第8話 いってらっしゃいとお帰りなさい
「ん……うぅん?」
翌朝。なんとか数時間の睡眠だけは取ることの出来た俺の目に朝日の光、そして鼻にはどこか懐かしさを感じさせる味噌と白米の炊ける匂いが届いてきた。
「これは……台所の方からか?」
俺がゆっくりと体を起こし、匂いの発生元に首を向けた丁度その時、俺の声を聞きつけたのか昨夜とは違う白と水色のボーダーワンピースに身を包んだハルがひょこっと顔を出し、にへらと笑った。
「あっ! 杏太郎起きた? 丁度良かった。今、朝ごはん出来たところだったから」
「朝……ごはん?」
そこからのハルの行動は驚くほどテキパキとしていた。まず、未だ布団から動こうとしない俺を半ば強制的に立たせさっさと布団を畳むと、部屋の隅に置いてあった折りたたみ式の机を展開。有無を言わさず俺を着座させたのち、テーブルにご飯、味噌汁、卵焼き、小さなサラダと四当分にされたオレンジを手早く並べ、あっという間に朝食の準備を完了させた。そのあまりの手際の良さに俺はしばらく絶句してしまった。
「どしたの? 杏太郎? あっ、ひょっとして朝はパン派だった?」
「いや、どっちかというとご飯派……じゃなくて! これ、全部ハルが作ったのか?」
「うん。そうだよ」
「マッ……マジかよ。料理が得意ってのは本当だったのか……」
「あ〜〜! さては嘘だと思ってたなー? これでも腕にはちょっと自信があるんだから!」
ハルのその言葉は事実だろう。何故なら今、俺の目の前にはふっくらと艶のある炊きたての白米に、
「ん……? ちょっと待て。うちの冷蔵庫に味噌や野菜なんか入ってたか?」
俺のその質問にハルはあっけらかんと答えた。
「ううん。無かった。だから着替えて近くのコンビニまで買いに行ったの」
「わざわざ朝飯を作るためにか? そんなことしなくてもパンかおにぎりでも買ってくりゃあ——」
「ダメだよ! 杏太郎にはきちんとした朝ごはん食べて欲しいもん!」
「……ハル……」
俺は少し申し訳ない気持ちになった。仮にも十歳は離れているであろう女子高生がわざわざ早起きしてコンビニまで食材を買いに行き、料理を作っていたというのに年上の俺はと云えばその
罪悪感と羞恥心にまみれた瞳で白米から沸き立つ湯気を見ていた俺に気付いたのか、ハルは俺の方の茶碗を素早く取るとズイッと目の前までその茶碗を差し出してきた。
「ほらっ! 早く食べよう? せっかくの炊きたてご飯が冷たくなっちゃう!」
「おっ、おう」
ハルに促されるまま、俺は左手で味噌汁の碗を取ると、ズズッと一口啜った。
「……っ! う、美味い! この味噌汁めちゃくちゃ美味いぞ。市販のレトルト品がかすむくらい美味い!」
俺のその言葉を聞いた瞬間、ハルはガチャンっと自らの茶碗を乱暴にテーブルに置き、俺の方に顔を寄せた。
「ほんとっ!? 本当のホント!?」
そのあまりの気迫に俺は思わずたじろぐ。
「お……おう。本当だって。嘘じゃない」
ハルはゆっくりと元の場所まで体を戻すと、両手で顔を覆いクシャリと笑って見せた。
「嬉しい……。杏太郎に『美味しい』って言ってもらえた……頑張って作って良かった」
理性や理屈が吹っ飛ぶ瞬間。俺にとってそれはまさしく今この瞬間だろう。何故なら俺はハルのその愛くるしい顔を見て、強く抱きしめてしまいたいと思ってしまったのだから……。
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その後、ペロリとハルの作った朝食を平らげた俺は出勤の準備を済ませ、スーツに身を包む。
「んじゃ行ってくるわ」
「うん。行ってらっしゃい」
『行ってらっしゃい』。そんな言葉を掛けられたのは何年ぶりだろう。今まで黙々と靴を履き、何故か平日になると急に重たくなる玄関のドアを開け放ち鬱々とした気分で部屋を後にしていたはずなのに、今日はそのどれもが存在しないのだ。
俺はゆっくりと玄関で見送るハルの方に振り返り、小さな声でぼそりと呟いた。
「ありがとうハル」
きっとこの言葉はアイツには届いていない。けれどもどうしても言わずにはいられなかったのだ……。
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夕方。激務に次ぐ激務で疲労困憊となった俺は、しつこく飲みに誘って来た有村をのらりくらりと
「……これでいいか。色は無難にピンクだろう。あと必要なモンは……」
俺はビニールに包まれた布団を片手に店を物色しながら、《キッチンコーナー》と書かれた場所で静止した。
「そういやアイツ……」
ふと今朝の場面を思い起こした俺は、そのコーナーにまっすぐ入って行きあるものを購入した。
「ふぃぃ〜〜。結構重かったな。まっ、いい運動になったから別にいいか」
自宅へと着いた俺が玄関の鍵を開けようとポッケに手を入れたその瞬間、ガチャンという解錠の音とともに、ゆっくりとドアが開き茶褐色の電灯の光を背にしたハルが俺を出迎えてくれた。
「お帰り杏太郎。わっ! 本当にお布団買って来てくれたんだ。重くなかった?」
「おう……平気だ。ていうかよく俺が帰って来たって分かったな」
「えへへ。なんとなくそんな気がしたからね」
「なんだそりゃ」
クスリと互いに小さく笑い、俺は自宅へと帰宅した。
「わぁ〜〜新品のお布団だぁ〜〜!」
ハルは買って来たピンクの布団を早速広げ、子供のように無邪気にダイブした。だがその瞬間、ワンピースの裾がペロンとめくれ純白の下着が露わとなり、俺は全力で首をそらした。
「バッ——お前! 子供みたいにはしゃぐな! 高校生だろ!」
「えぇ〜、だって嬉しいんだもん。スンスン……新品の匂いがするぅ〜」
「当たり前だろ。新品なんだから。あとコレ」
俺は《キッチンコーナー》で購入したものをハルに手渡した。
「コレって……エプロン?」
「おう。今日の朝飯の時のことを思い出してな。うちにエプロンなんてなかったからハルの服が汚れちまわないようにと思って」
ハルは、胸のところに大きく描かれたライオンのキャラをガン見していた。
「あー……やっぱダサかったか? ちょっとでも女の子らしいもんでもと思ったんだがセンスなかったよな?」
俺の言い訳を聞いたハルはブンブンと首を振り、ギュッとエプロンを胸に抱くと優しげな表情で俺を見上げた。
「ううん。すごく嬉しい。めちゃくちゃ可愛い。一生大事にするね」
「一生って大袈裟だろ……」
「大袈裟じゃないよ。だってこれ杏太郎からの初めての贈り物だから」
「……そうかい」
俺は照れ臭い気持ちとホッとした気持ちがちょうど半々という奇妙な感情を抱きながらいつまでもエプロンを抱きしめるハルを見守るのだった。
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