第10話 後輩ちゃん

「んじゃ行ってくるわ」


 昨夜の話し合いから一夜明けた次の朝。俺は相変わらず美味いハルの朝食(今日はパンとオムレツの洋食)をペロッと平らげ仕事着であるスーツの袖に手を通しながら後ろに控えるハルに挨拶を交わす。


「うん。いってらっしゃい。気をつけて」


 ひらひらと右手を振りながら早朝に似つかわしい柔和な笑顔を向けてくれるハルを見て、新婚ってこんな気分なのかなと思わず彼女との未来を脳内で想像してしまった俺は、ハルの幼なさの残ったあどけない顔に一瞬【未成年】というワードが赤字で浮かび上がった気がしてすぐさま玄関に直行した。


「いっ、いってきま〜すっ!!」

「……? 杏太郎?」


 あ〜、いぶかしむハルの顔が浮かぶぜ。ちくしょう〜! 今日帰宅するまでに何かうまい言い訳を考えとかねぇとな……。


 ドキドキと脈を打つ心臓とは裏腹に、どこか晴れ渡った気持ちで会社に行ける喜びに感謝しながら俺は灰色のコンクリートの道を駆けて行った。



「早よざいまーす」


 高揚した気分も会社の扉をくぐる頃にはすっかり鳴りを潜め、俺はいつも通りの気の無い挨拶と力無い動作でタイムカードを切るのだが、ポンポンっと何者かに肩を叩かれ振り向いた直後、の人差し指が俺の頬にめり込んだ。


「何してんだ? 有村?」


 そう。その何者かとは俺の同期で飲み仲間の有村清一くんだった。


「薄っ! リアクション薄! 朝っぱらからなんだそのテンション?」

「朝っぱらから今時小学生でもやらないこんなイタズラをされて、テンション上げる奴がいたらそいつなんかヤってんぞ?」

「ブハハッ! 確かに!」


 腹を抱え笑う有村に少しの違和感を覚えた俺は、カードを切り終えたヤツと一緒に机に向かいながら事情を聞くことにした。


「どした? お前。なんか今日テンション高くね?」

「ん? 分かる? 分かっちゃう? 分かっちゃいますか?」

「ウゼェな。何だよ?」

「いやお前も気付いてんだろ? 今日が何の日か」

「……? 今日? なんかあったっけ?」

「えっ……おまっ……マジで忘れてんの?」


 有村のちょっと引いてるような顔にますます覚えがなくなっていく俺は、眉間にシワを寄せ必死に考えたが皆目検討がつかなかった。


「うわっ! ひでぇ! お前のその様子を知ったら相当落ち込むぞ?」

「あの子……? あっ! そうか」


 有村の『あの子』という言葉にさすがの俺もピンと来た。そう。今日は——


「お久しぶりです。乃木先輩。不肖ふしょう、御影フユノ。ただいま戻って参りました!」


 有村との会話に夢中になっていた俺の背に、透き通った美声がかけられる。その声の主が誰なのかを瞬時に理解した俺ではあったが、数秒前までの会話内容が後を引き、振り向きざまに放った俺の返事はまぁー先輩とは思えない情けのないものになってしまった。


「おっ、おう。御影。ひさぶり!」


 数秒の沈黙の後、ブフッと大きく吹き出した有村を見てあとでコイツ絶対殴ってやろうと俺は思った……。


****

****


 うちの会社は新人に一人教育係がつき、ある程度の仕事をこなさせたのち、各部署に研修期間として配属され本人の意思と相談しながら自分のあった部署を選択するシステムを取っている。そして今日は俺が指導した新人、御影みかげフユノの研修期間が終わり配属先が決まる日だったのだ。


「ほんとひでぇよな〜? 乃木先輩は。自分が指導した御影ちゃんの研修終了の日を忘れてんだもんなぁ」

「うっ、ウルセェ! さっきから何度目だその話。もういいだろ!」


 只今の時刻は午後零時過ぎ。朝方の業務を終えた俺たちは昼食を摂るために屋上に来ていた。参加メンバーは俺と有村、御影そして——


「本当ですよ。有村先輩。乃木先輩はあなたと違って忙しい方なのですから些末さまつなことなど覚えていられないのです」

「いや! 俺同期! こいつと同期。仕事内容一緒!」

「格が違うんですよ。格が」

「格って何!?」


 この明らかに辛辣(主に有村にだけ)な彼女は有村の後輩である鳳凰院ほうおういんアキ。彼女は御影と同じタイミングで研修期間を終了した同期だ。どうやら御影とは高校が同じだったようで入社前から仲が良かったらしい。煌々と輝く真紅のロングヘアーに端のつり上がった猫目。その小さな口から発せられる毒舌はこの会社の男性社員に大いに響いているのだとか。かくいう有村もその内の一人で、ややMっ気のあるコイツにとって彼女はどストライクらしい。さっき奴のテンションが高かったのもそのためだ。


