第16話 聖賢吾

「杏太郎、今日何食べたい?」


 今日は珍しく仕事が早く終わり、いつもよりも若干明るい時間に帰宅することができた俺は、現在ハルと一緒にスーパーに買い物に出ていた。ハルには『家でゆっくりしてて』と遠慮されたが俺は荷物持ちを進んで買って出た。なんとなく一緒に居たい気分だったのだ。


「そうだなぁ、昨日は肉だったから今日は魚……煮付けとか食べたいな」

「あっ、だったらブリ大根は? 本日の特売品だって」

「良いな。ていうかハルって和洋中、何でも作れるんだな」

「えへへ。私の数少ない取り柄の一つだからねー」


 ハルは照れ臭そうに笑うと、陳列棚に並んだブリのパックを両手に取り交互に見比べその審美眼に叶った方を買い物かごに入れた。


「ちなみに杏太郎は料理できたりする?」


 精算の終わった商品をレジ奥の机でビニール袋に詰めながら、ハルが俺に問う。


「いんや、からっきし。かろうじて作れてチャーハンとか目玉焼きくらいだな。あとはインスタントラーメン」

「インスタントラーメンはお湯を入れるだけじゃん!」

「いやいや、湯加減によって麺の硬さとかスープの濃さが違ってくるんだぜ? 一人暮らしの男はそこらへんをみんな極めてるのだ!」

「何それ! でもそっか……杏太郎はお料理苦手なんだ……」

「おう。だからこれから先もずっと俺の胃袋の命運はハルにかかってる! 今後ともよろしくな」

「これから先もずっと……なんかそれって……」

「……?」


 スーパーを後にし俺の隣を歩いていたハルは、ただでさえ小さいその体をさらに縮め前髪で表情を隠す。彼女の顔が赤いのは夕日に照らされていたのではなく俺の発言によるものだということを俺は遅ればせながら気付き、自分の浅はかさを呪った。『これから先も俺のためだけに料理を作ってくれ』まるで下手なプロポーズとも見て取れるこの文言を俺は恥ずかしげもなく口にしたのだ。俺のバカ。


「いやっ、ハル? 違うぞ? 今のは——」


 しどろもどろに取り繕うとする俺の耳に『プッ』と吹き出すハルの口元が見えた。


「何焦ってるの杏太郎〜? 冗談に決まってんじゃん!!」

「なっ……コイツっ! 人をからかいやがって!」


 年甲斐もなく顔面を湯立たせる俺の手からハルがビニール袋を一つ持ち去っていく。


「でも一瞬のは本当だよ? びっくりしちゃった……半分持つね?」

「お……おう……」


 時々ハルは本当に年下かと疑ってしまうほど大人の色気を出してくる。今だってそうだ。夕暮れに吹く生暖かい風にその亜麻色の髪をなびかせながら俺に向ける微笑みはとても子供とは言えない魅力を放っていた。


 そんなハルの様子が一変する事件はこのすぐ後、彼女が食材の入ったビニール袋をドサリと地面に落下させた瞬間から始まった。


「……ハル?」


 前方を歩いていた彼女はその足を完全に止め、落ちた袋を気にする様子もなく只々小刻みにその体を震わせていた。


「なんでっ……アンタがここに……」


 どうやらハルは誰かと対峙しているらしく、俺が彼女に追いつくとそこにはカッターシャツに黒のパンツ、首元から何かをぶら下げている俺と同い年くらいの白髪の青年が立っていた。


「やぁ。やっと会えたね。小鳥遊さん。そして初めまして乃木さん? 名前は……“杏太郎さん”でよろしいですか?」

「……はぁ……」


 彼が見せたその微笑は今まで俺が見てきたものの中で一番爽やかで、そして一番不気味なものだった……。


****

****



「児童養護施設〔ほほえみ園〕園長、聖賢吾……さん」


 あのまま暗くなるまで外で立ち話というわけにはいかず、俺は彼を自宅に招き入れた。そして彼が差し出してきた名刺に目を通し、そこに記されている役職を口にした。


「はい。彼女——小鳥遊ハルさんの身元引受先となっております」

「じゃあハルが育ったところなんですか?」

「はい。その通りです」

「へぇー……」


 俺は名刺に書かれた【恵まれない子供達を我々は身をにして救います】という文言に奇妙な違和感を覚え、名刺から目を離せずにいたのだが彼はお構い無しに言葉を続けた。


「ところで乃木さん」

「はい」

「先ほどの一千万で彼女を救出したという話は本当なのでしょうか?」

「えぇ、まぁ。あぶく銭ですけどね。ヤクザに売られようとしてたっていうのも本当です。あなたたちも見たのではないですか? 奴らそっちにも顔を出したってハルが言ってましたから」

