第7話 大願成就

「おっ……お邪魔しま〜す」


 ハルはしずしずと玄関まで入ると、緊張しているのが丸わかりなくらいに辺りをキョロキョロ見渡し、何故か俺の顔をみて頬を朱色に染めながらスッと視線を下にズラした。


「おーい、お前が入れてくれって言い出したのになんで急にかしこまってんだよ」

「だっ……だって、初めてなんだもん。男の人の部屋に入るの。まして、それが……あっいや、なんでも……」


 言い直しても遅い。今、はっきりと『好きな』って聞こえたぞ? ハァ〜。コイツ本気で俺に好意を寄せてんのか? こんなしがない底辺サラリーマンの俺を? 今時の女子高生の趣味は分からん。と、俺が脳内会議を催していたその時、不意に「クシュン」という可愛いくしゃみが隣から聞こえた。


「すまん。こんなところで足止めして。入れ」

「うっ、うん」


 促されるままローファーを脱ぎ、廊下に上がったハルを俺はリビングではなく風呂場に案内する。


「お前、着替えは持ってるか?」

「うん。一応この中に」


 ハルは左肩に抱えたパンパンのスクールカバンを指差し、肩から下ろす。


「そうか。なら先に風呂で体を温めろ。こんな寒空の下に長時間居たんだ。体、冷え切ってんだろ?」

「そっ……そんなことないよ? 平気平気!」

「嘘つけ。さっき思いっきりくしゃみしてただろうが」

「うっ……」

「余計な気は使わなくて良いから、つべこべ言わず入れ。タオルはそこだ」

「う、うん。ありがと。じゃお言葉に甘えて……」


 ハルはガチャっと風呂の扉を開くと、バスタブから上がる白い湯気を見ながらその場で静止する。


「……? どした? なんかあったか?」

「ううん、なんでも。ただ、わがままを言った私のために杏太郎は湯を張って準備してくれたんだと思うとなんか嬉しくなっちゃって」

「バッ……おまっ……! 自分! 自分が入るために沸かしたんだよ!」

「ふふっ、杏太郎って嘘下手だね」

「うるせー! とっとと入れ!」

「はーい。でもその前にさっきも言ったけど私、『お前』じゃないよ?」


 ハルは、その先の言葉は分かってるよね? と言わんばかりの顔で俺の顔を覗き込む。俺は精一杯照れているのを隠しながら初めて彼女の名を口にした。


「〜〜〜〜っっ、とっ……とっとと入れ……ハル」

「はーい!」


 ニコッと笑い、入浴の準備を始めるハルを尻目に俺はまるで一本取られたかのような悔しさに似た感情を抱きつつ脱衣所の扉をそっと閉めた。


「フゥー……。入れちまった。未成年の女子高生を家に。もう後戻りは出来ねぇぞ。乃木杏太郎」


 俺はハルには到底聞こえないような小声で自らに問いかける。


「ハルは言ってた『恩返し』がしたいと。ならアイツの気の済むまでやらしたほうが良いのか? でもハルの考える『恩返し』ってなんなんだ? 何をどうすればアイツは納得するんだ?」


 浴室から聞こえるシャワー音に耳を傾けながら、俺はこれから先に起こるであろう出来事に思いを馳せていたのだが、ちょうどそのタイミングでハルの大声が俺に届いた。


「杏太郎〜! これ、シャンプーどっちぃ〜? 二つとも透明の容器に入ってるから分かんな〜い」


 俺は長いため息とともに、そのしょうもない質問にすぐに答えた。


「向かって右だ」


****

****



「フゥー。さっぱりしたぁ〜。ありがと杏太郎。お先にいただきました」


 仰々しく頭を下げた瞬間、ハルの体からフローラルの香りが俺の元にふわりと届き思わず面食らう。おかしい。なんで俺と同じシャンプーとボディーソープを使ったはずなのにこんなに良い匂いを醸し出してるんだ。これが男と女の差ってやつか? 


「……? どうかした? 杏太郎?」


 キョトンとこちらを見つめるハルに気付き、俺はハッとなる。濡れぼそった髪からしたたる水滴。その水滴を細い指とタオルで拭うその仕草は目の毒だ。いくらハルが高校生でも嫌でも意識してしまう。


「なっ……なんでもない。それより早く髪を乾かしてこい。脱衣所にドライヤーあっただろ?」

「え〜〜。タオルドライは良い髪を作る基本なのに〜」

「これ以上は目のどく——いや、湯冷めしちまうだろ」

「はーい」


 しぶしぶ脱衣所に入って行ったハルにホッと胸をなでおろす俺だったが、目の前に存在する問題にすぐに我に帰った。


「さてこれをどうするか……」


 只今の時刻は深夜一時。終電なんかを望める時間ではない。タクシーや最悪徒歩という選択もあるが、アイツは納得なんかしないだろう。つまり、今からハルは俺の家で一夜を明かす。そうなると否が応でも出てくる問題が一つ。うちには寝具と呼ばれるものは布団一つしかない。先ほども言ったが今は初春。床で寝るのはあまりに苦痛。そうなると……


「二人一緒にこのせんべい布団で寝ることに? いやいやナイナイ! いくら年が離れてるって言っても見知らぬ男女が肌を寄せ合い一緒に寝るだなんて——」

「何がダメなの?」

「どぅわっ!! ハル! お前びっくりさせんな!」


 気配もなく後ろに立っていたハルに驚き、俺はその場でカエルのように飛び跳ねてしまった。


「ねぇ、杏太郎は私と一緒に寝るのいや?」


 寝巻きだろうか。ピンクの薄い生地に身を包んだハルが手を胸の前でモジモジとさせながら上目遣いに俺に尋ねる。


「いや、嫌じゃねぇけど……」

「なら何も問題ないじゃん。ほら! 杏太郎こっちこっち」


 ハルは子供のような軽快な足取りで布団にその身を滑り込ませると、片手で俺を手招きした。


「あのよーハル。お前さんさっきまで部屋に入るのにも緊張してたじゃねぇか。あの純粋なハルさんはどこに行ったんだ?」

「もう慣れたのっ! それよりほらこっち!」


 わずかに頬を赤く染めたハルが、さっきより強く俺を手招く。


「ハァ〜。さすがに床で寝るわけにはいかねぇもんな。ソファがありゃ良かったがこの狭い部屋には置けねぇもんなぁ〜」


 ブツブツと小言を漏らす俺に痺れを切らしたハルが、ポンポンと強く布団を叩く。それを見た俺はようやく覚悟を決め、彼女の待つ布団へと足を踏み入れた。


「おっお邪魔〜」

「何それ。この布団、杏太郎のだよ?」

「いっ、いやそうだけど」


 肩が触れるか触れないかの至近距離に並んだ俺たちは、何故か同じタイミングで視線が合ってしまい両者は素早く目線をそらす。


「じゃ、じゃあ電気消すぞ?」

「うっ、うん。お願い」


 パチリとスイッチを切り、再び布団に戻った俺の目に背中をこちらに向け、小刻みに震えるハルの姿が目に入った。


「ハル。お前やっぱ——」

「しょ、しょうがないじゃん! こんな至近距離に自分のその……好きな人がいたら誰だって……こっちあんま見ないで? 杏太郎……」


 段々と尻すぼみになっていくハルの言葉を俺は聞き返すことなく、代わりに一つの決意を胸に抱いた。


「明日、仕事終わったら絶対いの一番に布団を買いに行く!」


 そう心に決め、俺は眠れない一夜を過ごすのだった……。

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