◇蓼沼15◇ 突然の腹痛は風邪の諸症状なの?!
トンちゃんが示した方を見てみると、そこにいたのは
柘植君はその顔のまま私達に近づいて来て、そして「大丈夫?」と声をかけてきた。大丈夫って何のこと? と一瞬思ったが、その時腹痛はピークを迎えていたため、私の右手は自然と右の脇腹に添えられていた。だからだろう。そう納得する。
「全然だい――」
「ああ良かった。良いところに来たわね」
大丈夫、と続けようとしたのをトンちゃんが割り込む。
「どうしたの」
「ちょっと
「やっぱり。大丈夫? お腹押さえてるけど、痛い?」
「えっ、いや、その」
「まぁ、その腹痛の原因の詳しいトコロについては詮索しないでもらえると助かるけど、そういうことなのよね」
ちょ、トンちゃん?
確かに『食べてすぐに走ったからお腹が痛い』なんて詮索されたくないやつだけど! 何かそれおかしな誤解されそうな表現じゃない? 具体的に何とは言わないけど!
「当番はあたしが代わるから、柘植、保健室に連れてってもらえないかしら」
「俺が? 保健委員の寺沢じゃなくて?」
「寺沢探してる時間なんてないわよ。良いからお願い。先生にはあたしから言っとくから」
「まぁ、良いけど。――行こう、蓼沼さん。歩ける?」
「あ、歩ける……」
保健室は柘植君が歩いてきた方にある。
彼がちらりと後ろを――保健室の方を見た、その一瞬の隙に、「それじゃあたし行くわね」と言ったトンちゃんが私の背中を軽く押した。本当に軽くだったけど、不意を突かれて前方によろける。
「危ない」
さすがに倒れるなんてことはなく、ちょっとバランスを崩しただけではあったのだが、私がふらついたのがわかったのだろう、柘植君は慌てて私との距離を詰め、肩を支えてくれた。そして、そのまま、右手をとられる。
「あの、深い意味はないから。ただ、危ないから。それだけ、っていうか」
「うん、ありがとう」
うう、どうしよう。
全然そこまで大事でもないのに、手まで引いてもらっちゃって。柘植君、ものすごく心配してくれてる。ていうか私、手汗大丈夫かな。柘植君の手、大きいなぁ。さすがは男子。それにほかほかで温かい。
――じゃなくて。
うわ、手ぇ繋いでる、私。柘植君と。えっ、嘘、何これ。いま何が起こってるんだろう。男の子と手を繋ぐなんて、何年ぶりかな。えっと、中学の運動会の……フォークダンス以来かも。
わぁ、すれ違う人が皆こっち見てる気がする。見てる気がするだけかもしれないけど。気がするだけかもしれないけど、そう考えると何だか恥ずかしくて顔を上げられない。
どうやら『気がする』だけじゃなかったらしく、柘植君は数人から声をかけられている。
その度に、
「蓼沼さんが具合悪くて、いまから保健室に連れて行くところなんだ」とか、
「ちょっとふらついてたから危なくて」って、説明している。
そのうちの誰かの、
「確かに顔赤いな。熱があるのかもな」
という声が聞こえて、あいている方の手で頬に触れてみると、確かにちょっと熱っぽい。えっ、もしかしてこの腹痛って食べてすぐに走ったからとかじゃなくて風邪? 言われてみると動悸もすごい。これは確実に風邪の諸症状! ああ私ったらいつの間に風邪なんて引いたんだろう。馬鹿は風邪引かないっていうけど、さては迷信?!
