第9話 会議
ジュワッ——
熱せられたフライパンに真っ白な小麦粉をまぶされた薄切りの豚肉が敷かれ、瞬時に油の弾ける音がする。
「フ〜フ〜ン♫、フフ〜〜ン♬……」
ハルの話によれば今日の夕飯のメニューは豚肉の生姜焼きとポテトサラダそれにすまし汁だそうで、今彼女は鼻歌交じりにそれらの調理を始めている。時折、俺のプレゼントしたライオンのエプロンに手を添えながら。
「……めっちゃいい匂いがする〜」
壁際にもたれかかった俺の口からポロリと感想が飛び出すと、ハルは無言で俺に笑顔を向けフライパンに再び向き直る。
「…………」
俺は調理中のハルの横顔を見ながらある考えを巡らせていた。それは彼女と俺をつなぐ根幹と言ってもいい事柄。そう。この生活の行く末についてだ。ハルは俺に恩返しがしたいと言ってここまでやって来た。《恩返し》。その内容を詳細にするなら約一千万の恩ということ。なら、彼女は一千万分の働きで俺に恩を返すつもりなのだろうか? それってどういうことだ? 今彼女がしている家事や炊飯を金額に換算するのか? そうしてその働きが一千万まで行ったら彼女はお役御免となりこの家から出て行くというのか?
「そんなの……家政婦となんら変わりねぇじゃねぇか……」
俺は自らの考えに苛立ちを覚え、奥歯を噛み締めながらぼそりと呟いた。
「何が変わらないの?」
「——っ! ハル! い、今の聞いてたのか?」
「ううん、何とかが変わらねぇとしか聞こえなかったよ? なに? 何かあったの?」
「いや何でも、ちょっと会社のことで考え事してた。それよりコンロから離れて大丈夫なのか?」
「うん。あとは盛り付けるだけだから。生姜焼きって意外と早く出来るんだよ。ポテトサラダも昨日のうちに仕込んだのがあったし」
「そうか。相変わらず手際が良いな」
「えへへ。ありがと」
ハルは照れ臭そうに礼を述べ立ち上がると再びキッチンに戻ろうとしたのだが、その後ろ姿に俺は思わず声をかけた。
「ハルッ!」
「ん?」
「夕飯食べ終わったら大事な話がある」
「……? うん、分かった」
火の付いてないはずのフライパンから生姜とタレの香ばしい匂いそして、パチリと何かかが弾ける音が俺の耳に届いた……。
「ん……美味ぇぇ〜……」
マジで店でも開けるんじゃないかというくらいハルの生姜焼きは俺の舌に衝撃をもたらした。一口噛めば口いっぱいに広がる生姜と甘みの効いたタレ、豚肉の旨味。噛むたびに出てくる肉汁にちょうど良い歯切れの良さ。それを追いかける白米が止まらない。
「フフッ。杏太郎ってほんと美味しそうに食べてくれるね。作ったこっちが照れちゃうくらいに」
「いやマジで美味いんだって! ハル。お前マジで店開けるぞ」
「あはは何それ。こんな誰でも出来る料理でお店開けたら料理人は苦労しないよ」
「い〜や開けるね。俺が保証する。もし開いたら俺毎日通うもん!」
「……毎日? 杏太郎が毎日来てくれるなら私、やってみても良いかも……」
その場面を想像したのだろうか、ポッと頬を赤くしたハルが僅かに微笑みながら箸に乗ったご飯を口に入れる。そんな彼女を見た俺は一瞬その
「ぅゴホッ——!! ゴホッ!!」
「だっ、大丈夫? 杏太郎? ほらお茶」
俺はハルが差し出したお茶を一気に飲み干すと何とか事なきを得た。正月に餅を詰まらす年配者の気持ちが少しだけ理解出来た俺はせっかくのハルの料理を無駄にしてはいけないと思い、そこからはゆっくりと味わうことにした。
「ふぃ〜、ごちそうさまでした」
「はい。お粗末様。じゃ片付けるね」
そう言うとハルはテキパキと茶碗や皿を片付け始め、キッチンに向かおうとする。
「俺も手伝うよ。作ってもらってばっかだと悪いし」
おもむろに立ち上がった俺を見たハルは、すぐさまこちらに駆け寄って来て俺の胸に小さな両手を当てがった。
「いいから! 杏太郎はそこでゆっくりしてて。すぐに終わらせるから」
「いや、でも……」
「本当にいいから! これは私の仕事だから……」
『仕事』。彼女のその何気無い一言を聞いた瞬間、俺は夕方の自分の考えがフラッシュバックする。そして、居ても立っても居られなくなった俺はそっとハルの両手を外すと黙ってキッチンの方へ向かって行く。
「……杏太郎?」
「夕飯の後に大事な話があるって言ったろ? 二人でやったほうが早く終わる。だろ?」
「それは、そうだけど……」
