第18話 奇縁

 俺は何をやっているのだろう。何故、今俺は平然と会社に出勤し、いつもと同じような業務を同じようにこなしているのだろう。本当は今すぐにハルの元に駆け出したいのに。の手中からハルを救いたいのに。いつまでたってもその行動を起こせないでいるのは今朝の出来事を引きずっているせいかもしれない……。


『ハァ……ハァッ……ハァ——!』


 俺は朝日に照らされた早朝のコンクリートの道を息を切らし、必死に駆け抜けていた。その理由は虫の知らせとも云える予感に目を覚まし、机の上に置かれた一枚の手紙を発見したからだ。その手紙はハルが書いたもので冷蔵庫の中の作り置きの惣菜話から始まり、家事のやり方や簡単な料理のレシピ、不摂生な生活を送らないようにとの注意書き、そしてたくさんの謝罪の言葉とお礼の言葉、最後に短い別れのセリフ。以上の内容がルーズリーフ一枚程度の紙にびっしりと書かれていた。


 俺はその手紙を読み終えた瞬間、スマホを片手に着の身着のまま外に飛び出していた。ハルに何かがあった。俺の知らないところで。ハルにこんな手紙を書かせるほど追い詰め、あまつさえ彼女の自由を奪う最悪の出来事が今、彼女の身に降りかかっている。そんなことを俺が見過ごせるはずもない。そしてその原因について俺は心当たりがある。だから飛び出す時にスマホを持ってきた。を検索し、そこに向かうため。


『クソッ! なんでだ! ハル。なんで電話に出ない!』


 俺は一縷の望みをかけてハルに何度も電話をかけるが、マイクから聞こえるのは発信音のみ。こうなったら仕方がない。直接あそこに乗り込んで無理矢理にでもハルを取り戻す。そう決意した俺はスマホの地図アプリに記された場所に到着し、【児童養護施設ほほえみ園】と書かれた木の板を目に映す。


『ここがハルの育った場所……』


 大きく呼吸を乱しながら、俺は辺りを徘徊しその場所の詳細を観察する。


 そこは鉄筋コンクリートで作られた古めかしい校舎のような建物を中心に周り全てを真っ黒な鉄格子てつごうしで囲まれた、あたかも刑務所を彷彿とさせるような雰囲気があり、中から吹いてくる風は嫌な寒気を感じさせた。


 正面から入るか、裏口からこの鉄格子を登るか思案していた俺の目に、感情を失った目であの男に手を引かれているハルの痛々しい姿が飛び込んできた。


『ハルッ——!! 大丈夫か!? 俺だ杏太郎だ! 今すぐそこに向かうからな!』

『——っ! きょう……たろう……』


 俺の声にすぐさま気付いたハルはその大きな瞳を潤ませ、眉根を寄せる。今すぐにでもこちらに来たい。そんな顔を彼女はしている。だが、隣に佇むあの男——聖賢吾がそれを許すはずもなく、彼はハルの耳元であの不気味な笑みを浮かべながら口を小さく動かすと彼女の顔を絶望に染めた。そして、彼に何か言われたハルはゆっくりと俯きながら俺から視線を外し、建物の中に入って行ってしまった。


『そんな……ハル、どうしてっ! なにがあったんだ! ハル!』

『お静かに願えますか? こんな朝の早いうちから』


 必死に叫ぶ俺の元に、あの笑顔を浮かべた彼が優雅に歩いてきた。


『お前、ハルに何をした? 何言ったらハルがあんな顔になるんだよッ!』

『別に? 大したことは言ってないし、やっていませんよ』

『とぼけるな——! あんなに嫌がっていたこの場所にハルが戻るはずがない。お前が何かしたんだろ!?』


 彼は激昂する俺を一瞥すると、ハァッと長い溜息をついた。


『これだから底辺の奴らは困る。自分がいつでも正しいと、否定される立場ではないと思い込んでいる』

『何っ——?』

『いいですか? あなたは彼女に守られたんですよ。逮捕という最悪の結末から』

『逮捕……? なんで俺が……』

『それはあなたが未成年の彼女を家に連れ込んでいたからです』

『——っ!』

『僕は彼女に助言しただけです。このままではあなたが犯罪者になってしまうと。その言葉を聞いた瞬間の彼女の顔。あなたにも見せてあげたかったですよ。悲痛、悲恋、非情。あらゆる感情の織り混ざったあの真っ青な彼女の顔を!』

『て……めぇ……』

『おっと。僕を憎むのは御門違おかどちがいというものです。彼女のおかげであなたは犯罪者にならずに済んだのですから。そして同時にあなたは考えるべきだ。彼女の本当の幸せを』

『ハルの本当の幸せ……?』

『そうです。あのままあなたとあの狭い部屋で暮らして本当に彼女は幸せになれるでしょうか? いつまであなたが彼女の面倒を見るのですか? 一生? 高校も卒業していない彼女はまともな仕事にまず就けない。派遣かアルバイトがやっとです。そんな状況でもし、あなたが彼女に愛想を尽かしたら? 逆に彼女が愛想を尽かしたら? 彼女は一人で生きていけますか?』

