第26話 お背中

「はぁ……今日も疲れた……」


 激務による疲労でクタクタになった俺はやっとの思いで家へと帰り玄関のドアを開けた。


「おかえり〜! 杏太郎。今日もお疲れ様」


 明かりのついた部屋から、サイドアップされた亜麻色の髪と左右の耳のピアスを光らせながらとびきりの笑顔でハルが出迎えてくれた。先ほどまで階段を上るのすら一苦労していた俺だったが彼女の笑顔を見た瞬間にその疲労感が癒されていくような感覚になり改めて彼女の存在に感謝と嬉しさの念を抱く。


「ただいま。ハル。いや〜今日も疲れたぜ。ほんと倒れそうなくらいだ」

「大丈夫? 杏太郎? ここのところゾンビみたいな顔で息も絶え絶えで帰ってくるけど」

「マジか。俺そんな顔してたんか。自分じゃ気付かなかった」


 靴を脱ぎ、廊下を進む俺は部屋着に着替える前に洗面所の鏡に自分の顔を映し、ハルの忠告が的を得ていることを悟った。


「ほんとだ。ひでぇ顔してんな俺。今週の休みまで持つかな俺の体力」

「…………」


 鏡の前でにらめっこをする俺を、ハルはじっと見つめていた。


「……? どうかしたか? ハル?」

「う、ううん。なんでもないよ。それよりご飯とお風呂どっちにする? 両方とも準備は万端だよ」

「そうだなぁ。今日は先に風呂にするわ。一刻も早く体の疲れをそぎ落としたいからな」

「うん。わかった。……よし!」

「何が『よし!』なんだ?」

「なんでもない! こっちの話」


 ブンブンと首を振るハルを怪訝けげんに思いながらも俺は部屋へと入り風呂の準備を始めた。


「く〜。疲れた体に染みるなぁ……」


 俺は普段より少し熱めのシャワーを全身に浴びながら、自分がアラサー間近だということを実感させるようなおっさん特有の自分の声に少々呆れた。


「まぁ、俺も大人になったってことか? いやだね〜。このままおじさん街道まっしぐらってのは……」


 ブツブツと独り言を繰り返す俺の耳に、扉の先にいたハルがくぐもった声で話しかけてきた。


「杏太郎? 湯加減どう? この温度ちょっと熱くしすぎじゃない?」

「ん? ハルか? いやちょうど良いよ。体が締まる感じがして」

「……そう……なんだ……」


 ハルの声が途切れ途切れになり、扉の磨りガラスに映る彼女のシルエットが忙しなく動く。どうやら向こうで何かをしているらしい。


「ハル〜? お前何、ゴソゴソやって——」


 次の瞬間、ゆっくりと開いた扉の奥からバスタオル一枚を身にまとったハルが照れ臭そうな表情を浮かべながら俺がいる風呂場に侵入してきた。


「おっ、お背中なっ……流しましょうか? お客様?」

「——っ! 何やってんだお前!! やっ、やめろ! 今すぐ服を着ろ!」


 てんやわんやになりながら彼女から視線を外す俺に、ハルは強い語気でその言葉に反論する。


「やだっ! 連日連夜クタクタで帰ってくる杏太郎に何かしてあげたいんだもん! 背中流して上げるんだもん!」

「バカ! お前顔真っ赤じゃねぇか! 自分でも恥ずかしいと思ってんだろ!?」

「そうだけど……でも……」


 キュッと唇を硬く結ぶハルを見て、俺は彼女がどれほどの恥ずかしさをこらえこんな格好をしているかを悟る。そして同時に、そこまでしてでも俺のことを気遣うその優しさにこれ以上彼女の行動を咎められないとも思った。


「わかった。わかったよ。じゃあ今日だけ頼む。今日だけだからな?」

「うんっ! 待ってて! 今日めちゃくちゃ気持ち良さそうなボディータオル買ってきたから!」


 顔を輝かせ脱衣所に舞い戻るハルに俺は短くため息を吐きながら、冷静さだけは失ってはいけないとシャワーの赤い方のレバーをさらに捻り温度を高くした。


「どう? 杏太郎? 気持ちいー?」

「おう……あっ、もう少し下。そうそう。そこらへんが気持ちいい」


 真っ白な湯気が立ち込める中、プラスチックの椅子に座る俺の背中を膝立ちで懸命にこするハル。自信満々にハルが開封したボディータオルもかなり俺の好みにハマっていた。ふと風呂場に設置された鏡を見ると鼻先に泡をつけた彼女の顔が映った。


「ハハッ。なぁハル鼻。泡ついてるぞ?」

「えっ? あっほんとだ。へへ」


 屈託のないハルの笑顔を見ながら俺は改めて彼女に質問した。


「でもなんで急にこんなことしようと思ったんだハル?」

「んー? なんとなくだよ。なんとなく」

「なんとなく……ねぇ」


 ゆっくりと立ち上がった俺は自分でも気づかないほど体の力が弛緩していることに気づけなかった。そのため足がふらついてしまい体勢を崩したまま情けなく床に尻餅をついてしまった。


「痛っテェェ……! この年で尻餅とか……」


 ふと気付くと俺はを握っていた。それは真っ白なバスタオル。ハルの体を守っていた唯一の防具。瞬時にそれに気付いた俺は反射的に彼女の体を見てしまった。一糸まとわぬ彼女の体を——


「……へ?」


 湯気の中から現れたのはチェックの水着をバッチリ着込んだハルの姿だった……。


「あれれー? ひょっとして杏太郎この下何も着てないと思ってた? 残念ー! ハルちゃんのガードはそんなにゆるくないのだったー。なんて。ん? 杏太郎?」


 俺はわなわなと震えながら、小悪魔のように笑うこのいたずらっ子に今日一番の大声をぶつけた。


「とっとと出てけ!! このバカハル!!」

「きゃー。杏太郎がオコになったーー!!」


 キャハハと笑いながら蜘蛛の子を散らすようにそそくさと退散するハルをみながら俺はある思いを抱える。あの日、ハルを養子にしたあの日から彼女の様子がおかしい。うまくは言えないが積極的になったというか前より大胆になったというか。とにかく何かおかしいのだ。


「勘弁してくれ。俺も一応男なんだぞ? ハル」


 俺は熱くなった下半身にこれでもかと冷水を浴びせ、興奮を冷ます。廊下の先で倒れこむように悶えるハルには気づかないまま……。   

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