第35話 キャー、凱旋門をバックに横断歩道を颯爽と渡っていくわたしとか、想像するだけでカッコいい。
受験生の夏がやってくる。
いや、梅雨は明けたらしいから、すでに夏にはなっていたのだけど。期末試験を乗り越え、終業式、成績表をもらって、明日から夏休みということだ。
終業式の日は部活が休み。早く家に帰ってきた。やることもないから、夕方は晩ごはんの支度を手伝って、ハンバーグをお母さんと一緒に作る。
玉ねぎのみじん切りを担当させられた。これは、目にしみる。涙がでる。換気扇を回しながらやったらよさそうと思ったけど、あまり効き目がなかった。風が弱いのかな。次は扇風機をまわしてやってみよう。
ともかくみじん切りはできた。こんどは炒める。
炒めるのは簡単と思ったけど、しゃもじやフライパンにくっつくし、うまく混ざらないし、けっこうイラッとくるものだ、玉ねぎ。
玉ねぎをひき肉に混ぜてタネができたらフライパンで焼く。わたしは知っている。弱火で焼く方がお肉がやわらかくおいしくできるのだ。中まで火が通りやすくするために真ん中をくぼませてフライパンに置く。弱火で、フライパンにはふたをする。蒸し焼き状態。両面を弱火で焼いて、焼き色はあとからつける。
ソースは、ドミグラスソースの缶をフライパンにあけてあたためるだけ。フライパンはハンバーグを焼いたまま洗わずに使う。残った肉のうまみも逃さないのだ。
「おおっ」
お父さんがハンバーグを一口食べた反応は上々だ。
「世界で二番目においしいんじゃないか?」
「一番はお母さん?」
「いや、横浜の馬車」
お母さんが頭にゲンコツを落とした。本当に痛かったみたい。長年夫婦をやっていると遠慮しなくなるらしい。
「冗談だって。晴美のが一番だよ」
後半、急に真面目そうな声色になった。
「のろけはいらないから」
「新婚のときは涙流して、こんなおいしいハンバーグを食べたのははじめてだっていってたのに」
「そこまでは、いってたかもしれない。愛情がつまってたんだな」
「いまだってつまってるでしょうが」
「そうなのか?じゃあ、今度デートしようか」
「ママ友と出かけるから、遠慮しておきます」
夫婦仲がいいのか、そうでもないのか。お父さんは寂しそうな顔になった。
食後、わたしはアイスを食べる。箱に入って売っている小さいバージョンのパナップだ。我が家の人間は、ソースがやわらかい方が好きだから、ソースがパリパリする大きい方のパナップは買わない。
お父さんは自分でいれたコーヒーを飲む。
「茜、志望校は決まったのか?」
美月、空と同じ志望校を親に報告する。
「赤城さんは桐朋学園とか一流高校かと思ったけど、こんな地方の公立校でいいのかな」
「え、なにその高校。有名なの?」
「お父さんが知ってるくらいに有名だ。すごい演奏家とか指揮者とか輩出してるんだぞ、たぶん」
お父さんの情報はうろ覚えの場合が多いから、たぶんという単語がよく語尾につく。あまり信用してはいけないのだ。
「茜は、せっかく美術科がある高校なのに普通科でいいのか?ゲイジツ家になりたいんだろ」
「うん、大丈夫だよ。大学を芸術系にするか、もしかしたら普通の大学にするかってくらいだから」
「そうか」
「お父さんはね、茜が全寮制のお嬢様学校とかいいだすんじゃないかって心配してたんだよ」
「そうなの?わたしが?全然娘のことわかってないね」
「なんにでも影響を受けやすい性格だろ。どこかで全寮制のお嬢様学校最高なんていう話を仕入れてきたら、ありえない話じゃないと思ったんだ」
「でも、お嬢様学校行きたいっていったら行かせてくれるんでしょ?」
「お父さんのこづかいでどうにかなる額じゃないからな、無理かもしれないぞ」
「えー、そうなの?わたしってお嬢様じゃないの?」
「むしろ少しでもお嬢様だと思っていたなら、その方がビックリなんだが」
「なにいってるの。お嬢様のわけないでしょう?」
お母さんがバッサリ。母と娘の間に遠慮はないのだ。
「そうだったのか、差入れにお金とればよかった」
「バカなこといわないの。そんなの差入れじゃなくて押し売りでしょうが」
空や先生を利用したからチャラってことでいいや。
「お父さんはただのエンジニアだぞ?日本ではエンジニアの給料は雀の涙なんだ。役にも立たない管理部門のやつらはたっぷりもらってるのにな。海外ではたらきたいくらいだ。
さらに保守系の政党が与党に長いこと居すわっているせいで、格差拡大だ。庶民はどんどん貧乏になってる。そんなわけで、うちは庶民の中でも下のほうだな。かろうじで庶民にひっかかってるくらいだ」
知らなかった。格差社会というのは知っていたけれど、まさにうちがそのあおりを受けて貧乏になりかかっていたとは。庶民のための政治をしてくれるところに、早く政権交代してもらいたいものだ。
