第36話 今日のパンツの色は?――暑いからはいてない
机に向かって勉強を始めようと思ったけど、今日終業式だったのにもう勉強をはじめなくてもいいような気がしてきた。勉強は明日からでいいと思う。
ノックをして、お母さんがやってきた。
「さっきの話だけど、お金のことを心配して遠慮するのはやめなさい。お嬢様学校はたしかに極端だけど、美術科がよかったら美術科に行っていいんだからね?」
「お母さん、ありがとう。でも遠慮じゃないよ。普通の勉強ができるようになりたいんだよ。それがわたしのゲイジツに役に立つと思ってるから。大学は、無理してでも芸大に行きたい、浪人してでも行くっていうかもしれないけど」
「そう。お父さんはよろこんじゃうな。勉強が好きだから。茜も勉強好きなのかーって」
「うえー。好きってわけでもないんだよ?勉強ができるようになりたいだけで。勉強しないでできるのが一番」
「そっ。お父さんも浪人して大学に行ったんだから、大学に入るときは一年くらい浪人しても大丈夫でしょ」
「お父さん浪人したんだ。勉強好きなくせに」
「高校生の頃は勉強してなかったんだって。浪人したら勉強が面白くなっちゃったっていってた」
「ヘンなのー」
「茜のお父さんらしいでしょ?」
「げっ、わたしもヘン?」
「あと、もう一つ。お父さんもお母さんも、茜を応援してる。茜の行きたい高校に行って、やりたい仕事につけるようにって。かわりに勉強したり絵を描いたりしてやることはできないから、茜が悔いのないように頑張りなさい」
「ありがとう」
「勉強がわからなかったら、お父さんに聞いてあげて。きっとよろこぶから」
「それが嫌なんだけど。こっちはわからないっていうのに、よろこぶってのがシャクにさわる」
「親孝行だと思って、耐えるの」
「へーい」
お母さんが出ていったあと、椅子の背もたれによりかかって、頭の後ろで手を組んだ。目をつぶる。胸のなかがあたたかい。
なんかやんなっちゃうな。わたしに幸せになってもらいたいんだろうな、お父さんもお母さんも。わたしなんて、勉強は明日からでいいかなんてイイカゲンなこといってるのに。いい親をもつ娘は大変だ。
一年の理科の教科書でも、すこし読んでみるか。
机の上の本棚から教科書をだして読み始める。もう忘れてる。なかなか新鮮な気分で読めていいかもしれない。
へーとか、ほーとかいいながら時間がたつのを忘れるほど勉強してしまった。今日は特別。明日からは、わたしらしくダラダラ勉強する。
夏休み初日。朝から暑い。学校にくるだけで汗だくになるし、日焼けする。
わたしは敏感肌というわけではないと思うんだけど、日焼け止め機能があるクリームを塗ると、塗ったところがかゆくなる。はじめかゆくなる原因がわからなくて日焼け止めを塗りつづけていたら、肌にボツボツができた。どうやら日焼け止めのせいらしいと気づいて塗るのをやめたら、しばらくして治った。
同じようなことが弱酸性のボディーソープなんかで起こる。肌に優しいという触れ込みなんだけど、わたしには合わないらしいのだ。洗い流してもヌルヌルがいつまでもとれないし、かゆくなるし、使いつづけたらやっぱりボツボツができた。肌によくない普通の製品の方がわたしには合っているらしい。体質が安くできているのかもしれない。
そんな風に、学校にくるだけでケチがついて気分がよくない。見返りになにかいいことがなくては、やってられない。つまり美術部の活動をしていられない。
「遥、志望校決めた?」
「なんとなくね」
わたしは決めたといって、空と美月と同じ志望校を告げる。
「ふーん」
「あ、やっぱり興味ない?」
「他人の志望校だからね」
「そうなんだ。でも、美月と同じなんだよ?」
「ほう。茜は美月と同じ高校に進学したいと?美月もだと。そういうこと?」
「う、うん。そういうことかな。でも、親友だからだよ?」
「それでいいの?」
「え?」
「友達が行くから同じ高校に決めて、それでいいのかってこと」
「うーん。だって、別にどの高校に行きたいとかないもん」
「レベルは?気にしないの?普通科だったら気にするんじゃないかな」
「それが、レベル高くて。これから勉強ガンバらなくちゃ」
「無理して、落ちたら私立だけど」
「まあねー。私立になったらおこづかいなしって、親に言われたんだー」
「それでも気持ちがかわらないなら、話はわかった」
