◇蓼沼5◇ 朝からそんな笑顔が見られるとは!
翌朝。
校門まで数百メートル、というところで、私は、鉛のように重い身体を引きずるようにして歩いていた。
ヤバい。
完全に寝不足だ。
とりあえずお姉ちゃんに泣きついて、目の下のクマをどうにかするマッサージを教えてもらったけど、果たして効果はあったのやら。お姉ちゃんのファンデ貸そうか? とも言われたけど、私にお化粧なんてまだ早いから、って断ったのだ。おしゃれな子は、ファンデとか、色付きのリップとか、眉毛を整えたりだとか、あとマスカラなんていうのも使ってるみたいだけど、どうしても抵抗がある。たぶん私にはまだ似合わないと思う。
恐らくクマの方は何とかなってると思うけど、瞼の重さはどうにもならない。あとそれから、量産体制に入っているらしいあくびの方も。ふわぁ、ふわぁぁと休みなく、私はこの情けない声と共に酸素を体内に取り込んでいる。
確かに昨日の夜は、ホラー映画のことを色々調べてみたりして、寝るのが遅くなってしまった。
けれども、それで夜更かししてしまったというよりは、あのおどろおどろしいパッケージや、名シーン(だと思う)達が脳裏に焼き付いて、眠れなくなってしまった、というのが正しい。
明け方にやっと眠くなったのだけど、夢にまでそれらが登場してしまって、すぐ目が覚めてしまったし。この時間から二度寝すると遅刻は確実だと思い、もういっそ寝ないことにして早めの朝ご飯を食べ、いつもより早めに家を出たというわけである。
それにしても、柘植君は、どうしてこんな怖いやつが好きなんだろう。
かといって、ベッタベタな恋愛映画が好き、っていうのも確かにちょっと彼のイメージには合わない気もする。でも、じゃあ、何が合うの? って言われたら、それもわからない。コメディで大笑い、っていうのも正直想像がつかないし、じゃあ、全米が泣いちゃうようなヒューマンドラマ辺りだろうか。ああでも、柘植君の泣き顔なんて見たくないかも。いや、逆にレア? うん、それは確かに。
睡眠不足で重い頭をふわんふわんさせながら登校していると、後ろから、肩をとんとんと叩かれた。こんなことをするのはトンちゃんだな。そう思って振り向く。最高に気の抜けた「おはよぉトンちゃぁん」の声と共に。
「おはよう、蓼沼さん」
「――ぷひょおぉっ?! つ、柘植君?!」
「ごめん、
「ち、違うの! 私ったら、ちょっとぼーっとしてて」
「何か、俺でほんとごめん」
「良いの! 全然柘植君が謝ることじゃないから!!」
歩きながら、全然! 全ッ然! と顔の前で手をパタパタ振ると、柘植君は、「わかったわかった」と言って、ちょっと困ったように笑った。いつもの涼し気な公家顔が、ほんの少し緩む。わわわ、素敵すぎる。朝からご馳走様です。
「何かふらふらしてたけど、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫! もうね、私、身体だけはほんっとに丈夫なの! 今朝だってご飯を二杯もお代わりして――」
って私、何言ってんの!
女の子って小食なのが可愛いんじゃないの?! もう馬鹿馬鹿! だって朝ご飯にまさか明太子が出るなんて思わなかったんだもん! どうやらお父さんの九州土産みたい。ありがとうお父さん! やっぱり本場のは違うよ、ご飯何杯でもイケちゃうね! 不思議!
――じゃなくて!
「蓼沼さんって、結構食べるんだね。ちょっと意外かも」
ほぉ~らぁ~、呆れてるよ柘植君。絶対幻滅してる。朝はシリアルとフルーツ、それとオレンジジュースです、みたいな子が好きなんだよきっと。そうに決まってるよ。ああ、ごめんトンちゃん。せっかく作戦がうまくいきかけてるのに……。
「でも、朝はやっぱりしっかり食べないとね。俺も今朝は二杯食べてきた」
「ぅえっ!?」
ちょっと待って、嘘、まじで?!
柘植君ってもっと小食かと思ってた。だってお弁当もそんなに大きくないし。こちらこそ意外だよ、柘植君!
「そんなにびっくりされるとは思ってなかったけど」
「ご、ごめん! ちょっと意外だなーって思っちゃって」
「はっきり言ってくれるね、蓼沼さん」
「はうあ! しまった!」
「良いんだけどさ。よく言われるから」
やっぱりよく言われるんだ! それは納得!
ていうか、朝から柘植君の顔をこんなに拝めるなんてもう奇跡じゃない?! 今日、何か良いことありそう!
