第31話 そして彼女の心は黒に染まる(中編)

 今日の仕事も多忙を極めた。就業終わりのこの時間、社員の誰もが声も発さず只々うなだれているこの光景がその激しさを物語っている。かくいう私も終わりの見えない書類の入力作業に精魂尽き果てていた。唯一の救いはこの忙しさがあったから余計な事を考えずに済んだことだろうか。


「今日も疲れた……乃木ぃ……俺を家まで送ってくれぇぇ」

「バカか。お前は。俺だって一刻も早く帰りたいんだ。お前を送迎する気力は残ってない」

「この、薄情者ぉ〜……」


 デスクにうなだれる有村先輩を見ながら乃木先輩はため息をついた。


「乃木先輩の言う通りです。送って行くべきか弱き存在を差し置いて何をほざいてるんですか。有村先輩」

「鳳凰院? 送って行くべきか弱き存在ってなんのことだ?」

「もちろん。この子のことです!」

「……へ?」


 アキちゃんはぐるりと私の背後に回ると、両手でズイッと前に押し出した。


「アッ、アキちゃん!?」

「今日は台風が吹き荒れ、帰り道が大変危険な事になっています。そんな状況でか弱いフユノを一人で帰らせるつもりですか? 乃木先輩?」

「えっ……? なんで俺? 鳳凰院と二人で帰ればそれで——」

「見損ないましたっ! 乃木先輩! あなたは男でしょう? であればここは颯爽と『送るよ』の一言が言えないんですかっ!」

「えぇ……」

「アッ、アキちゃん。私は平気だから。一人で帰れるから」

「いいえ! ダメですフユノ。もしこの暴風雨の中一人で帰宅してあなたに何かあったらどうするんです! 責任取れるんですか? 乃木先輩!」

「だからなんで俺——!?」

「と・れ・る・ん・で・す・か?」

「うぐっ……」


 ものすごい剣幕で顔を近づけるアキちゃんに押され、先輩は言葉を失う。やがて、アキちゃんの尋常ならざる様子に何かを悟ったのか『はぁー』とため息を吐いた先輩はゆっくり私の方へ顔を向けるとぎこちない笑顔を浮かべた。


「俺でよかったら駅まで送るがどうする? 御影?」

「えっ……良いんですか?」

「あぁ。鳳凰院の言うこともまんざら外れてはいないからな。この台風の中じゃ女子一人は危ないし」


 正直飛び上がるほど嬉しい。今日は先輩と話せなかったから余計に。たとえ駅まで着くわずかな時間でも乃木先輩の隣にいることが出来るなんて。


 私はこのサプライズを提案してくれた親友のアキちゃんに改めてお礼を述べた。もちろん先輩たちには聞こえないような小声で。


(ありがとーアキちゃん!)

(健闘を祈ってる。フユノ)

(アキちゃん……)


 僅かに微笑んだアキちゃんは、私にだけ見えるように小さく親指を立てた。


「んじゃあ俺はアッキーを送って行く事にするわ。なんせ女の子一人だからな。どんな危険があるかわかったもんじゃ——」

「あっ結構です。私、タクシー呼ぶんで」

「まさかのブルジョワ!! 港区女子かよ!」


 有村先輩とアキちゃんのその掛け合いは疲労により笑いのメーターが低くなった私たちの心をくすぐり、爆笑の渦にこの場が包まれていった。


「——じゃ行くか。御影」

「はい。すみません無理言って。先輩の家とは反対方向のはずなのに」

「いや。問題ないよ。ちょっと歩くだけだから」

「ありがとうございます」


 会社のフロントでアキちゃん達と別れた私たちは、互いに傘を差しながら雨が降りしきるアスファルトの道をゆっくり歩き始めた。


「ほんとよく降るな。風もすげぇし。御影気をつけろよ?」

「はっ、はい。大丈夫です」


 と言いつつも私は朝よりも勢いの増した突風に体を持って行かれそうになり、思わずふらつく。と、不運な事にアスファルトの亀裂に靴がはまってしまった

私はその場でぐらりと体勢を崩してしまった。


「きゃっ——!」

「御影!」


 そっと目を開けた私は、自分の体が倒れていない事に気付いた。そしてすぐに背中のあたりに自分以外の体温を感じ、すぐさま振り返った。


「せっ……先輩!」

「言わんこっちゃない。気をつけないとダメだろ御影」


 先輩の顔が目の前にある! 先輩の両手が私の肩を掴んでる! 先輩が私の体を支えてくれてる! 状況を理解した私は飛び上がるように先輩から離れ距離をとった。


「すすすすみません! 乃木先輩。私ったらなんて事……」

「いや、それは良いが怪我はなかったか? 御影?」

「はい、なんともないです!」

「そうか」


 なんともぎこちない空気を漂わせたまま、私たちは再び駅に向かうため歩き出した。


(何やってんの!? 私ィィ! せっかくアキちゃんの好意でこうして先輩と二人っきりになれたのに〜!)


 私が自分の愚かさを憎んでいると、不意に先輩が言葉を発した。


「この間の弁当……」

「え? この間の……あぁ! あの時は本当にすみませんでした。あんなお弁当を食べさせてしまって」

「いっ……いや大丈夫だ! うっ、うまかったよ。うん。ほんと。個性的というかなんというか」

「気遣いが逆に痛いです先輩」

「うっ、すまん……」

「いえ……」


 シュンとなる先輩とズーンとなる私。やがて再び先輩が口を開いた。


「あの後さ、御影何かあったのか?」

「え……」

「ほら食べ終わった後、急いでトイレに駆け込んでいたろ? その後も御影元気なかった様子だったから」

「いえ……特には……」


 言葉尻を小さくしながら私はあの日の事を思い出していた。ハルちゃんと先輩の関係を聴き、喜んでしまった私のいやらしい本性。もしここでその思いを先輩に話したらどうなるだろう? 私の好意を伝えたら先輩はどういう反応をするんだろう? 心のリミッターが外れたような感覚に陥った私は、不思議そうな顔でこちらを見つめる乃木先輩と目があった。


「あの先輩……実は私……先輩のことがずっと前から——」


 その瞬間、何かに気付いた様子の乃木先輩が私の言葉をさえぎり、こちらに手をかざす。


「危ないっ! 御影!!」

「へ?」


 真横からの突然の水しぶきが私の全身を包み込んだ。大型トラックと思われるそれが大量の水たまりの上を通り、私の元に降り注いだのだ。


「うっ……嘘ぉ……」


 頭のてっぺんから靴の先端までぐっしょりと濡れてしまった私は只々呆然とするしかなかった……。


 不運は重なるとはよく言ったもので、やっとの思いで駅に着いた私たちの耳に最悪とも言える車掌のアナウンスが響き渡った。


「ただいま全線運転見合わせとなっております! 線路上の事故、並びに強風による発車困難により復旧までの時間は未定となっております! 申しわけございません!」


 メガホンから聞こえるその声に駅に集まったおびただしい数の人たちは口々に不満を漏らす。そして落胆したのは私も同じで、タクシー乗り場とバス乗り場に並んだ長蛇の列を見て私の心は折れかけた。


「どっ……どうしよう……このままじゃ家に帰れない」


 不安と焦りが私の体温を下げ、濡れぼそった体は容赦なく震え始める。そんな私を見かねてか、乃木先輩はゆっくりと口を開くと驚くべき言葉を述べた。


「なぁ御影。お前さえ良ければなんだが……?」

「ふぇ……?」


 間抜けなリアクションを取りながら私は思った。この世にチャンスの神様という存在は本当にいるんじゃないだろうかと。

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