「じゃあ、高校に行ったらバイトしないといけない?」
「バカなこというな。バイトなんてカネにならんもんはするな。バイトする時間とエネルギーを勉強に注げ。カネを払って勉強しにいくんだからな。払ったカネの何倍分も勉強して元をとれ」
「ふーん。そのほうがお得なんだね。でもさー。わたしがゲイジツ家になったら、きっと貧乏だよね」
「それは、茜の選択だ。貧乏でもゲイジツ家をやりたいと思えばやればいいし、貧乏が嫌だと思えばほかのことをやったらいい」
「お父さんは助けてくれないの?」
「無理だ。そんな余裕はない。カネが稼げるゲイジツ家になれれば一番いいけどな。ほんの一握りだろう。音楽だって、スポーツだって同じだ。それで食っていけるのは、ほんの一握りに過ぎない」
「へー。なんか将来に希望もなにもないね」
「そうだな。日本がどんどん貧乏になってるんだ。売れないゲイジツ家をやってても食っていけるなんて時代はとっくの昔に過ぎ去ってしまった。ゲイジツは言葉関係ないから、海外にでていけばいいんだ。機会を見つけて、早いうちに海外で生活してみろ。あとで役に立つだろ」
「海外留学ってこと?」
ちょっとわくわくする響きだ。
「そうだ。短期留学でもいいし、はじめから海外の大学に入学してもいい。そしたら、おれもついて行って海外で仕事したいな」
せっかくの海外なのにお父さんがついてきたら嫌だ。邪魔くさい。そのときは絶対阻止しなくては。
「おカネは?」
「奨学金で行くんだよ。うちを当てにするな」
「そうなんだー。奨学金って優秀じゃないともらえないんでしょ?」
「だから、アルバイトなんてしないで勉強しろってのもあるな。でも、日本ほどじゃない。頑張れば奨学金がもらえるだろ。日本は教育にカネを使わないからな。頑張っても借金だ。まったく、昔は先進国なんていってたのにな。やっぱり政治が悪いんだ」
「そっかー。外国の大学かー」
なんだか夢の世界みたいだ。パリかな、外国に住むとしたら。
うん、パリしかない。
キャー、凱旋門をバックに横断歩道を颯爽と渡っていくわたしとか、想像するだけでカッコいい。
同級生はみんな外国人で、みんなで話しながら、わたしはフランス語でツッコミをいれるんだ。せぼん。
「おい、茜。大丈夫か?妄想するのはいいけど、まず高校に合格できるんだろうな。志望校に落ちて私立の高校に通うことになったら、こづかいはないと思え。お父さんのこづかいもきっと大幅減になるんだからな」
「えっ、高校生でこづかいなし?ヒドイ」
「ヒドイよな、アホな娘をもったせいでこづかいが減らされるなんて。入試の日までシッカリ勉強するんだぞ」
うう。お父さんからのプレッシャーがすごいことになりそう。こづかいがかかってるんだから。
でも、お父さんなんて、本を大量に買ってるし、休みのたびに出かけてお酒飲んで帰ってくるし、そういうのを我慢すればこづかいが減ったって大丈夫だと思う。そういえば、へんな機械のガラクタもよく買ってくる。あれだって無駄づかいだ。
ああ、もう。明日からまた美術展用の作品をやらなくちゃいけないのに、勉強もしなくちゃいけないなんて。子供ってなんて大変なんだろう。大人は一年中仕事だけしてればいいし、おカネもらって自由に使えるし、楽チンでいいと思う。わたしも絵だけ描いてればいいっていう生活を早くしたい。
あれ?わたし、なんで普通科に行きたいんだっけ?ああ、勉強するためだ。そっか、自分で勉強しなくちゃいけないんだ。高校に行って勉強するのは高校生のわたしだから、自分のことだとはあまり思ってなかった。どうしよう。高校に入っても、勉強したくないって思っているのに勉強しなくちゃいけないってことになりそうだ。
でも、普通科で勉強しているわたしがカッコいいと思う。それで、芸大とかパリとかに行く。
うん、いいと思う。そのためだけに勉強しよう。
「ごちそうさま」
ダイニングテーブルを立つ。
「急に元気がなくなったな。大丈夫か」
「うん。勉強してくる」
「そうか。勉強は面白いからな。大いに勉強するといい」
お父さんは勉強が好きらしい。休みのたびに出かけるのも、お勉強会に参加しているのだというし。わたしのお父さんとは思えないくらい勉強好きだ。
「ここで勉強してもいいんだぞ?お父さんと一緒に勉強するか?」
「大丈夫。自分の部屋でする」
お父さんのいるところで勉強したらうっとうしくてかなわない。きっとなんやかや干渉してきて、勝手にシャベリだすに決まっている。相手が話を聞きたがっているかどうかくらい気にしてほしいものだ。
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