第29話 約束

 今日も鬼のような業務内容を片付け、疲労困憊になりながら自宅へと歩く俺は昼間の出来事を思い返していた。


「御影にはああ言ったものの、全部話してよかったのだろうか? 約束した手前誰かに話すことはないだろうし、御影は約束を破るヤツじゃない」


 不意に御影と指切りをした小指に意識が集中し、夜更けの空に左手を掲げる。


「子供の頃はよくしてたな。指切り。それこそ他愛もない約束事にさえ。これさえしとけばみたいなジンクス的なものが強かった気がするが」


 幼少時代の思い出を何個かフラッシュバックする途中で、様子のおかしかったあの御影の去り際を俺は強く思い出した。


「どうしたんだろ? 御影。あの後変に様子がぎこちなかったような……。そのまま何事もなく退社してたがやっぱ少し気になるな。明日本人に聞いてみるか」


 自分の部屋に煌々と明かりがついているのを確認した俺は、先ほどまで体を重くしていた疲労感がわずかに和らいだのを自覚し、玄関の奥から姿を現すであろうハルの笑顔を想像し心が弾んだ。


「ただいま〜」

「あっ。お帰り〜杏太郎。今日もお疲れ様ですっ」


 俺の部屋は玄関から台所まで一直線に廊下が通っている。だから、俺がプレゼントしたエプロンをつけて料理をしているハルの姿がまず一番に目に飛び込んできた。それに続いて空きっ腹にダイレクトに響く夕飯のかぐわしい芳香。うん、正直たまりません。


「ごめんねー。ほんとは杏太郎が帰ってきたタイミングですぐに出したかったんだけど味の微調整についつい夢中になっちゃって間に合わなかった」

「いやそんなのは全然問題ないけど今、夜の九時過ぎだぞ? 作り始めるのが遅かったのか? 珍しい」

「ううん。杏太郎にはできるだけ出来立てを食べて欲しいから。待ってたの」

「今まで何も食べずにか!? いやいや、俺のことは気にしないでいいから先に食べてろよ」

「そんなのやだ。私の料理は杏太郎に一番に食べて欲しいんだもん」

「ハル……お前……」


 時々、ハルのこの純粋な俺への思いやりに困惑することがある。勿論慕われているのはとても嬉しい。嬉しいのだが、それのせいで彼女に無理をさせてないか? 負担になってないか? などと心配になることがあるのだ。そして俺はその思いに対し何かで返したいと常々思っている。


 そんなことを考えていたためか、俺はふと目に映ったカレンダーにそのヒントを得た気がした。


「そういやハル。お前誕生日っていつなんだ?」

「んー? 誕生日? 八月。八月の六日」


 ハルは何の気なしにガスコンロの火加減を見ながら、片手間に答えた。


「そうか。八月の……六日か……えっ? 六日?」

「そー。六日」

「らっ……じゃねぇか! お前何で言わなかったんだよ!」

「んー? だって誕生日とかこの歳になると平日と何ら変わらないし、そんな大した日じゃないからねー」

「枯れてるっ! お前枯れてるぞ。そういうセリフは三十路とかになって初めて言うもんだろ」

「あはは、杏太郎何言って——」


 笑いながら振り向いたハルの肩を俺は気がついたら鷲掴みにしていた。


「きっ、杏太郎……?」

「決めたっ!」


 頬を赤く染め、恥ずかしそうにこちらを見上げるハルの目を俺はまっすぐに捉える。

 

「決めたってにゃにを……?」

「今年のハルの誕生日は盛大に祝うぞ。ご馳走——は俺は作れないから、ケーキ! めっちゃうまいケーキを買ってきてやる! あとプレゼントも。何が欲しいか今の内に決めとけ! ……できれば俺の給料で買えるもので頼む」


 俺の言葉にハルはその大きな瞳をさらに見開き、リアクションも言葉も発することなく只々、ポーッと天井を見つめていた。


「ハル……? おいどうした? 大丈夫か?」


 ハルは天井に視線を固定したままゆっくりとその口を開いた。


「今まで。生まれてきてから今まで私、誕生日なんて祝われたことなかったの。ほら、私の両親って自分の娘を借金のカタにする最低な親でしょ? そんな奴らが私の誕生日を覚えてるはずもないから私はクラスメートとか他の子達が誕生日の話をするたび、変な疎外感を感じて自分の誕生日に興味を示すことが無くなっていったの」

