第2話 ちょっと、ニュートンでてこい。説教してやる。
空にクローゼットへの移動を命じる。わたしは後ろから首にしがみつく。
「そんなにくっつかなくてもいいんじゃないか」
「怖いの」
「そうか。でも、首が、しまる」
空はゲホゲホとむせた。
「ごめん」
つかまり方をかえる。空の脇に手を通して、胸の前で自分の左手首を右手でつかむ。空は体が華奢なほうだけど、思いのほか胸が厚かった。背中に顔をつけて匂いをかぐ。落ち着く匂いがした。
「これは、胸の感触が。年頃の男子には刺激が強すぎる」
「思ったことを口にださなくていいの」
後ろから空の頭を小突く。いてっといった。もちろん痛くないようにやった。こういうじゃれあいみたいのは楽しい。
ベッドから降りるときに胸をさらに押し付けてしまった。これは不可抗力だ。空のことが好きな女子がいたら、ごめんなさい。
制服を着て、やっと体が重くなった気分。髪を手ぐしで整える。
「ちょっと待ってろ」
空が背を向けてすわりこむ。ドアの近くの床に置いたバッグを開けて中身をあさる。
中をのぞいてやれと思って、伸び上がる。足に床の感触があった。これが反作用。わたしの体は浮き上がった。さらに前向きに回転している。
おわわわわ。
視界が真っ暗になった。
ここはどこ?わたしはいまどうなってるの?
「なぜじっとしていないんだ」
空の声が、闇の奥から聞こえる。
「ちょっと」
「ちょっとなんだ」
「なにしてるのか、のぞいてやろうと思って」
「その結果がこれだぞ。いいのか」
「どういうこと?」
闇の暗幕がめくれて、空の顔が現れる。逆さ向きだ。あわてて暗幕たるスカートをおろす。でも、上下が逆だから、上に向かってスカートの裾をおろしているわけで、重力が意地悪をしてスカートがいうことをきかない。これもニュートンのせい?ちょっと、ニュートンでてこい。説教してやる。
両手で前だけスカートを押さえる。
あきれ顔の空が目の前にいる。
顔が熱い。逆さまになって血がのぼっているわけではない。恥ずかしさで顔が熱いのだ。自分の姿を想像する。なんというか、下着姿以上の恥ずかしさではないだろうか。でも、パンツ一丁よりはマシか。
「ゆっくりもどすぞ」
空が腰を引き寄せて、膝の裏にも手を添える。ゆっくり逆さまになった体を上下もとにもどしてくれる。やっとスカートがおりた。手ぐしで髪を整えなおさなければならない。
「まったく。もう少し我慢すればこんな醜態をさらさずに済んだのに」
「ごめんなさい」
「おれはいいんだけどさ」
そっぽ向いてほっぺをぽりぽりとやる。マンガみたい。空はわたしの足元に膝をついてなにかはじめる。
「どうだ」
空は立ち上がって、わたしの足を凝視している。わたしは恥ずかしくてモジモジしてしまう。でも、さっき確認して、わたしの脚はなかなか美しいとわかっている。少しスカートをもちあげたほうがいいかしら、なんて。
「なにしてるんだ。ちょっと歩いてみろよ」
「え?」
空がわたしの腕をとって、歩かせる。歩ける。空が腕をはなしても大丈夫。地に足がつく。
「一・五キロづつウエイトをつけた。生まれたての赤ちゃんぐらいの体重かな。とりあえずこれで我慢しろ」
なんだ。わたしの足を鑑賞しているのではなかった。空は足につけたウエイトを見ていたのだ。
空にお礼を言った。
でも、足にウエイトをつけた女の子って、ちょっとどうかと思う。
わたしは学校へいく準備をした。そのあいだ、空はベッドにすわってマンガを読んで待ってくれていた。外に出るのが怖いなと思っていたのがわかったのかもしれない。
「女子は本当に出かける準備に時間がかかるんだな」
「そう?そんなことないよ」
「いや、おれだったらもうとっく出かけてるよ。まあいいや、行くか」
「まだご飯」
「今日は学校で食え」
「やだよー」
空はわたしの手を引いて部屋から出た。階段をおりてダイニングのドアを開けて顔をつっこむ。
「おばさん、今日は茜、朝飯いらないから」
「かわりに空ちゃん食べてったら?」
「おれ朝練だからもう食べた。いってきまーす」
「またきてね。いってらっしゃい」
わたしのブレックファストが!わたしはファストしっぱなしだ。抵抗むなしく、空に手を引かれてダイニングを素通りしてしまった。
空は玄関ですっと自分の靴に足を通して、もたもたと靴をはくわたしを見下ろしていた。
「よし、履いたな。外の世界に飛び出すぞ!」
「怖いこと言わないで」
「大丈夫。おれが手をつないでてやるから」
ギュッとわたしの手を握った。ドアが開く。光があふれる。
世界は、くもっていた。
なーんだー。
予想がはずれた。がっかり。
電線ですずめが鳴いている。
きみがわたしをだましたのか。まぎらわしい。朝からチュンチュン鳴くのは、晴れの日だけにしてもらいたい。
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