第15話 不穏
「ただいま〜」
御影と別れ、目的地であるショップに閉店ギリギリで到着した俺はそこである契約をし、小走りでハルの待つ自宅マンションに急いで帰宅した。
「おかえり〜。今日も遅くまでお仕事お疲れ様」
家に着くとピンク色のモコモコルームウェアに身を包んだハルが、パタパタとスリッパを鳴らしながら、俺の元に駆け寄ってきた。
そうだった。今日は仕事って言って家を出てきたんだった。ならそういう風に装わないと変だよな。
俺は大して疲れてもいないのにわざと『ふぅ〜今日はシンドカッタナァ?』などと白々しい演技を混ぜながら、靴を脱ぎ、家に上がろうとしたのだがハルの敏感センサーが発動したのはまさにその時だった。
「大変だったね。今、お風呂もご飯も用意出来てるからどっち——」
ハルの言葉が止まった。彼女は俺のカバンをストンと床に下ろすと、ゆっくり俺の上半身に顔を近づけ始めた。
「ハッ、ハルッ? どうかしたか?」
俺は嫌な予感がした。確か焼肉の件の時もこんな風にハルに匂いを嗅がれてバレたからだ。そして案の定、ハルは俺の腹に思い切り顔を沈めるとスンスンと鼻を鳴らしていた。
「ねぇ? 杏太郎? どうして杏太郎の体から女の子が使う香水の匂いがしてるの?」
しっ……しまったアァァッァァ!! あの時だ! あの暗闇で御影を抱きかかえた時に匂いが移っちまったんだ。確かにあの時、御影からめちゃくちゃ良い匂いがしてた。だが、多少触れた程度で移った香水の匂いを嗅ぎ分けるなんてコイツ警察犬並みの嗅覚してやがるぅぅ!! なんて恐ろしい子! などと、冗談めいた心境ができるのはここまでで、俺はゆらりゆらりと体を揺らしながらバキッバキに開いた瞳孔をこちらに向けるハルにゆっくりと玄関まで押しやられる。
「ねぇ? どうして? 答えてよ? 杏太郎? ねぇ? ねぇってば?」
「おおお、落ち着けハル。目が怖い。一回落ち着いて話をしよう!」
「私は落ち着いてるよ? 焦ってるのは杏太郎。あー……ひょっとしてこの前会った御影さん? だっけ? その人となんかあったのかな?」
こいつどこまで鋭いんだ。FBIか! キョロキョロと目を泳がせる俺は、もはやあの秘密兵器を投入するしかないと覚悟し、後ろ手に隠していた紙袋をハルの眼前に差し出した。
「ハルッ、コレ!」
「……何コレ?」
「お前、“コレ”持ってなかったろ。開けてみ?」
「……うん」
俺に言われ、怪訝な表情でハルが紙袋から四角い箱を取り出す。
「これって……スマホ……!?」
「そ。これで離れていても連絡できるだろ? 前々から買ってやろうと思ってたんだよ。あと、さっき言ってた香水の匂いだけどコレを契約する時の受付のお姉さんの香水がキツかったんだよ。多分それの匂いが移ったんじゃナイカナー?」
完璧。我ながら完璧な理由である。多少語尾に違和感があったがどうだろう? うまくごまかせたか? 俺が恐る恐るハルの様子を横目で見ると、彼女は真っ白なスマホを両手に大切そうに持ちながらそれを凝視していた。
「いっ……いいの? こんな、高いもの……」
「良いよ。一括じゃなくて分割払いだし」
「でも、使用量だって毎月かかるし」
「そんなの大した出費にはならん。俺一応社会人だぞ?」
「でも……」
未だ申し訳なさそうに下を向くハルに俺は自分の本音を口にする。
「俺が持っていて欲しいんだ。ハルに何かあった時とかにすぐに連絡できるように。だからここは『ありがとう』の一言で受け取っとけ」
ハルは真っ暗な画面を細い指で撫でながら、自分の顔を映す。
「私、杏太郎に与えてもらってばかりだね。恩返しをするためにココに来たはずなのにこれじゃあ全く逆のことやってる」