遥は自分の作品にもどった。
わたしは意味もなく窓の外の青空と、そこに浮かぶ雲をながめた。
行きたい高校か。大学のときにどの大学に行くか悩めばいいと思ったけど、そうでもないのかな。
わたしもノンビリなんてしていられないんだった。作品にいれる人物の下描きをするんだった。これが、けっこうむづかしい。遥をデッサンしたのが使える向きのはいいんだけど、下から見上げるようにした人物は自分で想像して描かなければならない。
そうか。美月が宙に浮けたんなら、美月をモデルにすれば描けたのか。もう遅いけど。
あ、いいこと思いついちゃった。というか、今までなぜ気づかなかったんだろう。宙に浮けるという事実が思考を邪魔したとしか考えられない。
ジャージに着替えて準備した。
「遥、またモデルやって」
迷惑そうな顔をこちらに向けながらも、モデルをやってくれるらしい。制服のリボンを外して、胸のボタンもふたつはずしてくれた。その必要は一切ないんだけど。
使ってない椅子を引き寄せて遥を上に立たせる。わたしは床に寝転がって、首を曲げて遥を見上げる。
「思いっきり変質者なんだけど」
「これも芸術のため」
「そう。わたしの犠牲を無にしないでね」
「大丈夫。傑作をものにする予定だから」
「予定通り行くといいんだけど」
「はい、正面見て」
「へいへい」
「今日のパンツの色は?」
「暑いからはいてない」
「ぶっ。うそっ」
「うそだよ」
「だよね。あー、びっくりした。児童ポルノ描くところだったよ」
「見えてないんでしょうが」
「そうだけど」
「無駄口叩いてないで、早く描きな」
「無駄口を叩いていないと死んじゃうんだ。マグロみたいな」
「口をガムテープで閉じてやろうか」
「やめて、死んじゃう」
どうにかデッサンだけ済ませて昼休みになった。お弁当をもってきたのだ。遥と一緒に食べる。
「遥のうちってさ、おカネあるの?」
「なにを藪から棒に。わたしに聞かれても知らないよ」
「わたしんちって、庶民の下なんだって。お嬢様学校には行けないっていわれたんだ」
「お嬢様学校には、お金があっても行けないだろ、茜の場合」
「なんでー」
「中身がお嬢様じゃないから」
「入試でお嬢様かどうか調べられるの?」
「そりゃ、面接で調べられるだろ」
「どんな感じで?」
「コントじゃないんだから、そんなことやらない」
「んー。けちー」
豚肉で巻いたアスパラを口にいれる。
「ああ、アスパラのえぐみと甘味が豚肉のうまみと溶け合って、巨匠ゴッホの絵のようだ。それでいて、食べ盛りの女子中学生に食べごたえを与える豚肉のボリューム感はロダンの彫刻のようだ」
「まったく意味わからない」
「いいの。わたしがそう感じたんだから」
「茜の自己完結力って全国トップクラスなんじゃないかと思う」
「やっぱり?」
「褒めてないけどね」
「でさ、遥は親に志望校のことでなんかいわれたりした?」
「うちはなにも。親の意見なんて聞かないってわかってるから」
「さすが遥って感じだ」
「茜も大概だと思うけど。先に言っておくけど、褒めてない」
「うう。女子ってもっと褒めあうものじゃないのかな」
「じゃあ、女子にあたってくれ」
「遥だって女子ですぅー」
「実はわたし、性分化疾患なんだ」
「は?なにそれ」
「心と体が男と女どっちつかずなの」
「うそっ。大変だ。えっ。じゃあ、自分は女じゃないと思ってるの?女子の制服とか、本当は嫌なの?」
「冗談だから、深刻になるな」
「深刻になることを冗談にしないでー。本当に、ナントカ疾患じゃないんだね?わたしの反応見て話しづらくなったとかじゃないんだね?」
「ちがうったら」
「だって、なんか聞いたことない言葉知ってるし。わたしが打ち明け話する相手に値しないってことだったら申し訳ないっていうか」
「そんなんじゃないから。まえドラマで見ただけだから」
遥がわたしの頭に手を置いた。遥は大丈夫みたいだ。
「もー。でも、話しづらいことでも、わたしには話してね。役に立たないけど、話したら気が楽になるってよくいうでしょ?」
「はいはい」
遥の手が頭の上でポンポンと跳ねた。悩みの多い年頃なのだ。相談したり、相談に乗ったりして助け合って大人になるのがよいと思う。
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