私は昔からどちらかというと身体は丈夫な方で、風邪なんて滅多に引かなかった。だからなのか、いざ風邪を引くともうダメなのだ。体温計の表示が三十七度を超えてしまうと、途端に重病人のようになってしまうのである。この場合のポイントは、目で見てしまう、という点だ。例え三十七度を超えていようとも、それを認識さえしなければ問題はない。ただ、体温計を見てしまったらアウト、ああ、私はもうダメだわ、お母さん助けて、おかゆも食べられるかわかりません、湯豆腐が良いですう、
「蓼沼さん、大丈夫? 着いたよ、保健室」
保健室の前で立ち止まり、柘植君がそう声をかけてくれる。けれど、もうすっかり風邪だと思い込んでしまった私は、既にぐったりしていていてそれに返すことも出来なかった。ただただこくりと頷くのみである。
「何だか悪化してるような気が。とにかく、中に入ろう。――失礼します」
ガラリと戸を開けると、ぷんと鼻につくのは消毒の臭いだ。
常日頃この保健室のご厄介になることなんてないものだから、その香りであったり、それから、どこもかしこも清潔そうな真っ白い空間が物珍しくてきょろきょろしてしまう。
と。
「あれ、先生がいない」
保険医の山本先生がいないのである。
ちょくちょく保健室を利用する学級委員長の工藤ちゃん(結構酷い貧血持ち)が言うには、山本先生はいつも保健室の奥の席で優雅にお茶を飲んでいるらしいのだが、そのお茶がえーと何だっけ、美肌がどうとか抗酸化作用がどうとか、そういう何かすごいやつなんだとか。まぁその辺は良いとして。とにかく山本先生は常にここにいるはずなのだ。だけど、人間だからトイレくらいは行くだろう。何せいつもお茶を飲んでいるわけだし。
「とりえず、利用票に名前を書いておくよ」
どうやら保健室を利用する際には利用票なるものに名前と学年、クラスを記入しなくてはならないらしい。きっと山本先生がいる時には山本先生が書くのだろうけど、いまはいないんだから仕方がない。
柘植君はあのきれいな字でさらさらと私の名前を書き上げると、それを先生の机の脇のフックに戻した。
「蓼沼さん、横になると良いよ。俺、先生が戻られるまでここにいるから。すぐ戻られるだろうし」
「う、うん」
「本当は熱を測るくらいはした方が良いのかもしれないけど、俺、保健委員じゃないから場所とかわからなくて、ごめん」
「そんな、全然良いんだよ! むしろごめんね、ここまで付き合わせちゃって。授業にも遅れちゃったし」
「まぁ、富田林が上手く言ってくれてると思うから、そこは」
もしこれが柘植君じゃなく、トンちゃんの方だったなら、私の付き添いにかこつけてサボっている、なんて思われかねない。トンちゃんはテストの点は良いんだけど、授業態度がちょっとアレなのだ。見た目が派手だとか、態度が悪いとかいう理由で目をつけている先生もいるらしい。だけど、常に真面目な柘植君ならそんなことは万に一つもない。さすがはトンちゃん、名采配。
よっこらしょ、とベッドの上に乗り、横になる。いつの間にか腹痛はおさまっていたけど、私はどうやら風邪を引いているみたいだから。山本先生が戻られたら熱を測って、それで、お母さんにお迎えに来てもらわないと。
「カーテン、閉めるね」
私の返事を待たずに、ベッドの周りとぐるりと囲むカーテンを閉められる。ああそうか、そういうのもあるのね。
「ありがとう、柘植君」
「どういたしまして」
ここでふと思い出すのは、今日のお昼休みにトンちゃんと話していた内容である。
確か、男女合同の体育はオイシイ、っていう話で、それで、気になる男子の放ったボールが直撃(しかも顔面に)して保健室に運ばれるという流れだったはず。
……ということは。
図らずも。
図らずも、そのシチュエーションになっているではないか!
もちろん、私はボールがぶつかったわけじゃないけど。
そして本当になんやかんやで先生がいない! 何このミラクル!
す、すごい。さすがはトンちゃん。まさかここまで読んでいたとは。
えっ、でも。
だとしても、だよ。
この後私ってどうしたら良いんだろう。
そのボールが顔面に直撃した女の子は保健室で何をするんだろう。トンちゃんのあの感じからすると、何か素敵な展開になりそうなんだけど。そういやその先なんて聞いてない。
「あ、あの、柘植君」
「何? どこか痛い?」
「えっと、違うの。あの、本当にありがとうね、なんていうか」
「気にしなくて良いよ。困った時はお互い様だし」
ああ、やっぱり柘植君は優しい。何となくというか、これは私の願望かもしれないけど、きっとカーテンの奥の柘植君は迷惑そうな顔なんてしていない。声色でわかる――なんて言えたら恰好良いんだけど、正直私はそこまで柘植君のことを知っているわけではない。だけど、そう思う。
「先生、早く戻られると良いね。俺、何も出来ないから。せめて寺沢だったら良かったんだけど」
「そんな、良いんだよ」
いくら
「柘植君は何も出来なくないよ。私、柘植君がそばにいてくれて嬉しいし」
「え」
「さっきも私の手を引いてくれたでしょ? 柘植君の手、あったかくて気持ち良かったよ」
「え、いや、えっと、蓼沼さん?」
「何?」
「蓼沼さん、熱上がって来たんじゃないかな。発言におかしな点が」
「え? ほ、本当?! 何かおかしなこと言ってた?」
「うん、言ってた」
私いつの間におかしなこと言っちゃったんだろう。
ああ成る程、自覚がないってことは無意識に言ってたってことね。成る程、やっぱり熱があるんだ、私。
「私、何て言ってたの?」
「いや、それは……」
わぁ、柘植君、何だかすごく言いにくそう。ちょっと待って私、何口走ったの?!
「よほどおかしなことを言っちゃったみたいだね、私」
「うん。まぁ、おかしなことだったよ。忘れた方が良いと思う。――ああ、ちょうど先生も戻られたみたいだから、俺、行くよ」
「わかった。ありがとう」
で、お戻りになった山本先生に熱を測ってもらったところ、三十六度三分というド平熱で、「蓼沼さん、アナタ一体どこが悪くて来たの?」と首を傾げられてしまった。
ええ、風邪じゃなかったの?!
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