◇蓼沼7◇ アメンホテプ四世と水曜のプレゼン

「ううう。終わるわけないよぉ……」


 本当は今日も家庭科室でトンちゃんと作戦会議をするはずだったのだ。

 だけれども、ここにトンちゃんはいない。

 

 トンちゃんどころか、だぁーれもいない教室である。

 

 あの後、職員室に行くと、めちゃくちゃ楽しそうな顔をした二宮にのみや先生が、ウッキウキでプリントの束を手渡してきたのだ。どうやらそれが例の『スペシャルな課題』というやつらしい。


 何これ、もうほとんど文章しかない。

 それが、小さな字でびーっしりと上から下まで。挿絵というか、年表とかそういうのがたまに載ってるけど、九十パーセントくらいは文字。

 だけど、その文章のところどころは虫食い状態になっているのである。それを、教科書やら何やらを駆使して埋めてこい、ということなのだ。


 え?

 教科書とか見ても良いなら楽勝だろ、って?

 

 御冗談!

 だって、もう本当に細かいんだよ? この字!

 新聞かってくらいの小ささ。

 もう読むのだけでも疲れるし、さらにその問題の箇所を今度は教科書から探さなくちゃいけないとか、もうこれどんな拷問!?


 成る程、二宮先生の授業で居眠りしちゃうとこうなるのね。明日皆に教えてあげなくちゃ。絶対に寝ちゃダメだよ、こんなことになるよ、って。


 本当は家でやろうと思ったんだけど、トンちゃんの「ヌマ子、寝落ちしない自信があるの?」という一言で、私は居残りを決意したのである。当方寝落ちする自信しかありません!

 確かにここにはお布団もないし、テレビもないから、きっと家でだらだらやるよりは進んでるとは思うけど。


「これ、もしかして永遠に終わらないんじゃないかなぁ」


 そんな弱音を吐きたくもなる。


 プリントの枚数は十枚。

 いまやっと三枚目が終わったところだ。

 時刻は既に五時を回っている。


 どうしよう。

 いっそあきらめて帰っちゃおうかな。

 ああでも、居眠りのペナルティなのに、これも真面目にやらなかったら、さすがに成績に響いちゃうだろうし……。


 もう何度目かわからないため息と、それからあくびを繰り返していると――、


「あれ、蓼沼たでぬまさん? まだ残ってたんだ」

「――ふわぁおうっ!? つ、柘植つげ君! どうしたの?!」


 ちょうど口を大きく開けていたところへ、がらりと戸が開き、ぬぅ、と柘植君が顔を出した。不思議そうな顔をして、すたすたとこちらへ歩いて来る。


「ちょっと忘れものを取りに。蓼沼さん一人? 富田林とんだばやしは?」


 と、机の中からペンケースを取り出した。どうやらそれが忘れものらしい。


「トンちゃんは今日用事があるって、帰っちゃった」

「そっか。それで、蓼沼さんは何してたの?」

「えっ。……えっとぉ~」


 どうしよう。

 柘植君と会えたのは嬉しいけど、これ、めちゃくちゃ恥ずかしいやつだよね。ただでさえ皆の前で怒られて恰好悪かったのに、おまけに課題どっさり出されてるなんて(しかも全然終わってない)、これもう絶対に呆れられるやつでしょ!


「あの、あのね」


 あああでも、だからといって上手いごまかし方がわかりません! あーん、こんな時トンちゃんがいてくれたら!


「ごめんね、俺のせいで」

「ひぇっ?! 何で?!」


 柘植君がぺこりと頭を下げた。

 突然の出来事に思わずおかしな声が出る。

 ああ、脳内トンちゃんが「色気も何もないわね! このヌマ子!」って叫んでるよぉ。


「それ、今日の世界史のでしょ。俺が余計なことしたせいで」

「ちがっ! 違うよ柘植君! そもそも私が居眠りなんかしたからであって、決して、決して柘植君のせいじゃないから! むしろウェットティッシュありがとうございました!」

「それはどういたしまして。でも、大変じゃない、その量?」

「うぅ。それは……大変ですけども……」


 私、世界史苦手なんだよねぇ。いや、それじゃ他に得意な教科があるのか、って話だけど、ぶっちゃけ得意な教科なんてない。強いていえば、ちょーっとだけ国語がマシかな? って程度。自分の中ではそこそこ得意と思っていても、ずば抜けて良いわけでもないから、胸を張って得意なんて言えないけど。


 すると柘植君は、ほとんど表情も変えずに、ず、と私の前の席の椅子を引いて、それに座った。


「え」


 背もたれを抱えるような姿勢で、私の方を向いて。


「教える」

「え? お、教えるって」

「まぁ、全部は無理かもだけど。わからないところは一緒に探そう。手伝う」

「良いの?」

「良いも何も。俺から言ったことだし。それとも、迷惑だった?」

「め、迷惑だなんてそんな! むしろ柘植君に迷惑かけちゃわないかなって」

「別に。迷惑なんてことないよ」


 さらりとそう言って、プリントに視線を落とす。

 白くて細い指が文章をなぞり、空欄のところでぴたりと止まった。ええと、ここは、なんて独り言のように呟いて。


「でも、今日水曜日だよ?」


 そんじょそこらの女子よりきっと長い睫毛に見とれながらそう言うと、柘植君は、ちょっと驚いたように上目遣いでこちらを見て、数回瞬きをした。


「水曜日……だけど。それが?」

「だって映研って、水曜日にプレゼン大会があるって聞い……あっ!」


 ちょっと待って。

 私これ、普通に知ってる感じで良いのかな?