「悪かったな。御影。本来なら先輩らしく真っ先に会いに行ってやるべきだったのに」

「いっいえいえ! 気にしないでください。アキちゃんの言う通り乃木先輩は忙しいので……」

「いや、けどなぁ……」


 光沢のある漆黒の髪を腰元まで伸ばし、目上で一直線に切り揃えられたその姿はまさに大和撫子そのもの。頭髪と同じ真っ黒な大きな瞳は見るものが映り込むほど透き通っていて、今まさに困惑した俺の顔がトレースされている。


「あの地獄の乃木のイビリを毎日耐えたってのに御影ちゃんかわいそうに〜」

「おい。イビリなんて俺はこれぽっちも——」


 俺が有村の発言を撤回させようとツッコミを入れたその瞬間、隣に座っていた御影がガバッと立ち上がり、その場に美声を轟かせた。


「イビリなんてされてません!! 乃木先輩は……乃木先輩は……本当に優しく私を……」


 俺は思わず驚愕した。俺の元に入ってきた御影はこんな風に叫ぶことなんて滅多に無かったからだ。そしてそれは有村も同じようで彼女の想いも寄らない怒号に面食らい言葉を詰まらせた。


 屋上に沈黙が訪れる。その元凶を作った張本人は俺と御影の間に視線を泳がせ、脂汗を吹き出す。その様子を見ていた鳳凰院が『ばか』と短く彼を罵ったのを俺は聞き逃さなかった。この場を元に戻すため俺はワントーン明るめの声で御影に話しかける。


「だっ、だよな〜御影。俺、イビリなんてしてないよな? ほんといい加減にしろよ。有村〜〜」


 俺の声にハッとなった御影は俺と有村に視線を向けると、『はわわっ』と口にした直後、バネ仕掛けのネズミ捕りみたいにコンマ一秒で腰を折ると、深々とお辞儀をし謝罪の言葉を述べた。


「すっ、すみません! 有村先輩!! 私ったらなんて生意気な口を……」


 怒号を浴びせられた直後の全力の謝罪に困惑する有村だったが、机の下でコツンっと鳳凰院に膝をぶつけられ、正気を取り戻した彼はいつもの軽快な口調を取り戻す。


「いやいや。いいっていいって。御影ちゃん頭を上げな? アホみたいなちょっかい出した俺がいけねぇんだし。せっかくの昼飯どきに後輩に頭下げさせる上司ってヤバいでしょ?」

「……う〜〜……」


 有村の必死のフォローも虚しく、御影は頑なに頭を上げようとしない。それどころかスーツに包まれたその身をプルプルと震わしている。居ても立っても居られなくなった有村は俺の肩を乱暴に抱き、耳元に顔を持ってくる。


「おい! どうすりゃいい? この状況? どうすれば丸く収められる?」

「いや、どうすりゃいいって聞かれても……」


 男二人、年上の威厳もかなぐり捨て必死に考えを巡らせていたところに素っ頓狂な単語が飛び交う。


「……焼肉」

「「……はい?」」


 声の主は鳳凰院で彼女は俺たちをじっと見据えたまま、言葉を続けた。


「私、焼肉が食べたいんですよね。フユノも好きだったよね? お肉」

「えっ……う、うん」


 思いも寄らない友人の言葉に、器用に腰を曲げたまま首だけを正面に戻した御影が答える。


「あーあ、誰か連れてってくれないかな? 配属記念と謝罪の意味を兼ねた食事会として」


 その瞬間、ピンときた有村が俺の肩を抱き寄せたままズイッと前に出た。


「そうだ! この四人で焼肉行かねぇ? 御影ちゃんとの配属記念と俺たちの謝罪も込めての焼肉パーティー! もちろん俺たち二人のおごりで。なっ? いいだろ?」

「おい! なんで俺まで——」

「お前! 御影ちゃんの配属忘れてただろ? 彼女に詫びる気持ちがあるなら強制参加だ!」


 ボソボソと呟く言葉とは裏腹に、肩を掴む手には恐ろしいほどの力が込められている。


「……わかったよ……」

「おし! 決〜まり! 二人も予定とか大丈夫か?」


 有村に問われた鳳凰院は何故か御影の方に視線を移し、ニコッと優しく笑いながらウインクした。


「私は大丈夫です。フユノも?」


 二人の間に何があったのかは俺には見当もつかないが、一つ言えることは御影と鳳凰院の仲は俺が思ったよりも深いということが今日判明した。


「はっ……はい! 大丈夫です!」


 御影の裏返った声を聞きながら安堵の表情を取り戻した俺だったが、家ではハルが待っていることをこの時の俺はど忘れしていた……。


 

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