◆柘植8◆ またもらってくれる?と言われたら
「クッキーだよね、ただの」
この世の終わりみたいな顔で蓼沼さんが鞄から取り出したのは、なんてことはない、手作りクッキーである。見たところ、味はプレーンだろう。ハートとか星の形に型抜きされているシンプルなやつだ。
「ただのクッキーじゃないんだよ」
「ただのクッキーじゃないんだ。どの辺が?」
紙袋の中を覗き込んでいた蓼沼さんが、中から一枚取り出した。それをガリ、と齧った状態で「もす」と一言。
いや、「もす」とだけ言われても。
何か可愛かったけども。
そして、「もっ! もっ!」と言いながらそれをガリガリと咀嚼し、涙目でごくん、と飲んだ。
「……ね?」
「ね、って言われても……。とにかく、ちょっと硬そうかな、っていうのはわかったけど」
ちょっと、というか、本当のところは『相当』だと思うけど。
「これ、昨日作ったやつなんだけど」
「蓼沼さんが?」
「うん」
「すごいね、さすが家庭科部」
それに女の子らしくて可愛い……なんて言ったらお菓子作りが趣味の男性を敵に回すだろうか。
「それがね、全然すごくないの。この通り、かた焼きせんべいも真っ青なくらいに硬くなっちゃって」
「成る程。でもこれが富田林とどう関係あるの?」
と聞いてみたわけだが、何となく想像はつく。
「昨日トンちゃんがノートを届けに来てくれてね、ちょうど焼き上がったところで、それで、お礼に、って」
「このクッキーを渡した、と」
「うん」
「その場で食べたの?」
「ううん、用があるからって、食べずに帰っちゃった」
「じゃあ食べてないかもしれないんじゃない?」
「お家帰ってから食べたって。最初に味見したのは生焼けで柔らかかったから、まさかこんなに硬いとは思わなくて。ちょっと焼き直したのがまずかったのかな」
しょんぼりと肩を落とすと、彼女の手の中の紙袋がカサリと音を立てた。クッキーはまだ数枚入っている。食べるつもりで持ってきたのだろうか。可愛らしくラッピングされているということもない。ということは誰かへのプレゼントではないはずだ。そのことに少し安堵する。
「それ、俺も一つもらって良いかな」
「え、えぇ? 良いけど……すっごく硬いよ? 歯、折れちゃうかもしれないよ?」
「大丈夫。俺の歯、健康だから」
「それにね、硬いだけじゃなくて、ちょっと香ばしいというか……香ばしすぎ……焦げてるというか……」
「大丈夫、『焦がしバター』とか『焦がし醤油』って美味しいし」
「そう言われると確かに! いや、でも、そういうやつじゃないし……!」
「いただきます」
あわあわしている蓼沼さんを見るのはちょっと面白いが、あんまり揶揄うと鞄の中にしまわれてしまいそうだ。そうはさせるかと一枚取り、口に放る。ハートのは何か恥ずかしいので、星の形のやつだ。
……確かに中々の――いやかなりの硬度である。
これを作ったのが蓼沼さんじゃなくて、さらに硬さがかた焼きせんべいレベルという予備知識がなければ噛むのを諦めていたかもしれない。けれど、蓼沼さんにも噛めたのだ。俺に噛めないわけがない。それから、彼女の危惧していた香ばしさだが、それはそこまで気にならなかった。
「ご馳走様でした。確かに多少歯ごたえはあったけど、美味しかったよ」
「ほ、ほんと?」
そう言って、蓼沼さんは袋の中からもう一枚取り出し、それに勢いよく齧りついた。
「もす! ……もっ! ……もっ?!」
どうやら蓼沼さんは物を食べる時にもすもすと鳴く習性があるようだ。そして、俺が平然と食べたものだから、さっき食べたのがたまたま硬かっただけで、本当はそうでもないのかも? とでも思ったのだろう。やっぱり硬い! みたいな顔をしながら必死に咀嚼している。ごくっ、となかなか必死さの伝わってくる音を立てて飲み込んだが、ちょっと目が潤んでいた。
「結構な戦いだったよ柘植君。やっぱり硬かった……」
「何かごめん。でも美味しかったのは本当だよ。それにしても、どうしてそれを持って来たの?」
さすがにこれ以上出していても仕方がないと思ったのであろう、彼女は再びそれを鞄の中にしまった。学校まではもうあと数メートルのところまで来ている。
「ここ最近部の活動内容が手芸に偏ってたから、今週からお菓子作りにしない? って話になってね」
うつむき加減でぽつりと話し始める。誰とそんな話になったのかなんて、確認せずともわかる。絶対に富田林だ。
「だけど、私、手芸も苦手だけど、お菓子作りも正直得意じゃなくて。なんて言ったら、そもそも何で家庭科部に入ったんだ、って話なんだけどね、あはは」
自嘲気味に、笑う。
たぶん、家庭科部に入ったのは、富田林がいるからだ。あいつが先に入っていたのか、それとも彼女を誘ったのかはわからないが、とにかく富田林と一緒にいたかったのだろう。
「私絶対トンちゃんのこと頼り過ぎちゃうから、だから、家で練習しようと思ってね、それで作ってみたんだけど、結局この有様で。それで、トンちゃんから『食べたよ』ってメッセージ来た時に、まだたくさんあるって言ったら『だったら、あたしが全部食べるから明日持って来なさい』って」
畜生、何か恰好良いこと言いやがって。
俺だって同じ状況だったら同じこと言うのに。
何だか、負けるか、という気持ちになった。いわゆる、対抗心というやつだろう。『親友』と張り合ってどうする。そう思わないでもなかったが。
「蓼沼さん」
「何?」
「俺にください」
「え? 何を?」
「そのクッキー」