 確かにトンちゃんから教えてもらった情報ではあるけども、普通部外者ってここまで知らないんじゃあ……!


「ああ、まぁ、そうだね。映研は今日はプレゼンの日だけど。まぁ、良いんだ。俺のは先週も先々週も採用されたから。そろそろ先輩方から空気読めって言われそうだったし」

「先週も、先々週も?! すごいね、柘植君!」


 さすが柘植君! まさかそんなプレゼン能力にも長けていたなんて!

 皆の前で熱弁をふるう柘植君の姿は正直想像もつかないけど、きっと、ものすごく熱く語ったんだろうなぁ。それはちょっと聞きたかったかも。


「まぁ、その前がべたべたに甘い恋愛ものが続いてたからね。皆ちょっと刺激が欲しかっただけだと思うよ。――あ、ここ、『アメンホテプ四世』」

「えっ? あっ、はい、アメンホテプ四世、了解です」


 とんとん、と指で示された空欄に、『アメンホテプ四世』と書く。ちゃんとお手入れしてるんじゃないかってくらいにきれいな爪だ。きちんと切られているっていうのもそうなんだけど、やすりまでかけてそうだし、そもそも元々の形が良い。大きいけど、縦に長くて、先端がきれいな弧を描いている。マニキュアも似合いそう、なんて思っちゃうのは失礼かな、男の子だし。


 なんてまじまじと見ていたら、その麗しの爪の持ち主である柘植君が、パッと顔を上げて私を見た。


「詳しいね、蓼沼さん」

「ふぇ? 何が? 私、アメンホテプ四世については何も――」

「いや、アメンホテプ四世じゃなくて、映研のこと」

「へぇっ?! あ、ああ、ええとね、たまたま聞いたっていうかね、うん、そう、たまたまね、たまたま」

「そっか、たまたまか」

 

 あっぶな。

 やっぱりこれって部外者はあんまり知らないやつなんだ!

 ちょっともう私、トンちゃんがいないとやっぱダメじゃん! やっぱヌマ子じゃん! もう下手なことしゃべるな、私!


 柘植君はそれ以上追究してくるともなく、また俯いて、文章をなぞり始めた。

 新バビロニア・メディア・リディア・エジプト……と、呪文みたいなことを呟きつつ、また空欄で指を止め、ここは『ササン朝ペルシア』と言って、また視線だけを私に寄越す。

 切れ長の涼し気な目元が、いつもより大きく開いて、私をとらえる。長い睫毛に縁どられたその瞳が瞬く度、ばさり、と音まで聞こえてきそうだ。



 柘植君は全部は無理かも、なんて言ってたけど、結局ほとんど教科書には頼らずに最後まで付き合ってくれた。私は、柘植君が空欄で指を止め、ちらりと視線を向ける度に胸が高鳴って仕方がなかった。たぶんいま心臓の検査とかやったら、何かしらの病気だと疑われちゃうんじゃないかなってくらいに、脈拍が乱れに乱れたものである。


「柘植君、本当にありがとう。助かりました」

「どういたしまして」

「でも、部活行かなくて良かったの、本当に?」


 そう尋ねながら、帰り支度をする。


「大丈夫。ここ来る前に竹谷たけやに言っといたから」


 竹谷、というのが誰かはわからないけど、きっと同じ映研の人なんだろう。女子じゃないよね? 男子だよね? だよね? 


「蓼沼さんは? 家庭科部行くの?」

「ううん、今日はトンちゃんがいないから」

「富田林がいないと行かないの?」

「うーん、ウチの部って、イベントがない時の出席率めちゃくちゃ悪いんだよね。いまみたいな時期は私とトンちゃんだけなんだ。もともと部員数が少ないっていうのもあるんだけど」

「そうなんだ」

「いっつもね、トンちゃんが言うの『アンタは絶対ひとりで活動しちゃダメよ! 指の一本や二本じゃすまないんだから!』って。だから、先輩達がお休みで、トンちゃんも出られない時は、私も休んじゃう」


 ほんと私は何から何までトンちゃんに頼りっぱなしなのだ。

 前に先輩と二人で近くの小児科に寄付をするぬいぐるみを作っていた時、先輩がほんのちょっと席を外した隙にマチ針で指を数ヶ所刺した上、ロータリーカッターっていうピザを切る時のあれみたいなやつで人差し指をざっくりやったことがある。それからだ、ひとりの時に作業をするなとトンちゃんにきつく言われるようになったのは。


「それとほら、帰り道も暗くなっちゃうから。あはは」


 教室の窓から見えるのは、真っ暗な校庭だ。

 さっきまでいたはずの陸上部もいない。


「夜道の一人歩きなんて絶対にダメよ! っていっつも――」


 ちょっとだけトンちゃんの声真似(ただし似ていない)をして、おどけてみせると、柘植君は「じゃあ」と言って自分の鞄を持ち、ドアを指差した。


 そして一言、


「送ってく」


 そう言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る