「あ、あの、柘植君」
「何?」
「昨日のことなんだけど」
「ああ、そうだ。ちょっと待って」
そう言うと、柘植君は肩にかけていた指定鞄の中から、手のひらサイズの手帳を取り出した。そして、その中に挟んでいたらしい四つ折りの紙を抜き取ると、それを私に差し出した。
「これ」
「これ、私に?」
「昨日言ってた、じわじわ来る系のホラー。俺、すぐ忘れちゃうから、紙に書いてきた。無理に勧めはしないけど、もし興味あったら、見てみて」
「ありがとう」
真面目! 柘植君ってば真面目!
嘘、私のために、こんなに……?!
かさり、と広げてみると、それはB5用紙くらいの大きさで、うっすらと方眼が印刷されていた。そのマス目をうまく使って、映画のタイトルが書かれている。真面目な柘植君の性格をそのまま表したような、とてもきれいな字だ。その字も髪の毛のように細くて、インクの色もちょっと青っぽい黒っていうのか、何かとにかくただの黒いボールペンで殴り書きました、って感じじゃない。文机の前にきちんと正座をして書いたような、そんな印象を受ける字だった。もう何から何までイメージ通りである。
「あっ、こ、これ知ってる。『歪神様~ユガミサマ~』」
「一時流行ったやつだね。もしかして見たことあった?」
「ううん、見たことはないけど」
昨日、ネットでタイトルを見たってだけだけど。
三年くらい前に、当時の人気アイドルが主演を務めて話題になったやつである。ちょうど大人気アニメの映画と公開が重なってしまったがために、興行収入的にはコケたと言われているらしいけど、むしろ、あのアニメと真正面からぶつかってよくそこまで健闘したな、といった評価なんだとか。
「あんまり血も出ないし、効果音とかでいきなり脅かす感じでもないから、そういうのが苦手な人でも大丈夫だと思うよ」
「そうなんだね。ありがとう」
見ると、それ以外にも昨日調べたやつがいくつか載っている。ううん、私の検索能力も捨てたもんじゃないらしい。
と。
「
ああ、これだ。
この感じがトンちゃんだ。
トンちゃんはそんな控えめに肩を叩いたりしないんだ。
もっと結構遠くから、私の名前を大声で呼んだりするのだ。それがトンちゃんだ。
いや、そのボリューム、結構恥ずかしかったりするからね?
ていうか、私の名前、
「富田林来たね。それじゃ、俺は」
「あ、うん。ありがとうね、これ」
「どういたしまして」
そう言うと、柘植君は、特に急ぐでもなく、すたすたと行ってしまった。無理に早足をしているようには見えない。すっと背筋を伸ばして、テンポよく、さっさっと。
そこで気付くのは、いままで彼が私の速さに合わせてくれていたのだということである。
「木綿ちゃん、やるじゃない。朝から柘植と登校なんてぇ」
弾んだような声を上げ、肘でつんつんと二の腕辺りをつつかれる。正直ちょっと痛いけど、私の心はそれどころじゃない。
「……トンちゃん、私ね」
「うん? なぁに?」
「私、柘植君のこと、すっごく好きみたい」
「はぁ? そんなのここ最近毎日聞いてるわよ」
「違うの。いままでのとは違うの!」
「何がよ」
「いままでの『好き』はテレビの中のアイドルのことが好き、みたいなやつだったの!」
「それじゃ、いまは?」
「なんかもう、すっ……ごい好き! いままでよりも一段上の『好き』!」
「な、成る程ねぇ。よくわからないけど、わかったわ。好きなのね、柘植のことが」
「はい!」
眠気を吹き飛ばすほどに良い返事をし、柘植君からもらったメモを生徒手帳に挟む。これはもう額に入れるしかない。家宝にせねば。
さっきまで重かった足取りも軽く、私はるんるんと校門をくぐった。
何だか新しい自分になった感じ。本当に何か良いことがありそう。成る程、この時間だと柘植君と一緒に登校出来たりするのね。よし、明日からもこの時間に登校しよう。
そんなわくわくに(小さな)胸を踊らせて。
でも、
「そういや、昨日の数学の宿題、結構大変だったわよねぇ」
「――へ?」
やはりそう上手くはいかない。
「へ? じゃないわよ。もしかして……?」
「わ、忘れてた……」
「ちょ、ヌマ子! アンタねぇっ!!」
「うう、トンちゃん、一生のお願いぃぃ~」
神様仏様
「下の名前で呼ばれちゃあ仕方ないわね。高くつくわよ?」
と笑った。
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