「な、何で?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど。ええ、でも、どうして」
すんなりもらえるとは思っていなかったが、案の定蓼沼さんは首を縦に振ってはくれなかった。
そりゃあ失敗したという自覚があるものを他人に渡せるか、って話ではある。いや、押し付けてやれ、と思うような人もいるのだろうが、蓼沼さんはそういう人じゃない。
「実は俺、硬いクッキーに目がなくて」
咄嗟にかなり強めの嘘をついてしまった。いや、俺はいまこの瞬間に硬いクッキーが好きになったのだ。だから、これはただいまを持って嘘ではなくなった。うん、そうだ。
「そうなの!?」
「そうなんだ、実は」
「知らなかったぁ。そうなんだ」
「うん、俺も最近気づいた」
最近っていうか、たったいまだけど。
「そうなんだね、それじゃあ……」
どうぞ、と言って、蓼沼さんは再びクッキーを取り出した。駄菓子屋さんでもらうような、小さな茶色い紙袋である。
「ありがとう、蓼沼さん」
「こちらこそありがとう」
照れたようにふにゃりと笑っている蓼沼さんを見るとホッとする。さっきまで泣きそうな顔をしていたから。
と。
「ちょっともうアンタ達、ちんたら歩いてたら遅刻するわよ」
いつの間に後ろにいたのか、富田林が俺と蓼沼さんの間から、ぬぅ、と首を突っ込んできた。
「あぁ、トンちゃぁん! おはよう、心配したよぉ」
「おはよう、木綿ちゃん。今日も可愛いわねぇ」
「いままで何してたんだ、お前」
「日焼け止め塗るの忘れてたのよ。案外侮れないのよ、この時間帯の紫外線」
「さすがトンちゃんだね」
「その様子だと、木綿ちゃん、アナタ何にもしてないわね?」
感心したような声を上げる蓼沼さんをちろりと見下ろし、つんつん、と彼女の右手首を突く。蓼沼さんはというと、それを嫌がる素振りもない。
「えー、だって何かべたべたするんだもん、あれ」
「しないやつもあるわよ。あとでおすすめの教えてあげる」
こうなると、さすがにちょっと居づらい。一応、絵的には男子が二名に対して女子一名なのだが、会話の内容は完全に女子トークである。
先に行くか、と大股で一歩踏み出した時だった。
「あら、それ――」
俺が持っていた紙袋に、富田林が気付いた。かなりの硬度を誇るクッキーなので鞄の中に入れても割れることはないとは思ったものの、それでも袋がつぶれてしまうのが忍びなく、手に持ったままだったのだ。さすがに教室に入る前にはしまわないといけないけど。
「もらった」
特に表情には出していないつもりだった。にやけたりだとか、そんなことは。だけれども、富田林は、何やらもの言いたげな顔で、へぇ、と楽しそうに目を細めるのである。
「あのね、柘植君硬いクッキーが好きなんだって」
「ふうん、良かったじゃなぁい。そぉーんな華奢な顎してるくせに、案外男らしいトコあんのねぇ」
「華奢な顎って何だよ。普通だろ」
「小顔だっつってんのよ。まぁ良いわ、木綿ちゃん。今日からあたし達の活動はスイーツ作りよ、張り切って頑張るわよぉ」
「うん、頑張る!」
「今日はココアも混ぜて二色にしましょうねぇ。ホーホホホホ」
「やった、美味しそう!」
またも二人の会話になったところで、そそくさと立ち去る。
これ以上この場にいたら、富田林にまた何か余計な茶々を入れられかねない。
もう早足とは言わず、駆け足だ。
「――あっ、ねぇ柘植君!」
走り出した俺の背中に、ちょっと高めの声が届く。それの主が誰かなんて振り返らずともわかる。柔らかい声なのに、それはうまいこと心臓にぐさりと刺さるのだ。どきり、ちくり、とした小さな痛みを感じたが、それが顔に出ないよう、ぐっと歯を食いしばってその声の方を見る。
「柘植君、また作るから。そしたらまたもらってくれる?」
マジか。
ちくちくと痛いようでかゆいようで、それでいていつもより早く脈打つ心臓を、ちょっと落ち着けよと撫でる。こういう場合、なんて返すのが良いのだろう。
もらってくれる? というこの問いについて、俺としては『イエス』の返事をしたい。だけれども、うん、では素っ気ない気がするし、もちろん、だとがっつきすぎな気もする。ああ、でもここで沈黙が続くのはまずい。NOだと捉えられてしまうかもしれない。
早く、何か返さないと。
「もらう」
焦った結果がこれだった。
よりによって、なぜこんな言葉をチョイスしたんだ俺は。これもかなり素っ気ないのではなかろうか。しかし、口に出してしまったものは仕方がない。
こんな答えで本当に良かったのだろうか、と蓼沼さんを見ると――、
「良かった。頑張るね!」
こちらの心配をよそに、笑っていた。うわ、その顔は反則なんじゃないのか。
顔がだらしなく緩んでしまわないよう再び口をきゅっと引き結び、くるりと背を向けた、が。
「
富田林だ。
男にしてはちょっと高めの声をわざとねちっこく伸ばして、俺の名を呼ぶ。
「何だよ」
呼ぶのがこいつなら、わざわざ身体の向きを変えることはない。首を少しだけ動かして横目で睨む。最も、俺の睨みなんてこいつに効くわけもないのだが。案の定、余裕たっぷりに小憎たらしい笑みを浮かべ、ホッホッホ、と笑っている。そして、一言、
「今日は、暑いわねぇ~?」
と言った。
暑い、という言葉の『意味』に気付いて、逃げるようにその場を去る。
うるさい。
顔が赤くなってるって言いたいんだろう、どうせ。
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