第21話 希望に満ちた三分間

 準備はできた。あとは野となれ山となれだ。たとえどんな結果になったとしても、もう俺に迷いはない。すべてを受け入れる覚悟だ。だが、その前にハルと一度だけ話がしたい。いや、彼女の声が聞きたい。そう思った俺はスマホを操作し、電話帳の中から【小鳥遊ハル】を見つけ“発信”のボタンを押そうとするのだがそこで指が止まる。


「アイツは出るだろうか……? 前にかけた時はどんなに鳴らしても出てくれなかった。今度もそうなったら……」


 操作待ちによりフッと暗くなった液晶に映った俺の顔はひどく不安そうな顔をしていた。こんなことでどうする。俺がこの後やろうとしていることに比べればこんなのどうってことないだろ。志木さんに言われたことを思い出せ。男にはケツの穴を締めて覚悟を決めなきゃいけない時がある。それが今だろ。行け。押せ。行けっ! 俺は再びスマホを起動させ、発信のボタンを押した。


 無機質なコール音が鳴る。二回、三回と同じ音が鳴るたび俺の心臓も高鳴っていく。そして、発信中の画面が応答へと切り替わったのは七回目のコール音が終了した時だった。


『…………』

「…………」


 無言。両者が待ち望んだ電話での第一声は意外にも無言から始まった。ハルの方は分からないが俺は彼女が出てくれたことにまず驚き、そして最初に何を言うべきかを決めてなかったことをこの土壇場で気付き、声を失ってしまったのだ。しかし、せっかく彼女と繋がれたのだ。こうなったらもうお構いなしでいいだろう。しどろもどろになっても今、言いたいことを言ってやる。そう思った俺は最初に口火を切ることにした。


「——ハルか?」

『……杏太郎……』


 その瞬間、俺は全神経が耳に集約されたかのような感覚に陥る。二日。たった二日、聞かなかった彼女の声がこんなにも深く、強く俺の鼓膜を揺さぶるなんてと、改めて彼女の存在がどれほど大きなものだったのかを俺はすぐに思い知らされた。


「元気してたか?」

『うん……。まぁまぁ。杏太郎は?』

「俺は相変わらず元気だよ。何も変わらない」

『そっか……』

「でも……」

『ん……?』

「いや、いい。なんでも。それよりそっちの暮らしはどうだ?」

『う……ん。まぁそれなりにやってるよ?』

「それなりってなんだそれ。飯は? ちゃんと食ってるか?」

『うん。食べてる食べてる』

「本当か? ハルのことだから意固地になって何も口にしないなんてこともあり得るからな。お前、以外に意固地だから」

『何それ! 私はいつでも素直な良い子ちゃんだよ? 意固地になるのは杏太郎の前だけ! それより杏太郎はご飯ちゃんと食べてる? またコンビニ弁当とかカップラーメンの容器の山を築いてるんじゃないのー?』

「うぐっ……! はて? なんのことやら?」

『あ〜! その声図星だなー? もう! ちゃんとバランスのいい食事を取りなさいって手紙にも書いておいたでしょ?』

「いや、オカンかっ! そしてこのツッコミ二度目だわ! そんなに言うならまたハルが作ってくれよ。俺、お前の料理が恋しくてたまらねぇんだから!」

『うん……それが出来たら……ホントいいよね……』


 俺のその軽はずみな言葉は、彼女の声をワントーン低くした。今の彼女にとってその言葉は決して叶わぬ絵空事。それに気付いた俺は自分の浅はかさに苛立ちを覚えた。


「悪い……こんなこと今言うべきじゃなかったな」

『どうして杏太郎が謝るの? 大丈夫だよ。あのね? 私気付いたんだ。私がここで良い子に過ごしていればきっと職員のみんなも私を信用してくれて外出許可をくれると思うんだ。だから……痛っ!』

「どうした、ハル!?」

『うっ、ううん。ごめん。なんでもないよ。ちょっとさっき口の端切っちゃって。いつもの調子で笑ったらまた傷が開いちゃった』

「口の端を切るってお前大丈夫なのか!? そっちで何か——」

『平気! 平気だから。ほんのちょっとドジしただけだから……』


 嘘だ。気付いてるか? お前さっきからちょっとずつ涙声になってんだぞ?


『それで。さっきの続きだけどね。外出許可が出たら私、一番に杏太郎に会いに行く! そんで、杏太郎の好きなご飯めいいっぱい作ってあげる!』


 それが叶わないことってお前も分かってるんだろ? だからそんな絶望に満ちた声で話してんだろ?


『それでね。そのあとはまた杏太郎とあの思い出のプラネ——』

「もう……いいよ……」

『え……?』

「もうやめろよ。強がるの」

『何……言って……』

「俺はさ。無頓着で、鈍感で、分からず屋な面があるどうしようもない男だけどこれだけは分かる。今、ハルが泣きそうになってるってこと」

『…………』

「んでもってその涙を止めることができるのは俺しかいないってこと」

『ダメだよ……杏太郎』

「実のところ迷ってたんだ。俺はハルと一緒にいても良いのかなって。迷って、悩んで、悩み抜いて。ある人から助言をもらって決意を固めたってなっても、心のどこかではまだ迷ってる自分がいた。本当、優柔不断だよな。だから、ハルの声が聞きたかった。今、ハルがどんな気持ちでいるのか。そこに俺が介入しても良いのか。今のハルの声を聞いて確信したよ。ハル。俺はお前を必ず取り戻す。何を犠牲にしてもだ」

『ダメッ……ダメだよ、杏太郎。私、杏太郎の人生を壊したくないっ! 杏太郎には幸せになってほしい!』

「俺の幸せはお前がそばにいてくれることだ」

『——っ!』

「ハル。俺はお前の本当の気持ちを知りたい。今、お前はどうしたい? 今だけ俺にその心を開いてくれ」

『わっ……たしはっ……杏太郎と一緒にいたい! 杏太郎とあの温かな日々をまた送りたい! こんなところから抜け出したいっ! この二日間杏太郎のことだけをずっと考えた! ねぇ……杏太郎。を言う私をどうか許してほしい……』

「おう。言ってみろ」


 俺はその先、ハルがなんと言おうとしているのか分かっていた。分かった上で彼女の口から聞きたかったのだ。その四文字の言葉を。


『助けて』


「あぁ。了解だ。その準備のために二日もお前を待たせちまったんだからな。ハル。今、お前の置かれている状況を教えてくれ」

『う……うん』


 俺はハルから現状を聞き、策を練りその内容をハルに伝えた。


「お前を危険に晒しちまうかもしれない。でも、これが今考えうる最善の——」

『大丈夫。平気だよ杏太郎。私、絶対うまくやってみせる。杏太郎とまた一緒に暮らせるならなんだってやってやる』

「……ハル……」


 先ほどとは打って変わった覇気のある彼女の声に、なんだか逆に俺の方が勇気付けられた気がした。


「じゃあもう切るな。決行は明日。今月最後の日曜日だ」

『うん。ねぇ、杏太郎。もうすぐ夏だね。もし何もかもうまくいったらまたあの楽しい日々が戻ってくるかな?』

「あぁ。きっとな」

『うん』


 そう言い残し、俺たちの“希望に満ちた三分間”の通話はそこで終了した……。

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