「えっ……えぇまぁ。私はその時、会合で席を外しておりまして居なかったのですが……」

「そう……ですか」


 彼はしばしの沈黙の後、姿勢を正し俺の元に深く頭を下げ始めた。


「乃木さん! この度は大変なご迷惑をお掛け致しました! 職員代表として深くお詫び申し上げます!」

「ちょ……聖さん!?」

「しかし、一千万という多大な金額を私共が返済するのはひどく難しいと感じております。なにぶん我々、市の運営で成り立っているものですから。ですから、何卒ご慈悲を頂きたく存じます!」

「頭を上げてください! 聖さん。もともと俺は金を返して欲しいだなんて思ってないですから」


 その言葉を聞いた瞬間、彼はガバッと顔を上げ眉間にシワを寄せ礼を述べた。


「おぉ、なんと慈悲深い! あなたのような優しい方はこの世にそうはいない。私はあなたと巡りあえて本当に良かった……」


 なんだろう。さっきから胸の中から出てくるこの気持ちの悪いモヤみたいなものは。彼が言葉を発するたびにそれが濃くなっていく。彼は至極まともなことしか言ってないのに。


 俺はふとハルの様子を見る。彼女は居間に座ることなくキッチンの壁に不快感を露わにしながら背を預け、彼の行動を凝視していた。時折出る舌打ちに似たようなものは俺の聞き違いだろうか。


「それで乃木さん」

「あっ、はい」

「彼女の今後についてなんですが……」

「はい」

「我々は彼女の身元引受人もになっております。彼女の無事が確認されたので我々と致しましては彼女をたいのですが……」

「“返して”……ですか……」

「はい。彼女の今後もありますし、いつまでも乃木さんのお世話になるわけにはいきませんから——」


 その瞬間、今まで沈黙を守ってきたハルが台所から飛び出し俺たちの間に割って入ってきた。


「勝手に現れて何言ってんの! も私を見捨てたくせにっ! 今更あんなところに誰が戻るか!!」


 俺は初めて聞くハルの怒号に一瞬、呆気に取られたがすぐさま彼女の興奮を抑えようと肩を抑え声をかける。


「落ち着けってハルッ! 急にどうしたんだよ」


 怒りの声をぶつけられている彼も予想外といった感じで両手を前に出し、焦燥の表情を浮かべる。


「そうですよ。どうかしましたか? 小鳥遊さん。いつもの優しいあなたに戻ってください」


 その言葉を聞いた瞬間、ハルは目を見開き怒りの沸点を超える。


「その気色の悪い演技をやめろって言ってんの!!」


 シンと静まり返った部屋にハルの荒々しい呼吸だけが聞こえる。俺がパッと彼の顔を見ると何かを強く噛みしめるようなひどく歪んだ表情をしていた。


「……私……杏太郎と一緒にいたいよ……」


 ポツリと放たれた小さな呟き。見上げたハルの顔は今までにないほど悲しみに染まっていた。


「何を言ってるんですか小鳥遊さん。あなたも子供じゃないんですから、わがままを言ってはいけませんよ?」


 必死に冷静さを保とうとする喉の奥から絞り出された彼の声をきいて俺は先ほどから感じている違和感が気のせいではないことを悟った。


 なぜ彼はハルと会ったあの瞬間、彼女の安否を一番に気にしなかったのだろう。

 なぜ彼はハルが危ない目にあったというのに一番に金のことを聞いてきたのだろう。

 なぜ彼はハルに対して一度も微笑みかけないのだろう。


 そんな疑問が募りに募ったその瞬間、俺の口は勝手に動いていた。


「今日はお引き取りくださいませんか?」

「……は?」

「ハルいや、彼女もひどく混乱しているようですし、私事で恐縮ですが明日の仕事が朝早いんですよ」

「……なる……ほど……」


 納得のいっていないのが明白なほど不機嫌になった彼は、ふぅっと一回息を吐き、再びあの不気味な微笑をその顔に浮かべた。


「では今日はこれで失礼致します。夜分遅くにすみませんでした」


 そう言い残すと彼はそそくさと立ち上がり、俺の部屋を後にした。


「杏太郎……」


 彼が部屋を去ったその直後、まるで主人を無くした子犬のような顔をこちらに向けるハルに俺はワントーン低めの声でゆっくり話しかけた。


「大丈夫かハル? お前がアイツを嫌っていたのはすぐにわかったよ。何があったのかは今は聞かない。だから、もうそんな顔すんな」

「きょうたろ……うぅ」


 ハルはゆっくりと俺の元にやってきて、強く俺の体を抱きしめた。俺は何があってもを選択すると、この時自分に誓った。例え何があったとしても……。


 そんな覚悟を決める俺は、彼——聖賢吾が帰りの道でブツブツと何かを呟き、脳内を邪な考えで埋めていたことをまだ知らずにいた……。


「そう来るならこちらにも考えがある。やり方を変えるか」

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