第17話 小鳥遊ハルの選択

 私の朝は早い。杏太郎が出勤する平日は絶対彼より早く起きて朝ごはんと支度の手伝いをする。最初は起きるのすら辛かった私だが、彼の喜ぶ顔と『美味しいよ』という言葉を聞くのが毎朝の楽しみとなり今では目覚ましより先に起きることもざらだ。


 彼が部屋を後にしたら、朝ごはんの片付け、部屋とお風呂場の掃除、洗濯を順番にこなす。と、ここで私は杏太郎の残していった着替えの残骸を見てムゥーと唸る。彼はいつもシャツを反対にして脱いでいくのだ。これがシャツだけなら良いのだが彼は靴下も同じように脱ぐので、洗濯の度にそれらを一回戻さなければいけないのだ。このクセは何回言っても直してくれない。だけど私が注意する度に『あっ。……ごめん』とまるで子供のようにシュンとして謝る彼を見ると私は怒る気を失くしクスリと笑ってしまう。今日もあの顔が見れそうだ。


 ここに来てどれくらい経っただろう。今、私が見ている玄関の扉の前で寒空の下、ガチガチに震えながら彼がそのドアを開けてくれるのを待っていたことを鮮明に思い出す。あの時は嬉しかったなぁ。ガチャっと開いたドアの向こうの杏太郎の顔を私は一生忘れることはないだろう。そしてあの瞬間から始まったんだ。この天国とも云える彼との楽しい日々が。時々喧嘩もするけどなぜかそれも過ぎ去れば良い思い出になって私の中に刻まれていく。今日はどんなイベントが起こるだろう? ワクワクとした私は軽やかな気分でマグカップの中のお茶を飲み干し、夕飯の準備をしようと蛇口をひねったその時だった。「最悪」という二文字を引き連れた呼び鈴が部屋の中に響き渡ったのは。


「はーい。今出ま——」


 扉を開け、私の目に映ったのはあの男——聖賢吾の姿だった。


「何しに来たの!? 私は戻らないって言ったよね?」


 彼は大げさに首を振ると、あのうすら寒い笑顔を浮かべながら私の問いに答えた。


「いいや。違うさ。今日は君と話がしたくてここに来たのさ」

「話……?」


 私は狡猾な笑顔を崩そうとしない彼を部屋に上げ、その話とやらを聞くことにした。


「……で? 話って何?」


 露骨に不機嫌さを顔で表し、リビングをキョロキョロと見渡す彼に私は質問する。


「いい部屋だ。駅も割と近いし、コンビニもすぐ近くにある。ただ、いかんせん部屋が狭い。ここには二人で住むのがやっとだろう」

「ちょっとっ! 今はそんなこと——」

「彼もここの部屋より広い場所に引っ越したいはずなのに、かわいそうだね。薄給のサラリーマンは?」

「ハァ? そんなことアンタに関係ないでしょ!?」

「その薄給すら受け取れなくなったら……彼はどうなるんだろうね?」

「なに……言ってるの?」

「刑法242条。未成年略取及び、誘拐。これに違反したものは三ヶ月以上七年以下の懲役または五十万以下の罰金が処せられる」

「……は?」

「彼はこの法律を犯していると僕は言いたいのさ。僕はT大の法学部を首席で卒業してるからね。大体の法律は頭に入っているのさ」

「それがなんなの? そんなの私が否定すれば——」

「子供の君の言葉を誰が信じるんだい?」

「——っ!」

「今、僕が警察に電話し諸々の事情を話せばどうなると思う? さらに君が彼に辱められ、脅迫されてると付け加えたとすれば?」

「ア……ンタ……」

「彼は間違いなく逮捕だよねぇ? そうなれば職を失い、世間からバッシングを浴び……彼の人生はそこで終わりだ」

「そんな……」

「頭の悪い君でも理解出来たようだね。でも僕は優しいからね。今すぐ戻ってこいなんて言わない。猶予をあげよう。今日一日は待ってあげる。明日までに君が施設に戻ってこなければ僕は警察に電話する。いいね?」


 彼は私の肩にそっと手を置くと、勝ち誇ったかのような顔で私たちの部屋から出て行った。最悪の捨て台詞を残していって。


「間違っても彼にこのことは話さないことだ。彼も君と同様、頭が悪そうだ。逆上してなにをするか分からないからね。それじゃあ最後の一日を後悔なく過ごすんだ。じゃあ……」


 ガチャンというドアの閉める音が、私の心の中に絶望を撒き散らした……。


****

****



「……なんかあったか? ハル?」

「え……?」


 夕方。仕事から帰って来た杏太郎は、キッチンで晩御飯の準備をする私を見ながらそう質問した。


「ううん。なんでも。今日の夕飯カレーにするかシチューにするか今、迷ってたの」

「断然カレー! カレー一択!」

「ほんと杏太郎カレー好きだねー」


 言えない。今日起こったことを杏太郎に言えるはずもない。もし言ったら優しい杏太郎はきっと……頭の中で最悪の場面を想像してしまった私は、グツグツと煮立つ鍋を見ながら奥歯を噛み締めた。


「じゃ、おやすみ。ハル」

「うん。おやすみ杏太郎」


 食事を終え、少しの団欒だんらんを終えた私は気が付けば就寝の準備をしていた。杏太郎と過ごす最後の夜になるかもしれないのになんともマヌケな私だ。杏太郎から聞こえる呼吸が深くなったのを確認した私は、そっと布団から立ち上がり折りたたみの机とスマホのライトを起動させる。


「まさか私が置き手紙を書くことになるなんて思いもしなかったなぁ」


 私の心は決まった。だけどどうしてもこの想いだけは残して起きたかったので今こうしてペンを取っていた。


「うーん……手紙なんて久しぶりに書くから書き出しに迷うな。ええと……」


 口ではそう言いつつも書き始めたら私のペンを持つ手は止まらなかった。それはそうだろう。こんな紙切れ一枚じゃ今の私の心情を表すことなんてできない。それこそ原稿用紙百枚は欲しいくらいだ。でもそんな大量の手紙、読む方が困っちゃうよね。だからここは簡潔に……と、私は真っ白な紙にポツリと一滴の水滴が落ちるのを見た。そしてすぐにそれが自分の涙だと悟った。


「嫌だよぉ……杏太郎……ずっと……これから先もずっと、杏太郎と一緒に居たいよぉ……」


 溢れ出る涙を私は止められない。でもここで私がわがままを言ってしまえば杏太郎の人生をめちゃくちゃにしてしまう。それだけは絶対に嫌だ。私は腕でぐっと涙を拭うと手紙を最後まで書き終えた。


 気が付けば朝日が差し込み、カーテンの隙間から光が入り込む。私は制服に着替え、玄関から改めてこの部屋の全体を見た。


「じゃあね杏太郎。今まで本当にありがとう……バイバイ」


 そう言い残し、私は杏太郎と過ごしたこの温かい部屋を後にした……。

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