◇蓼沼6◇ 巨大ナマズかオオサンショウウオか
眠い。
そりゃそうだよ。
だって明らかに睡眠時間足りてないんだもん。
そこへ来て、この、暑くもなく、寒くもないという完璧な室温。
さらには、まるで子守唄のような先生の声。
ええと、いまの授業は何だったっけ。国語? いや、世界史? ああ、
ああもう限界かも。
駄目だとはわかっているものの、脳が、私の司令塔が休めと言っている。了解しました! ってめちゃくちゃ良い返事して、おめめブラザーズが瞼シャッターを下ろしていく。今日はもう閉店でござい。ガラガラ。えっと、私の目ってオスだったんだ。自分でもびっくり。おめめシスターズなんじゃないの、この場合。って私は何を考えてるんだ。
ああ、でも、本当に限界だわ。
大丈夫、あとでトンちゃんにノート見せてもらうもん。
だからとりあえず十分だけ。
まぁ十分と言わず、二十分でも、三十分でも――……
一体何分寝たのだろう。
うとうとと気持ちよく眠っていた私は、急に足を踏み外したような感覚に襲われた。危ない! そう思い、何かに掴まろうと手を伸ばす。すると、私の手に触れたのは、ぬめぬめとした、巨大な両生類の頭のような――、
「――ごがっ!? あひゃあ! だ、誰ですか!」
巨大ナマズかオオサンショウウオか、と悲鳴を上げて立ち上がると、目の前にいたのは、こちらをジト目で睨んでいる二宮先生である。
「誰、ですか。私、二宮
「す、すすすすみません! あの、存じ上げております、です、はいぃっ」
「かれこれ三十年ほど教師をしている者でして。それで、いまはその授業の最中なんですけどもねぇ?」
「は、はいぃ……」
「とりあえず、手、どけてもらえませんかねぇ」
「わああ! ごめんなさいっ!!」
慌てて手を放す。
ぬるりとしていたのは、二宮先生の髪に塗られている整髪料だった。
「起きましょう。そして、私の授業を聞きましょう」
「は……、はい」
二宮先生は、お年の割には――なんて言うのは失礼かもしれないけど、同年代の先生方と比べても、という意味でだけど――髪がふさふさなのだ。それを何てやつかはわからないんだけど、とにかく何かしらの整髪料でばっちりとセットしてくるのである。前髪も、サイドも、ぜーんぶ後ろに流すやつ。トンちゃんが言うには、オールバックというヘアスタイルらしい。
先生は胸ポケットから櫛を取り出し、私が掴んでしまったせいで乱れた髪を丁寧に整えた。鏡を見なくても出来るなんて、さすがは熟練の技。
あぁでも、この手、どうしよう。ティッシュを取ろうにも、右のポケットだ。だけどこのぬるぬるの右手をポケットに入れたくない。かといって左手を入れるのはちょっと難しい。いや、でもやらなくちゃ。授業に支障が出る。まず、シャープペンが握れない。
うんしょ、と身体を少し捻って、プリーツとプリーツの間にあるポケットを探す。
このプリーツスカートというのは本当に厄介なもので、ポケットの位置がわかりにくいのである。一体どのプリーツの間にあるのやら。
ごそごそやっていると、隣の席の
「ありがとう橋場君」
そう言って受け取る。
すごいなぁ橋場君、ポケットティッシュならまだしも、ウェットティッシュを持ってるなんて、私より女子力高い。
「あのね、俺じゃないんだ」
「え?」
「柘植の、それ。
「えっ、柘植君が?」
どきりとして、身体を少し乗り出すと、柘植君は、やっぱり涼しい顔をしてまっすぐに黒板を見つめていた。かさかさとウェットティッシュの袋を振ると、その音で気付いたらしく、私の方を見て、小さく頷く。
あ・り・が・と
と、口の動きだけでお礼を言うと、彼は、ふるふると首を振って、手を拭くような動作をした。それで手を拭け、ということだろう。うんうん、と首がもげそうなくらいに激しく頷き、ありがたくそれを一枚引き抜く。きゅ、きゅ、と丁寧に拭いて、きれいになった手をまた柘植君に向けて振ってみる。
真面目な柘植君は、既に黒板の方を向いていたけど、視界の隅に何かひらひらしたものが見えたのだろう、彼は、また私の方を見てくれた。
き・れ・い・に・なっ・た・よ
ううん、さすがにこれは伝わったか自信がないぞ。でもほら、手、見て見て! じゃじゃーん! おかげできれいになったよ!
そんな気持ちで右手を指差すと、柘植君は、ふふって笑ってくれたけど、すぐにちょっと困ったような顔になった。そして、私の後ろ辺りを指差し、何やら口をぱくぱくとさせている。何? 何だろう。ああ柘植君、アナタは一体私に何を伝えたいの?
「蓼沼さん」
「うひゃあ!」
ずし、と肩に何かが乗せられた感触。
教科書とか、そういう硬いものではない。
ふわりと丸みを帯びた――二宮先生の手。
「あ、あの、ええと」
「このご時世ですね、廊下に立ってろ、なんていうのは体罰に当たるとかで言えないんです。それに、それでは結局授業も聞けないわけですから、私は昔からその手の罰が嫌いでして」
「は、はぁ……」
「ですからね――」
す、と先生は腰を落として私と視線を合わせた。
きっちりと後ろに流されたぬらぬらと光る髪が気になるけど、それはなるべく見ないようにする。話はちゃんと目を見て聞くのよ、って小さい頃から言われてきたから。
大丈夫です、先生。ちゃんと話聞きます。聞いてます。
そんな思いを瞳に乗せて、まっすぐに。
すると先生は、にこりと笑ってこう言ったのだ。
「後で職員室に来てください。スペシャルな課題をお渡ししますので」と。
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