第21話 小鳥遊ハルの闘い
杏太郎の元を去って、あれから二日が過ぎようとしていた。私はこの忌々しい施設に戻り空虚な日々を繰り返している。出される食事も住居環境も何不自由ないこの養護施設の生活に未だ馴染めないでいるのは、杏太郎と過ごしたあの温かい日々を忘れられないこともあるが、何よりこの男の存在が大きい。
「聴いているんですか? 小鳥遊さん。全く。あなたはこの施設にいる子の中で一番の年長者なんですから、しっかり彼らの見本になってくれなきゃ困ります。このご時世、誰がどこで見ているか分からないんですよ?」
「……困るのはアンタのしょうもないプライドが傷つくからでしょ……」
「今、何か?」
「なんでも……」
この男——聖賢吾がここに就任したのは私が中学に上がった頃のことだった。初めのうちはその物腰柔らかい態度と、顔面に貼り付けたような嘘くさい笑顔で皆の好感を高め慕われていた。だけど、こいつに宿るその醜い本性が少しずつ表に出始めたのはそれからすぐのことだった。
一番初めは小学校で友達と少し過激な喧嘩をしてしまった男の子に毒牙が向けられた。里親らしく彼が学校に謝りに行き、何事もなく話がまとまったかと思ったその深夜。私は見たのだ。彼がその男の子を硬い床に正座させ、木製の定規で何度も小さな顔を殴っているのを。
彼の口から出るのは泡状になった白いツバと『僕に恥をかかせたな』『お前みたいなクズは生きてる価値がないんだよ』など、それは聞くに耐えない罵詈雑言の数々だった。年端も行かない私は、涙を流すその少年を助けることもできず只々ドアの内側で震えているのがやっとだった。
二人、三人と彼の毒牙にかけられていく子供達は大人たちよりも早く彼の本性に気付き恐怖を露わにしたのだが、表の顔しか知らない教員たちが私たち子供の発言に耳を貸すはずもなく、また私たちの密告に気付いた彼の報復を心底恐れた私たちは彼の機嫌を損ねないように顔色を伺う日々を余儀なくされた。
そんな時、私の学校での成績が落ち始めていることを彼に知られた。私は慌てふためいた。なぜなら私たちの自宅学習はT大を首席で卒業したと豪語する彼が一手に引き受けていたからだ。プライドの高い彼が自分が勉強を教えているのにもかかわらず不甲斐ない成績を残すことを許すはずがない。
案の定、私は彼に呼び出され勉強会という名の地獄の監禁へ招待された。
水も、食べ物もトイレにすら行くことを許してもらえず、机にがんじがらめにされた私は彼の出す問題を必死に解かなければならない。少しでも間違えようものなら即座に定規で頬をぶたれ、解けるまで何度も何度も涙を流した——。
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「どうしてこんな問題すらわからないィ!! 僕が教えてやってるんだぞぉぉ!!」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!……」
隣の部屋から聞こえる怒号と、許しを乞う少女の鳴き声に私は意識をハッとさせる。まるで過去とリンクするように響き渡った昔と変わらないその声に私は思わず走り出し、その部屋の扉を乱暴に開け放った。そこには机に涙をポロポロとこぼしながら、真っ赤に頬を染めた小学三年の女の子と、定規を片手に息を切らしながら血走った目をこちらに向けるあの男がいた。
「何の用だ……? 小鳥遊ハル。君をここに呼んだ覚えはないぞぉ……?」
私はコイツの質問に答えることなく、素早く部屋に入ると恐怖でガチガチに震える女の子を両手で抱きかかえた。
「変わってないわねアンタ! まだこんな下らないことやってんの!? いい加減にしろよ! あんたの自己満足でどれだけの子たちが傷ついてると思ってんの!?」
「黙れえぇぇ!! これは教育だぁあ!! バカなお前たちに対する懲罰だなんだよォォ!!」
私の言葉を聞いた瞬間、怒りのリミッターが外れた彼は私の顔めがけ定規を一閃に振った。その衝撃で私の口元は切れ、机にポツリと血を垂らす。だが、それをものともしない私は脂汗を滲ませるこいつの顔をずっと睨み続ける。
「なんだその顔はぁぁ!? 底辺高校生が僕を睨むなぁぁぁ!!」
四方から飛んでくる彼の定規は私の体を容赦なく打ち、痛々しい音を部屋中に響かせる。この子だけは……この子だけは守らないと……。あの時何も出来なかった私はもういないんだからと、少女を抱きしめる両手に力を込める私。
「おねいちゃんっ……おねいちゃんっ!……」
「大丈夫。大丈夫だからね」
数分間続いたその音だったが、やがて自分の攻撃が効いていないことを悟ったのか彼は殴打をやめ、ゆっくりと定規を下ろすと、息も絶え絶えに不気味な笑いを浮かべた。
「ハッ……ハハッ! なんだ? 昔はコレを見るだけで震え上がっていたのに今はもう平気ですってか!?」
彼は右手にもつ定規を差し、私に嘲笑を向ける。
「あの男と過ごして私は変わったとでも言うのか? 馬鹿らしい! いいか?——」
男はニュウっと手を伸ばし、私の髪を掴み上げた。
「あの男はもういない。お前を助けてはくれない。もしまたお前に近づけば今度こそ僕があの男をブタ箱にぶち込んでやる! まぁ、そんなこと誰よりお前が知っているはずだけどな?」
勝ち誇った顔で私の髪から手を離した彼は、私の腕の中で震える少女に大声をかけた。
「今日はこれで終わりだが、またあんなふざけた点数を取ったら許さないからな?」
そう言い残し、彼はこの部屋から去っていった。
「おねいちゃん、だいじょうぶ? ごめんなさい。わたしのせいで……」
目に涙を溜め、小さな手で私の頬を優しく撫でる少女。そんな少女を見た私は精一杯の笑顔を無理やり作り、彼女に向けた。
「だいじょーぶ! おねいちゃんこう見えて結構強いんだよ? ほら! もう遅いから早く自分の部屋に戻っちゃいな」
「う……うん。おねいちゃん。ありがとう」
「……うん」
トテテッと走り出した少女の背中を見ながら、私は
「……私も……あんな風に素直に涙を流せたら……何か変わってたのかな……杏太郎と一緒に居れたかな……会いたい……会いたいよぉ……杏太郎……」
私はスカートのポケットからスマホを取り出し、待受を起動させる。そこには彼と一緒に行ったプラネタリウムの星空が映し出される。
「この時はほんと楽しかったなぁ……。今どこで何をしてるんだろう……杏太郎……」
次の瞬間、今最も話したい存在——杏太郎の文字が画面に浮かび、着信を知らせた。
「杏太郎……!? どうして……?」
本来、飛び上がるほど嬉しい彼からの着信。だけど鳴り止まないコール音を耳にしても、私は電話に出れずにいた。ここで彼の声を聞いてしまえば今まで押しとどめていた気持ちが爆発してしまう恐れがあったからだ。そうだ。あの時だって彼の着信を無視したじゃないか。今だって彼が諦めるのを待てば……。そう思っていた私の目に、杏太郎からの着信専用画面に設定した隠し撮りの可愛い寝顔写真が映り込み、私の決意を揺るがせた。
「お願いです神様。一度だけ……一度だけ彼と話す機会をください。この後どんな辛い目にあってもいいですから。どうか一度だけ——」
胸の前で手を組み天に祈ったあと、私はかすかに震える手で緑色の応答ボタンを押した……。
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