俺は後ろ髪を乱暴に掻きながら、顔を上げようとしないハルの頭に手をやった。
「アホか。ハルが普段からやってくれてる炊事とか料理に俺は死ぬほど感謝してんだぜ? ああいうのが恩返しにならなかったら何がなるってんだよ?」
「杏太郎……」
「あーあ、立ち話してたら腹が減っちまった。今日の晩飯は何だ? ハル」
俺の言葉に、心の底から嬉しそうな表情をしたハルが笑顔で答える。
「今日はすき焼きだよ。杏太郎」
「ヨッシャー!! 俺の大好物じゃん!」
クスクスと笑いながら俺を見るハルと、そんな彼女を愛おしく思う俺たち二人はようやく玄関を上がり、居間へと続く廊下を歩み始める……のだが、そこでスマホの電源をONにしたハルが大きな声を上げた。
「あぁっ!! これ、【乃木杏太郎】って番号登録されてるー!」
また何かやらかしたとビクンとなった俺は思わず拍子抜けしてしまい、『むー』と片方の頬を膨らませるハルに質問した。
「いや、何もおかしくないだろ。俺の名前は乃木杏太郎なんだか——」
ハルは俺の言葉を聞いておらず、何やらスマホをポポポッと操作し始める。俺が覗き込むとそこには【杏太郎♡】と俺の名前の後にハートマークが打ち込まれていた。
「おまっ——! 何てことしてやがる! そんなの誰かに見られでもしたら……」
「へへーん! もう登録しちゃったもーん」
「貸せ! 今すぐ登録し直す!」
「やだ〜〜っ」
猫のようにしゅるりと交わすハルとそれに翻弄される俺。二人の追いかけっこは結構長い時間続き、結局俺が折れるハメになるのだった……。
****
****
同時刻——児童養護施設〔ほほえみ園〕園内。
ここは小鳥遊ハルが両親から捨てられ、その引き取り先に選ばれた養護施設である。市が運営するここは収容人数が少なく、勤務している職員もごくわずかだ。そんな職員の一人、ここの園長を任されている男——
「園長。もう限界です。役所の方達は小鳥遊ハルさんの長期の不在をひどく怪しんでいます。もう、外出しているなどの言い訳は——」
女性職員から告げられた言葉を聞いたその瞬間、彼は机の物を全てなぎ払い、怒髪天を突く勢いで立ち上がると園内に怒号を轟かせた。
「わかってるんだよォォォ!!! そんなことはァァ!! 僕はエリートなんだぞ!? 今考えてるんだよォォォ!!!」
ビクリと体を跳ねさせた職員を尻目に彼は息を切らしながら引き出しを乱暴に開け、中から頭痛薬の容器を取り出しバラバラと床に散乱させることも厭わず手のひらに乗せると、口に含み水も使わずそれらを噛み砕いた。
「ハァ……ハァッ、ハァハァ——」
ガリガリと薬を
「大きな声を出してすまない。怪我はなかったかい?」
「はっ……はい」
柔らかく微笑みかけたその瞳に優しさなどかけらも宿ってはいないことを女性職員はひっそりと悟った。
「あの……園長」
「今度は何だい?」
彼らのやりとりを見ていたもう一人の女性職員が恐る恐る発言する。
「駅前で小鳥遊さんを見たと別の職員から連絡が」
「本当かい? それで今彼女はどこに?」
「それが……その時一人ではなく男の方といたらしくて……」
「男……?」
「はい。こっそり後をつけた職員がその男の住所を突き止め名前を確認しました」
「その男の名は?」
「“乃木”という二十代後半の男みたいです」
「乃木……」
聖賢吾は口の中に残った頭痛薬のかけらを噛み砕くと、血走った両目で〈小鳥遊ハル〉と書かれたネームプレートをにらみ、ぼそりと呟いた。
「必ず見つけ出してみせる……小鳥遊ハル……」
無邪気に追いかけっこをする二人に暗雲が立ち込め始めたのはちょうどこの時からだった……。
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