったりもした。で、それからずっとすんかすんかと嗅ぎ続けたために慣れてしまったらしく、もう全然匂いがわからないのだ。いや、うっすらとは香っている。けれども、こんなの絶対誰にも気付かれないと思う。


 だって朝、お父さんもお母さんも何も言わなかったし、まだ半分寝ていたお姉ちゃんを無理矢理起こして聞いてみたけど、「寝起きの人間に嗅ぎとれる匂いなんて、焼きたてのパンか味噌汁くらいなものよ」と返されてしまった。確かにそうかも。お姉ちゃん、ごめん。


 ううん、やっぱりぬたぬたにするくらいじゃないと意味ないのかな? 


 そんなことを考えながら、やはりすんすんと鼻を鳴らしていると――、


「おはよう、蓼沼たでぬまさん」

「わ、わわわ、柘植つげ君! おは、おはよう」


 私の右隣から、柘植君が、ぬ、と顔を出した。追い抜くようなスピードだったのを急に減速させて、けれども、決して無理して合わせているような風でもなしに並んで歩く。ああ、またこうやって一緒に歩いてくれるんだ、と思うと、胸の辺りがむずがゆくなる。


「今日もご飯たくさん食べてきた?」


 何か話さなくちゃと思っていると、柘植君が先に話題を振って来た。

 ああっ、すっかり食いしん坊キャラに認定されてる?! でも、確かに今日ももりもり食べてきました!


「今朝はね、えっと、そう、昨日の夕飯が湯豆腐だったんだけど」

「良いね、湯豆腐。俺も好き」

「えっ、ほんと? 良かったぁ、私もね、大好きなの湯豆腐! それでね、昨日のお豆腐がもうとびっきりのやつでね、お母さん、奮発してたくさん買ってきてくれたんだけど、それが余っちゃってね。だから、朝からお豆腐フルコースだったの!」

「お豆腐フルコース?」

「お味噌汁にも入ってたし、冷奴も出て来たし、チャンプルー? にもなっててね」

「すごいね。豆腐尽くしだ」

「だからね、今日もご飯をお代わりして――って、ああ、しまった!」


 また正直にお代わりしたことまで言っちゃった!

 もう、私の馬鹿! 少しずーつ、それとなーく小食……までは無理でも普通くらいに軌道修正しようと思ってたのに!


「しまった、って何が?」

「い、いや、あの、な、何でも……」

「そう?」

「そう、何でもないの! えっと、柘植君は? 柘植君は朝ご飯たくさん食べてきた?」

「うん。食べてきた。今日は午前中に体育があるしね。しっかり食べないと」

「あっ、そっか、体育があったんだった!」

「だからたくさん食べてきたんじゃないの?」

「うっ、うん、そう! そうなの! 体育がある時はたくさん食べないと、だよねぇ! ね!」


 そうか!

 そうやって言えば良かったのかぁ。


 ああ、しかし、体育かぁ。

 私、走っても遅いし、球技も苦手なんだよなぁ。

 ええと、今日の体育って何やるんだったかな。前回、先生なんて言ってたっけ。


「それに今日は男女合同だしね。気合入れないと」

「――え?」

「うん? どうしたの?」

「合同……だっけ」

「そうだよ。あれ? 先生言ってなかったっけ。今日は男女混合でバレーやるって」

「い、言ってたかも……。うわぁ、そうだっけ……」


 ひええ、バレーとか、私全然ダメダメなやつだ。

 神様、どうかトンちゃんと同じチームになりますように!


 南無南無と手を合わせ、必死に天に祈りを捧げていると、柘植君は不思議そうに私の顔を覗き込んできた。うわぁ、顔が近い。今日も柘植君の顔はきれいだ。


「蓼沼さん、どうしたの」

「ひえぇっ、いや、これはね、その、いま神様にお祈りを……」

「いきなり何でまた」

「どうにかトンちゃんと同じチームになりますようにって」

富田林とんだばやしと?」

「うん。トンちゃん、バレーっていうか、球技全般得意だから。どうにか助けてもらいたくて。ううう、神様仏様ああああ」

「成る程ね。……そうか、蓼沼さんは富田林を頼るのか」

「ふぇ? いま何か言った?」

「ううん。何でもない。まぁ、蓼沼さんも富田林も『タ行』で出席番号近いし、大丈夫なんじゃない? 森先生って出席番号で機械的に分けるし」

「あ、ああそうか!」

「大丈夫だよ、蓼沼さん。……俺もいるし」

「そうだね。ちょっと安心したよ。ありがとう、柘植君!」

「どういたしまして」


 そう言うと、ちょっと首を傾げて、柘植君はいつもの『公家スマイル』をしてくれた。歯を見せる感じじゃなくて、ほんの少し頬を緩めて口角を上げるだけの笑み。それが『公家スマイル』である。