「…………」

「もう祝われることなんて無いって思ってた。私の誕生日を喜んでくれる人なんてこの世にいないって思ってた……」

「ハル……」

「杏太郎……ほんとに祝ってくれる? こんな私が生まれただけの何の変哲も無いその一日を祝ってくれる?」

「当然だろ! 今まで祝われなかった分まで全部上乗せして、最高の誕生日にしよう!」

「……ありがと杏太郎ぅ……」


 まだ本番すら迎えていないというのに、ハルの目はウルウルと涙をたたえ、喜びと嬉しさに満ちたその感情は彼女の表情を大いに崩した。


「おいおい、ハル。そういうのは本番まで——」


 彼女の頭に手を添えようとしたその時、ガスコンロから高音の電子音が鳴り響き、白煙がその場に立ち込めた。


「あぁ!! ヤッバ! 吹きこぼれてるー!!」


 脱兎の如く走り出すハルを尻目に、俺は悲しく空中にとどまる自分の右手をそっと元に戻し、何事もなかったかのようにぼそりと呟いた。


「だっ、ダメじゃ無いかーハルー。火のそばから離れたらー。危ないだろー?」


 妙な気恥ずかしさをこらえながら俺はそそくさと部屋に入り、スーツを乱暴に脱ぎ捨てた。


「ねー、杏太郎?」

「ん? なっ、何だ?」


 カッターシャツのボタンを外し終えたところでハルが扉越しに俺に声をかける。


「さっきプレゼントも買ってくれるって言ってたけど、ほんとにいいの?」

「あぁ。いいぞ。ただしさっきも言ったが俺の給料で買えるもんにしてくれよ?」

「わかってるよ。そんな高いものお願いしないよ」

「なんかアテがあるのか?」

「うーん。まぁ何となく?」

「ふーん。どんなの?」

「内緒。そのプレゼントは当日にお願いしたいんだ」

「当日? まぁ別にいいけど。その店って遅くまでやってんのか?」

「ん? うーん、そうだね。多分ね……」

「いや多分って……」

「いいから! 約束。約束してっ! 来週の六日は私とお出かけするって!」


 ガラッと扉を開けたハルは、キュッと唇を硬く結び真剣な表情で俺の事を見つめる。


「わかった。わかった。約束するよ。その日は俺仕事だから帰ってきた後になるけどそれでもいいのか?」

「うん。それでいい。待ってる。ずっと待ってるから。じゃあ……はい! “指切り”」

「指切り……」


 ふと御影の顔が思い浮かんだ俺であったが、すぐさまハルの顔が視界に入り俺を現実に引き戻した。


「どうかした? 杏太郎?」

「あっ、いや。何でも無い。指切りするなって思っただけだ」

「そうだね。私もいつ以来だろう。懐かしいなぁ」


 俺が右手の小指をそっと前に出すと、ハルの柔らかな左の小指が重なり巻き付いた。


「指切り〜げんまん〜嘘ついたら……」

「…………」


 あの常套句を歌う俺たちだったが、途中でハルの声が消失しそのまま黙り始めたのに気付く俺。


「ハル?」

「私、杏太郎と出会えて良かった。杏太郎のそばにいれて良かった」


 下を向き微笑む彼女の顔はいじらしくそして、思わず抱きしめたくなる可愛さを秘めていた。


「お前何急に——」

「ただ言いたくなったの! ゆ〜び切った!」


 照れ臭そうに笑いながら強引に指切りをしたハルは、そのまま逃げるようにキッチンの方へパタパタと音を立てながら向かっていった。去りゆくハルの両耳が真っ赤に染めあがっているのを確認した俺は彼女の背中から『追求しないで!』というメッセージを感じ取り、彼女のほとぼりが冷めるまでしばし待つ事を選択するのだった。香ばしい夕飯の匂いを嗅ぎながら……。

 

  

 

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