「よし。そうと決まりゃ早速始めるぞ? 俺は洗いモンするからハルは拭いてくれ」
「……う、うん。ごめんね」
「こう言う時は『ありがとう』だろ?」
「うん……ありがとう」
未だ納得のいってないハルを強引にキッチンに引き込み、俺たちは夕飯の片付けを開始した。そうさ。これで良い。たとえハルが納得いってなくてもこれで良い。だってコイツは俺の家政婦なんかじゃないんだから。
****
****
「……えーっとそれでだな。話というのを始めようと思うんだが……」
「うん。良いよ」
「……あの、なんで正座?」
リビングの中央。クリーム色のカーペットの上で向き合う形で対面している俺たちだったが、何故かハルは
「だって大事な話なんでしょ?」
「いやそうだが……あ〜もう! いいから足を崩せ! なんかこっちまで緊張しちまう」
「え? うん……分かった」
キョトンとした顔で俺を見たハルはそのまま足を左右にずらし、ストンと腰を下ろすと俗に言う女の子座りの体勢に移行した。ワンピースから覗く太ももと細いふくらはぎが露わになり先ほどよりも俺の緊張感が増したことをハルは知らない。
「——オホンッ! えーっと話っていうのはハルの言ってた《恩返し》についてだ」
「うん」
「ハル。お前は俺に対する恩をどうやって返すつもりなんだ?」
ハルは俺の言葉に即答せず、ゆっくりと顔を下げるとポソリと弱々しい声を発した。
「……分かんない」
「分から……ない?」
「正直、杏太郎からもらった一千万ていう莫大な金額の返し方が私には分からないの。でも絶対杏太郎には恩を返すって、返したいって決めたの。気付いたら杏太郎の部屋を突き止めてて、居ても立っても居られなくなった私はあの日、杏太郎に会いに行った」
「そうなのか……」
「最初はバイトでも何でもして一生かかっても良いからお金を返そうと思った。でも、それじゃあ何かが違う気がして。うまく言えないけど、それじゃないような感覚になって——」
急に言葉を詰まらせ、無言になってしまうハル。その場でうつむき、表情を段々と悲しいものに変えていく彼女に思わず俺は言葉をかける。
「ハル? どうした?」
「……杏太郎は……迷惑?」
「え?」
「杏太郎は私に居られると迷惑? 私、そんなに可愛くないし、男の人の喜ばせ方も分かんない。ここに居て良い理由を必死に探して、自分にできる料理とか家事で役に立とうと思った」
「お前、そんなことを……」
そこで俺はようやく気付いた。先ほどのハルの焦りにも似たような『仕事』というセリフ。彼女は彼女なりに自分の役割を作り、俺に必要だと思われたかったのだ。今にも泣き出しそうな彼女の肩に手を置き、俺はゆっくりと言い聞かせるように話しかけた。
「そうじゃない。迷惑なんてこれっぽっちも思ってない。ただ俺は知りたかったんだ。ハルがどんな気持ちで今を過ごしているのかを」
「杏太郎……」
「それに礼を言いたいのはむしろこっちなんだぜ? ハルの言う『行ってらっしゃい』とか『お帰りなさい』の言葉がどんだけ俺の心に染みてるか、お前知らないだろ? めちゃくちゃ美味い料理にピカピカの部屋。ほんと天国みたいだぜ。ハル。お前の気持ちは理解した。なら俺はこう考える。俺たちにとっての『恩返し』は俺がめちゃくちゃ満足し、ハルがもうこれ以上尽くすことはないって思った時、完了する。それで良いか?」
ハルはゆっくりと顔を上げると、大きな瞳を潤ませながら僅かに震えた声で俺に問いかけた。
「じゃあ、私はここに居てもいい? これからも杏太郎のために何かしてあげていい?」
「あぁ、勿論。願っても無いことだ」
「杏太郎〜!!」
俺の言い終わりにハルがその場から大きくジャンプし、俺の腰に飛び込んできた。
「おいっ……! おま——」
「嬉しい。私、これからも頑張る! 精一杯、杏太郎が喜ぶことをする!」
俺は溜め息混じりに、両目の端に涙を浮かべ子供のようにはしゃぐハルの頭に手を置き呟いた。
「ほどほどにな」
「うん!」
「それとなハル」
「ん?」
「いい加減離れろ」
「……あっ」
自分が今どんな格好をしているかをようやく気付いたハルはカァァっと顔を真っ赤にし、『ごめん!』と猫のように俺から素早く身を引くのだった……。
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