◇蓼沼20◇ 本当に好きなやつにした方が良いよ

「それで、どうしたの」

 

 抑揚のない、低めの声。

 柘植君はもともとそんなに感情を込めてしゃべるタイプではない。だけれども、ここ最近の柘植君は、もうちょっと柔らかかった、と思う。ここ最近、というか、今朝の柘植君ももうちょっとふんわり優しい感じがあったのだ。


「あの、今朝言ってたクッキー。今度はもっとうまく出来たから。それで、持って来たんだけど」


 しどろもどろになりながらそう言ってクッキーの入った紙袋を差し出す。

 柘植君はそれを伏し目がちに受け取って、小さく「ありがとう」と言った。

 

 ええと、ここからが本題なのだ。

 好き、って言うんだ。

 あっ、違う。あなたが好きです、って言うんだった。頑張れ、私。


「それと、あの、柘植君」


 たったの八文字を吐き出すのが、とんでもなく難しい。そんなことを知る。私はもちろんもっとたくさんの言葉を知っているし、話すことも出来るというのに、そのたった八文字が喉の奥から出て来ない。


「あのさ、蓼沼さん」


 すると、柘植君が、ひと際苦しそうな声で私の名を呼んだ。


「朝、約束したから、もらうけど。だけど、これからはさ」

「うん?」

「これからは、本当に好きなやつにした方が良いよ、こういうことは」

「え?」

「何ていうか……俺も勘違いしちゃうから」

「勘違いって、何が?」


 そう尋ねると、柘植君は、映研のドアを閉めて鍵をかけ、私の質問には答えずに歩き出した。ちょっと待ってとそれを追う。


「今日は富田林いないの?」

「い、いないわけじゃない、かな。いま家庭科室で後片付けをしてると思う」

「蓼沼さんは行かなくて良いの?」

「えっと、うん、トンちゃんがやってくれるって」


 それで、だから頑張りなさい、って送り出してくれたんだよって。そこは言えなかったけど。


「それじゃ、戻った方が良いんじゃない? もう暗いし、送ってもらいなよ」

「まぁ……そうなんだけど……。そうじゃなくて、その、私、柘植君に」

「俺に?」

「柘植君に言いたいことが」


 いつもなら歩調を合わせてくれる柘植君が、今日はすたすたと先を行ってしまうので、私は慌てて彼の腕を掴んだ。


「何」

「あの、ええと」

「歩きながらじゃダメなの?」

「ダメじゃないけど。もしかして急いでた?」

「別に。そういうわけじゃないけど」

「それじゃあ、ごめん。ちょっと立ち止まったままで、お願い、出来ますか」


 なぜか敬語になってしまう。

 柘植君は「わかった」と言って止まってくれたけど、こんなところで立ち話なんて本当は嫌なのだろう、いつでも歩き出せるようになのか、つま先が私の方を向いていない。それが視界に入るということは、つまり、私は下ばかりを見てしまっている、ということである。だって、何だか顔を見るのが怖いのだ。


「ええと、あの、柘植君」

「何」

「わた、私ね」

「うん」

「えっと、その。ええとね」

「うん」

「あ、あなたのことが――す」

「待って」


 その言葉で顔を上げると、眼前には、柘植君の大きな手があった。

 大きく開かれたその手は、別に口に当てられているわけでもないのに、そうされるとなぜか続きを話すことが出来ない。


「な、何でしょう」


 あと三文字だったのに、と残念に思いながらそう返す。指の間から見える柘植君は慌てたような顔をしていて、ちょっと赤くなっている。


「ちょっと待って。俺、いま混乱してるから」

「へ? 何で?」

「ちょっと整理させて。何だこれ」

「どうしたの、柘植君?」

「いや、まさか。俺の思い過ごし? やっぱり最後まで聞くべきだったか? だけど」


 柘植君は『待った』の姿勢のまま、もう片方の手を口元にあて、何やらぶつぶつと呟いている。


「ごめん、蓼沼さん。考えても答えが出そうにない。止めちゃって悪いんだけど、続きをお願い出来るかな」

「え? う、うん。ええと――」


 さっきは『あなたがす』まで言ったんだったよね。だから――、


「きです」

「きです? きです?」

「うん、さっきの続き」


 あっ、分割すると全然緊張しない! 案外すんなり言えたよ、トンちゃん!


「きです、きです、きです……? ああ、ええとさっきの続きなのか、これ。――えぇ? やっぱり? え、いやでも、だって。ええ、蓼沼さんってそういう人……?」


 まさか、とか何とか言って、柘植君はその場で頭を抱え、しゃがみ込んだ。

 

 えっ、一体何がどうなったんだろう。

 私何かおかしなこと言ったのかな? まぁ、おかしなことかもしれないけど、だけど、まさかこんなに柘植君を悩ませてしまうなんて!


