第14話 “条件”という名の……

 時というものはあっという間に過ぎ去り、気が付けば御影と約束をした休日の朝を迎えていた。


「お休みの日まで仕事しなくちゃいけないとか大変だね杏太郎?」

「お、おう。まぁな」


 御影にハルには内緒と言われたとはいえ浮気男の言い訳第一位だと思われるフレーズを口にする日が来るなんて俺は思いもしなかった。なんだろう? 変に後ろめたさがあるのは気のせいだろうか? 今、目の前でスーツの背広を広げて持ってくれているハルの笑顔が妙に心にくる。


「……? どうかした? 杏太郎?」

「いや、なんでも?」


 ダメだ。これ以上ハルの顔を見ていたら罪悪感がひょっこり顔を出しそうだ。そう思った俺はネクタイをキュッと締め、まるで本当に休日出勤に向かうかのようなサラリーマンの気持ちで我が家を後にした。


「じゃ行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね」


 くっ……! ハルの笑顔が痛い。いや、別に何も悪いことしてないんだがな。決して。そう決して! 俺の心をチクリと刺す痛みは俺が駅に到着するまでずっと続いていた……。



「あっ……! 先輩! こっちです!」


 駅に着くと普段見慣れたパンツスーツ姿の御影はそこにはおらず、薄紫色のブラウスにくるぶし丈の水玉スカートに身を包んだ清楚という文字を体現したかのような美少女が、俺の到着に合わせ手を振っていた。


「悪い。待ったか? 御影?」

「いいえ。私も今来たところなので」

「……そうか」


 マジか。御影ってこんなに女の子らしい外見してたのか? 気付かなかった。後輩としてしか見てなかったからなぁ。いや、先週もプライベートな格好をしてたはずなんだがあの時は気が動転しててそれどころじゃなかったし、髪も普段のロングヘアーから三つ編みをさらに丸くひねったフレンチクルーラー(?)みたいな髪型になってるから本当に別人と喋ってるみてぇだ。


 俺がじっと御影のことを凝視していたら彼女もその視線に気付き、目を伏せながら俺に質問を投げかける。


「なっ、何かおかしいですか? やっぱりこの格好似合ってない……とか?」

「いやいや! むしろ逆だ! 御影、お前めちゃくちゃ女の子なんだな。いや、そりゃ当たり前か……そうじゃなくて、そう! 可愛い。御影、お前すげー可愛いよ」

「へっ……? か、かかか可愛いィ!? 今、乃木先輩可愛いって……」

「おう。そう言った」

「か……わっ——」


 糸の切れたマリオネットみたいにその場にへたりこむ御影を俺は慌てて支えた。


「おいっ! 御影大丈夫か? おーい?」


 その後、御影が再起動するのを待って俺たちは駅のホームへと入って行った……。



「すっ、すみません! お見苦しいところを見せてしまい……」

「いや、気にするな。立ちくらみなんて誰でもあるからな」


 列車の中で対面する形でシートに腰を下ろした俺たちは、窓に流れる景色を尻目に談笑していた。御影は先ほどのことを深く気にしている様子で、さっきから俺に何度も頭を下げている。三回目の謝罪を言い終わり、やっと席に着いてくれるのかと安堵した俺だったが、御影はまだ何かを言いたそうで座ろうとしない。


「あの……先輩。本当にすみません!」

「いやだから、そのことはもう——」

「そうではなくて。仮にも後輩の身分でありながら脅迫まがいの条件を出して、こうして休日に呼び寄せてしまったことです。冷静に考えたら私のやってることって最低だなって。本当は、今日朝一番に謝罪するつもりだったんです」

「御影……」


 俺は申し訳なさそうにこちらを見つめる御影の頭にポンっと手を置いた。


「良いよ。一方的にお願いするよりこうして条件付きにしてもらった方が返って気が楽な場合もあるんだ。今回のがまさにそれだ。だから、御影はそんなに気負わずせっかくの休日を楽しもうぜ? な?」