『そんなこと……』

『起こらないと断言できますか?』

『…………』


 俺の無言はすなわち迷いを表していた。そしてその隙を彼が見逃すはずもなく、トドメと言わんばかりの言葉の銃弾を俺に浴びせる。


『ここで生活を送り、普通の高校生に戻してあげる。それが彼女にとっての本当の幸せではないでしょうか? それを邪魔する権利があなたにありますか?』

『それは……』

『あなたが本当に彼女のことを思うなら金輪際、彼女に関わることを辞め、互いの人生を真っ当に生きるべきなのです』

『ハル……』


 俺の脳内にハルの笑顔が、楽しげな表情が押し寄せる。これがハルにとっての最良の選択なのか? 俺が関わらない方がハルは幸せになれるのか? ハルに会いたい。今すぐに会って声を聞きたい。


『……アイツと会わせてくれ……』


 俺のその嘆願たんがんは、冷酷な表情で一蹴された。


『できません。僕の話を聞いてましたか? あなたはもう彼女と一切関わるべきではないのです』

『待てっ! おいッ!!』


 俺の言葉を背に受けながら歩き出した彼は、ゆっくりとその場で停止し振り向き、まるでゴミを見るかのような視線で一言のセリフを残していった。


『お引き取りください。乃木さん。これ以上騒ぐようでしたら本当に警察を呼びますよ?』


 建物の中に消えていく彼の背中を見ながら俺は、まるで吸い込まれるようにコンクリートの地面に両膝を落とした……。


****

****


「……ぱい。……んぱい……。乃木先輩!」

「ハッ——!」


 俺は資料を片手にした御影の顔を見て、今自分が会社にいることを思い出した。今朝の出来事を想起していたらいつの間にか十一時を回っていた。本当に俺は何をやっているのだろう。


「大丈夫ですか? 乃木先輩? なんだか今朝から様子が変ですが」


 心配そうに俺を見つめる御影。上司のことを本気で心配してくれるなんて本当に出来た後輩だ。そんな優秀な後輩にいつまでも情けない姿を見せるわけにはいかない。俺はピシャリと両手で自分の頬を叩くと短く息を吐き、目の前の業務に集中しようと決めた。


「ありがとう御影。俺は大丈夫だ。仕事に戻っていいぞ」

「はっ……はい……」


 もちろんこれは空元気なのだが、今は何か作業をしていないと心が潰れてしまいそうだ。そう思った俺は午前の遅れを取り戻そうとがむしゃらに働いた。そして、そんな俺を口には出さずとも御影以上に心配する奴がいた。有村だ。


「くぅあぁ〜。今日も鬼のような業務だった。ちょっと張り切りすぎたかな?」


 ボキボキッと背骨を鳴らす俺に有村が唐突に話しかけてきた。


「乃木。今日飲みにいくぞ」

「え……いや、俺は今日は——」

「いいから! 俺とお前、サシで飲みにいくぞ?」

「お……おう」

 

 いつもと違う有村の真剣な様子に気圧され、思わず了承してしまった。なんだ? 有村の奴。何かあったのか? 疑問が絶えない俺だったが、業務をちゃちゃっと終わらせた後、有村行きつけの居酒屋に黙ってついて行くことにした。


「お前、なんかあったのか?」

「……へ?」


 有村からそんな質問が飛んできたのは、飲み始めて一時間ぐらい経ったほろ酔いとマジ酔いの中間くらいの状態の時だった。


「……別になんでもねぇよ……」

「なんだぁ? 俺にも言えないことなのかぁ?」

「お前、途中テキーラ入れたから俺よりはるかにベロンベロンじゃねぇか」

「ウルヘェ〜。いいか? 乃木? オリェはなぁ——」


 と、ここで電源の切れたロボットみたいな動きで有村は机に突っ伏した。俺はすぐさま彼に駆け寄り安否を確認する。


「おい、大丈夫か? 有村?」

「……グーーー……フシュルル……グーー……」

「んだよ。寝てるだけか」

「乃木ぃぃ、元気……出せよぉぉ……」

「こっ、こいつ寝言で励ましてやがる」

「俺がとびっきりの風俗嬢を紹介しちゃるからぁぁ……」

「それはいい。マジでいい。でも……ありがとな有村」


 俺は有村の最後の言葉を否定で締めくくると、この優しき同僚の肩にスーツの背広をかけながら小さく礼を述べた。


「まだ閉店まで時間があるし、このまましばらく寝かしといてやるか」


 俺が真っ赤に染まった有村の顔を見ながら、自分の席に着こうと歩き始めたその瞬間、隣の方からドスの聞いた野太い野郎の声が響き渡った。


! 飲みすぎですぜ! そのくらいにしとかないと明日の会合に——」

「ウルセェぞ!! テメェラも何チョビチョビ酒を飲んでやがる!

良いか? 酒ってのはこうやって——」


 ちょっと待て……この声どこかで……。俺がそっと隣の衝立ついたての奥を覗くとヤバそうな連中がヤバそうな騒ぎ方をしていた。そしてその中心にいたのは間違いなくあの時、ハルを追っていたあのヤクザの男とその付き人の大男だった。


「あぁ!! アンタは!」


 と、大声を出してしまった後で俺は自分の軽薄さに嫌気がさした。俺の声に呼応するかのようにヤバめな連中の『あぁん?』という威嚇が聞こえたところで俺の酔いは完全に冷め、タイムマシンに乗って三秒前に戻りたいと本気で後悔した。


「おぉ、あの時のあんちゃんじゃねぇか! 元気にしてたか?」


 何故か上機嫌なこのオールバックの男は、何故か俺の元にやってきて、何故か俺の肩を組みこう言った。


「ちょうどいい! こっちで一緒に飲もうぜ? な? 兄ちゃん?」

「……へ?」

 

 時刻は午後十時半。この店の閉店まで後、二時間弱……。

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