 この『公家スマイル』っていうのは、私が勝手に命名したわけではなく、私以外のクラスメイト――特に男子がそう呼んでいるやつである。トンちゃんが言うには、たぶんあんまり良い意味ではないらしい。お高くとまってるとか、そういう感じなんじゃないかしらね、って呆れたように言ってた。いつもちょっとツンと澄ましたような柘植君がふわりと微笑むと、確かに『公家スマイル』なんて言いたくなるくらいにみやびな雰囲気なんだけど、私はそこがまたたまらなく素敵だと思う。だから、私としてはこれをとても良い意味として使っていきたい所存ではある。


 ふいに繰り出された『公家スマイル』に心の中で「ご馳走様でしたぁっ!」と叫んでいると、ぽんぽん、と背中を叩かれた。


「もーめんちゃん、おっはよ。ついでに柘植もおはよ」


 トンちゃんである。

 今日もばっちりうるつやの黒髪ストレートがまぶしい。右肩に乗っていたその髪の束を、ふぁさ、と背中に払うのが、すごく様になっている。シャンプーのCMみたいで。


「トンちゃんおはよう。今日も髪、きれいだね」

「うふふ、ありがとう木綿もめんちゃん。木綿ちゃんはそうやっていつも褒めてくれるから、ほんっと可愛いわぁ。ちょっと柘植、アンタはあたしに何か言うことないわけ?」

「え? おはよう」

「おはようもそうだけど! いまのやりとり見てなかったの? 木綿ちゃんはあたしの髪がきれいって褒めてくれたのよ?」

「……まぁ、きれいなんじゃない?」

「んまァッ?! かっわいくないわぁ、この子!」

「と、トンちゃん。落ち着いて」


 どうどう、とトンちゃんの背中をさする。トンちゃんはまだ「失礼しちゃう」とご立腹の様子である。


「えっと、ほら、眉間にしわ寄ってるよ? お肌しわしわになっちゃうんじゃなかった?」

 

 と、いつもは私が指摘される台詞を放ってみる。トンちゃんはその辺もすごく厳しいのだ。頬杖をつくなとか、足は組むなとか、長時間眉を寄せるなとか。


「――はっ、やぁっだあたしったら。伸ばし伸ばし、っと」


 そんなことを言いながら、眉間のしわをぐいぐいと伸ばす。

 その様子を柘植君は何やら不思議そうに見つめていた。


「何よ、柘植」

「いや、大変だなって思って」

「大変よ? 若いからってね、その若さに胡坐かいてちゃいけないの。こういうのって、後々響くんだから」

「ああ、そう」

「ま、アンタには関係なさそうだけどね。いっつもどこにもしわなんか作らないで澄ました顔しちゃって。もっと愛想よくしないと、木綿ちゃんから相手にされなくなるわよ?」

「――うぇっ?! トンちゃん?」

「木綿ちゃんからも言っておやりなさいな。アンタ、ちょぉーっと小綺麗な顔してるからってね、いつもいつも澄ましてるのは――」

「ま、待ってトンちゃん! さっきから何言ってるの?!」


 それ以上はストップストップ、とトンちゃんの口を押さえる。油断も隙もあったもんじゃない。とてもじゃないけど、この話に乗っかれるような私ではないのだ。


「ごめんね、柘植君。今日のトンちゃん何かおかしいよね?」


 トンちゃんの口を押さえたまま柘植君を見ると、彼はちょっと面食らったような顔をして、「いや」と言った。


「俺、澄ましてる自覚なかったから、指摘してくれて良かったかも。蓼沼さんに相手されなくなるのは嫌だから、出来るだけ努力するよ」


 と、早速澄ました顔でさらりと言い、両手で頬をぐにぐにと揉み始めた。マッサージだろうか。例えばその頬を揉みほぐしたら、大きな口を開けて爽やかな笑顔を振りまくような柘植君になるのだろうか。それはそれで素敵かもだけど。


 いや、柘植君がどうしても変えたいなら仕方ないけど、無理やり変えるのは違うと思う!


「待って柘植君! 柘植君は柘植君のままで良いんだよ!」

「そうかな?」

「そのままでいて! 無理にキャラ変えないで! 私はそのままの柘植君が素敵だと思う!」

「えっと……? 蓼沼さんがそこまで言うなら」

「そう、そこまで言う! だから、そのままでいよう! トンちゃんはもう余計なこと言わない!」


 もう、トンちゃんの馬鹿、と背中を拳でぐりぐりすると、「ちぇー、わかったわよーぅ」と口を尖らせた。そして、柘植君が歩くペースを速めて私達から離れていったのを見計らい、


「木綿ちゃん、なかなかやるわね」


 と言った。


 なかなかやるわねって、何が?

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