◇蓼沼9◇ トンちゃんって私のお母さんみたい

「トンちゃぁん、聞いて聞いて~!!」


 帰宅後、お母さんとお姉ちゃんの「ご飯は?」「お風呂は?」の声に曖昧な返事をして、部屋に飛び込むと、私は早速トンちゃんに電話をした。


『何よ、どうしたのよ』

「もう、すごいことが起きたんだよぉ」

『だから、何よ。とっととしゃべりなさいな』


 あたしいまパック中なんだけど、とちょっとうざったそうな声。うう、さすがはトンちゃん。お肌のお手入れとかちゃんとしてるんだね。私も見習わないと。


「あのね、今日、柘植つげ君と一緒に帰って来たの! 駅までだけどね」

『あら、良かったじゃない』

「えぇ?! ちょっともう、もう少し喜んでよぉ! 私にとっては大ニュースなんだよ?!」

『喜んでるわよ、失礼ね。あんまり大口開けたくないだけよ。言ったでしょ、パック中なの』

「うう……そうでした」

『それにね、

「え?」


 さ、そろそろ剥がそうかしら、というのんきな声が聞こえる。


「ちょっとトンちゃん? いま何て?」

『何よ。だから、パック剥がそうかしらって』

「いや、そっちじゃなくて! そうなるように仕向けた、ってやつ!」

『ああ。だって、あたしそのために今日部活行かないで帰ったんだもの』

「はぁ? どういうこと!?」


 ちょっと落ち着きなさい、ヌマ子、とまで言われ、私は、ベッドの上で正座をする。はい、落ち着きました、と言うと、トンちゃんは「あのね――」と話し始めた。


 まず、トンちゃんは二宮先生が大量のプリントを課題として出すことを知っていた。ていうか、私が知らなかっただけで、結構有名な話らしい。


 それから、そもそも私が居残りをしたのだってトンちゃんのあの一言だったのだ。確かにあの言葉がなかったら私はさっさと帰宅して家でうんうん唸りながらプリントとにらめっこをし、そして寝落ちしていただろう。


 さらに、柘植君の忘れもの。あれもトンちゃんの仕業だった。具体的にどうやったのかは教えてくれなかったが、とにかく柘植君の鞄からペンケースを抜き取り、机の中に仕込んだのだとか。待ってトンちゃん、それスリの手口!


 そして、驚くべきことに、トンちゃんは映研の『竹谷たけや』なる人物と知り合いだったのである。それとなく、「そろそろ先輩方の顔も立ててやれ」というようなメールを柘植君に送らせ、それじゃ今回は辞退しようかな、と思うように仕向けたのだとか。あっ、ちなみに『竹谷』でした。良かったぁ。


『だからね? そんな状態であの教室に行けば、よ。柘植のことだから木綿ちゃんのお手伝いをして、その流れで駅くらいまでなら送ってくれるんじゃないかと思ったってわけ』

「す、すごいトンちゃん!」


 もう私、完全にトンちゃんの掌の上で転がされてるよ! もうころっころだよ、ころっころ。


『ふふふ、この恋愛軍師トンちゃんを舐めんじゃないわよ』

「さすが軍師様ぁっ!」


 きゃあきゃあと盛り上がっているところへ、コンコン、というノックの音。スマホから少し顔を話して「はぁい」と返事すると、ぬぅ、と顔を出したのはお父さんだ。


木綿ゆう、ご飯とお風呂はどうするの、って母さんとあさが言ってるぞ。ご飯、今日は木綿の好きな湯豆腐だけど、食べないのか?」

「湯豆腐!?」

「今日は奮発して『久々知くくち屋』の絹ごしを買ってきたからな。好きだろ、あそこの絹ごし」

「好き! やったぁ」

「名前は木綿なのに、絹ごし派とはこれ如何に。はっはっは。じゃ、温めておくからな」


 と、私が絹ごし豆腐が好きと言うと、必ず返す台詞を吐いて、お父さんは行ってしまった。


「ごめんねトンちゃん、待たせちゃって」

『なぁによアンタ、ご飯もお風呂もまだなわけ? とっとと済ませちゃいなさい。とっとと、って言っても、良い? ご飯はよく噛んで食べるのよ? それから、お風呂の後はちゃんと保湿すること! いまは良くても後々響くんだから!』


 こないだあたしがプレゼントしたクリーム、まさかまだ開けてすらいないとかじゃないわよね?! とまで指摘され、学習机の脇にかけっぱなしになっていたビニール袋を思わず見る。ごめんトンちゃん、そのまさかでした。


「大丈夫、ちゃんと塗るよ。ていうかトンちゃん、私のお母さんみたい」

『何言ってるのよ。アンタのお母様を名乗るなんておこがましい真似出来ないわよ。――ま、強いて言うなら、小姑ポジションってやつかしら』

「えぇー、小姑さんって、なんか意地悪そうなイメージだもん。トンちゃんは違うよ。優しいもん」

『あたしが優しいのは木綿ちゃんにだけよ。それじゃあね、また明日』


 また明日ね、と返すと、通話はぷつりと切れた。


 スマホを枕元に置いて、ベッドから降りる。そして、机の脇のビニール袋を手に取った。中に入っているのは、トンちゃんからもらったボディクリームだ。容器には『ボディバター』と書いてある。これをもらった時に真っ先に思い浮かべたのは、宮沢賢治の『注文の多い料理店』だ。ふらりと入った食堂で、やれ、身体にクリームを塗ってくださいだの、塩をもみこんでくださいだのと言われて、それに大人しく従っていると、自分達の方が『料理』になるところだった――っていう、あれである。


 だから、そのまま私はトンちゃんに言ったのだ。


「これ塗ったら、私、最終的にはトンちゃんに食べられちゃう感じ?」と。


 トンちゃんは何かものすごくびっくりしたような顔をして(あれが『鳩が豆鉄砲を食ったような顔』ってやつなのかもしれない)、それから、吹き出した。ばっかねぇ、そんなこと万に一つもないわよ、って。


 そりゃあそうだよね。

 よく見たらこれ、『すずらんの香り』って書いてるもん。普通、すずらんの香り付きのバターなんてないよね。バターはあの風味が良いんだから、すずらんの香りは好きだけど、だからといって、バターに塗り込んで良いものでもないと思うし。


 とにかく、私にはよくわからないけど、これは身体に塗る用のバターなのだそうだ。だけど、『バター』と言うと、どうしても食べ物みたいに思えてしまうので、もういっそ『クリーム』と呼んでいるのである。


 ぱか、と蓋を開けてみると、ちょっと硬めの白いクリームから、ふわりとすずらんの香りが漂ってくる。こういうのは保湿目的だけじゃなくて、香りを楽しむものでもあるそうだ。

 クラスメイトの中には、既に香水を使っている子もいる。といっても、デパートに売ってるようなお高いやつじゃなくて、ドラッグストアで手に入るレベルの低価格のやつだ。それくらいなら、香りもそこまできつくないし、あまり長持ちもしないみたいなので、先生方から注意されることもない。体育の後の制汗スプレーとか汗拭きシートだとか、私達は結構日常的に香り付きのものを使用しているから、先生方も慣れているのだろう。


 例えば私が今日、お風呂上りにこれを使ったとして、果たして、柘植君は気付いたりするんだろうか。


 そんなことを考えてみる。

 朝イチだったらまだ香りが残っているかもしれない。


「……ちょ、ちょっとやってみようかな」


 もう一度、くんくん、と匂いを嗅いで、そう呟いた。

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