「……せんぱい……ありがとうございます」


 俺の言葉を聞いた御影はかたくなな表情をやっと崩すと、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。


そうこうしているうちに目的地である水族館に俺たちは到着し、入館ゲートをくぐり薄暗い館内へと歩を進める。


「御影の行きたかったところって水族館か」

「はい。一人でもよく来るのですが、今日はどうしても先輩と来たくて」

「一人……? 御影は鳳凰院と仲がよかったろ? 一緒に行かないのか?」

「あっ、はい。アキちゃんとは他の遊興施設にはよく行くのですが……は来たことないですね」

「ふーん。それまたどうして?」


 俺はその質問を軽い気持ちでしたのだが、御影の方はこの質問に対する答えを口にするのをかなり恥ずかしがっているみたいで、モジモジとへその方で手を組みながら『それは……すっ……な人と……来たかった……から……で……』と壊れかけのラジオのようなボイスを口から出すと、〈摩訶不思議・深海の生物達〉というコーナーの入り口に子供のように駆けて行った。


「あぁ! せっ先輩っ! ホラホラ見てください! 深海の生物の展示やってますよぉ〜? 行きましょう!!」

「おっ、おう……」


 その勢いに押され、先ほどの質問の内容を忘れてしまった俺は焦るようにこちらに手を振る御影の後を追った。


 そのコーナーは深海に住まう生物に配慮したためか、他のフロアよりはるかに薄暗く、自分の手がかろうじてぼんやり見える程度の視界の悪さだった。当然、足元や障害物には目印のライトが点灯しているのだが【絶対に走らないでください】という注意書きも納得の暗さを誇っていた。


「おーい御影。足元、気をつけろよ」

「はっ、はい。ありがとうございます」


 ボワっと暗闇に映し出される群青色の水槽はまるで宇宙で光る恒星のようで、俺はハルと見たあの日のプラネタリウムを思い起こしていた。今度、アイツも連れて来てやろうかなと、脳内ではしゃぐハルの姿を想像していた俺は自分の顔面のすぐ近くに御影の顔があることなんてつゆ知らず。吐息のかかる位置まで彼女に接近していた。


「あっ、先輩。この子ダイオウグソク——」


 御影は振り向いたその眼前に俺の顔があったもんだから、軽めのパニックを起こし、息をヒュッと短く吸った瞬間、『ひゃぁぁ』という声とともに体のバランスを大きく崩してしまった。


「御影っ!!」


 御影を支えようと手を彼女の腰元に回す俺だったが間に合わず、二人一緒に絨毯の敷かれた床にドスンと倒れ込んでしまった。その瞬間、俺の唇にがパッと触れたがそんなことを気にしている余裕は今の俺にはなかった。


「御影、平気か?」

「はっ……はい……大……丈夫です……」

「そうか……」


 その後、慌てて飛んできた係員の方たちに何度も謝罪し、俺たちは水族館巡りを再開した。俺は唇に触れながらさっきぶつかったものの正体について考えていたが皆目見当もつかなかったため考えるのをやめた。



「今日は一日ありがとうございました!」


 夕暮れ時。御影と過ごす休日にも終わりがやってきて、最後の最後まで丁寧に頭を下げ礼を述べる彼女に俺は思わず吹き出してしまう。


「ブフッ! あのなぁ御影? これは交換条件の一環だろ? だったらそんな大げさな礼はいらねぇって」

「でも……本当に楽しかったですし……」

「そうか。俺も楽しかったよ。また機会があれば誘ってくれ」

「……はい! ぜひ!」


 と、ちょうどいいタイミングでホームに列車がやってきてプシューッとドアが開く。


「じゃまた会社でな。気をつけて帰れよ?」

「はい。乃木先輩もお気をつけて」


 御影が車両に乗り込み、高音のベルと共に自動ドアが閉まりゆっくりと列車が走り出す。離れていく御影の姿を最後まで見送った俺は、最後尾で光る真っ赤なテールランプを見つめながらふぅっと息を吐いた。その車内で、御影が真っ赤な顔をしながら自分の“クチビル”をずっと触れていたことなどつゆ知らず……。


「さて、この後もう一軒寄るところがあるんだよなぁ。まだ開いてるよな?」


 俺は腕時計で今の時刻を確認すると、急いで駅のホームを駆け下りていくのだった。

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