 ど、どうしたら良いんだろう、と柘植君の頭頂部をじっと見つめる。彼は依然として、頭を抱えたまま小さく左右に揺れている。


 こんな時にトンちゃんがいてくれたら――、と思わないでもなかったけど、いつもいつもトンちゃんに頼りすぎるのもいかがなものかとは思うし。だけど、まさかこんなことになるとは思わなかったから、どうすれば良いのかわからない。


 私もその場にしゃがみ込んで、柘植君と視線を合わせる。と、彼はぎょっとした顔をして、私から視線を逸らしてしまった。ええ、どうして?!


「ちょっとちょっと、二人してしゃがんで何やってんのよ」


 そこへ天の助け登場。トンちゃんである。

 右肩から垂らしたつやつやの長い髪をさわさわと撫でながら、呆れたような顔をしている。


「富田林……っ」


 顔を上げた柘植君が忌々しそうにそう呟いて勢いよく立ち上がる。そして、なぁによ、と気の抜けた声を発しているトンちゃんと向かい合った。


「どういうことだよ、さっきの」

「何がよ」

「さっき、昼休み……っ!」

「はぁ? アンタ、何も聞いてないんじゃなかったのぉ~?」


 掴みかかるような勢いで対峙している柘植君を見下ろして、トンちゃんは、ハッ、と鼻で笑った。え、何この雰囲気。どうしよう、何だか喧嘩とか始まりそうなんだけど。もしもの時は私が止めないと、なんて思って立ち上がる。最も、本当にそんなことになった場合、止められる自信なんてないんだけど。いや、無理やりにでも二人の間に割り込んで、こう……物理的に止める、というか。そういうのだったら。


「ま、でも聞こえてたんなら話は早いわ」


 トンちゃんはそう言うと、いつ飛び出せば良いのかとタイミングを見計らっていた私を片手で引き寄せて、そのまま肩を抱いた。


「ほへ?」


 何とも抜けた声を発して、トンちゃんを見上げると、いつも私に向けるような柔らかな――といってもちょっと意地悪く細めたりもするけど――眼差しはなく、何だかきりりとしていた。トンちゃんのことを男だと思っていなかったわけじゃないけど、改めて、この、私以上に女らしい親友は異性だったのだと実感する。肩を掴む手の大きさや強さであるとか、背中に回されている腕の硬さであるとか、そんなところが主に。


「と、トンちゃん? どうしたの?」


 吹き出物ひとつない顎の辺りに向かってそう問い掛けると、ほんの少しだけ首を傾げて私と視線を合わせ、トンちゃんはにこりと笑った。そして、こほん、と咳払いをしてから、再び柘植君に視線を戻した。


木綿ゆうは、俺のことが好きなんだって」

「ほぁ?!」


 トンちゃんのそんな声、初めて聞いた気がする!

 ていうか、『俺』!? トンちゃんって『俺』とか言うんだ!

 いや、それもそうだし、いま『木綿ゆう』って言った! えー、トンちゃんから木綿ゆうって呼ばれるの何年ぶりだろ。確か幼稚園くらいまでは『ゆうちゃん』って呼ばれてた気がするけど……。

 

 いや、そんなことじゃなくて!


「ちょ、ちょちょちょ、何言ってるの、トンちゃん!?」


 そりゃあトンちゃんのことは大好きだけど、いま言ってる『好き』ってそういう意味のやつじゃなくない? そういうんじゃなくない? 


「好きだろ、俺のこと」


 肩を抱き寄せ、いつもとは違う真剣な眼差しでそんなことを言われると、何だかトンちゃんがトンちゃんじゃないみたいで心臓がばくばくする。全然知らない男の人みたいで怖い。


「好きだって言えよ」

「や、やだよぉ」

「何で」

「何でも何も! どうしちゃったの、トンちゃん!!」


 ちょっと離れようよ、とその肩を押してみるけれども、全然びくともしない。柘植君も見てるのに、これ、どうしたら良いんだろう。助けて、と訴えてみるも、柘植君も困ったように――というか、明らかに引いている。


「とりあえず、二人がそういう関係なのはわかった。ここにいても邪魔だろうから、俺は帰る」

「ま、待って柘植君!」

「富田林とお幸せにね、蓼沼さん」


 そう言って、柘植君はくるりと背を向け、歩き出した。

 いつもより早く遠ざかる背中に手を伸ばすけど、届くわけもない。待って、の言葉も聞いてくれないようだった。


「違うの! もう、トンちゃん放してよぉ!」

「何で」

「何でって……何か怖いんだもん」

「怖い?」

「こんなトンちゃん嫌だよ。どうしたの? いつものトンちゃんは本当のトンちゃんじゃなかったの……?」


 木綿もめんちゃーんって一緒に笑いあって、仲良くご飯食べたり、部活やったり、あのトンちゃんは作り物のトンちゃんだったのだろうか。


 もしそうなのだとしたら、そうさせてしまったのは私なのかもしれない。そういうトンちゃんが好きだから、居心地が良いから、甘えてしまうから、トンちゃんは本当は男の子なのに無理をして女の子みたいに振る舞っていたのかもしれない。そう考えると、彼に申し訳ないことをしてしまったと涙が込み上げてくる。

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