第29話 ウォーター。ウォーター ―― ナイチンゲールじゃなかったっけ
部活の終わりの時間。
「遥、今日は先に帰って。空と待ち合わせなんだ」
「ふーん。ケンカしないようにね」
「ケンカなんてしないよ。誕生日のプレゼントをくれるんだ」
「期待しすぎないように」
遥は不吉なことをいって去っていった。十分乾いた遥からのプレゼントをスケッチブックにはさむ。家に帰ったら壁のコルクボードに貼ろう。
美術室にひとり。すでに自分の部屋にいるみたいにくつろいだ気分になっている。ピアノの音がかすかに聞こえる。まえにも弾いていた人かな。
夕方だ。薄く雲がかかった空が夕焼けで染まっている。すこし沈んだような赤い色。これが茜色。わたしの色だ。そうか、作品にもこの色をいれなくちゃ。
ふわふわと浮いていた。
ゆっくり沈みはじめる。
「茜」
名前を呼ばれた。空の声だ。
そうだ、空と待ち合わせしていたんだった。空がきた。
目を開ける。天井が見える。
わたしは水平に寝た状態で浮かんでいる。
高さは、空の頭の高さくらいだった。ゆっくり、おりてゆく。
「起きてるか?誕生日おめでとう」
うん、ありがとう。
おっくうで口が動かない。横を向いて、まばたきでお礼を言う。
今、空の胸の高さだ。
「なんか、こんな映画あったよな」
空が、胸の前でわたしを抱きとめる。お姫さま抱っこというやつだ。人生初のお姫様抱っこ。しかも、体重を気にしなくてよい。女の子にとっては最高のシチュエーションではないか。おかげで、やっと意識がはっきりした。
「プレゼントどうかな」
「プレゼント?」
「うん、ネックレス」
わたしは、胸の上を手で探した。探り当てたものを見える高さに持ち上げる。茜色の石をメインに使ったネックレストップ。キレイだし、かわいい。
「ありがとう、空。いつのまに?」
「美術室にはいってきたら、茜が窓際の天井近くに浮いてたんだ。あれは寝てたな、明らかに」
「うっ」
言い逃れできない。
「起こそうかと思ったけど、それじゃ面白くないかと思って。机と窓枠に足をのせて、茜の首にネックレスをつけて。そしたら、映画みたいにゆっくり降りてきたから。こうなったってわけ」
お姫様抱っこされて眺める茜色の空、ロマンチックだ。空が床におろしてくれる。
「なんかもったいなかったなー、半分くらい寝てたもん。もう一回やる?」
「それじゃ、ありがたみがないだろ。こういうのは一回限りだから貴重で思い出に残るんだよ」
「そうだね」
きっと一生忘れない思い出ができた。
美術室をでる。
「あれ?これ」
空がなにか見つけた。ドアの枠にもたせかけて、床の上にプレゼントの袋が置いてあった。きっとわたしへのプレゼントだ。誰だろ、恥ずかしがり屋さんは。
美術室から首をだして左右を探してみても、静かに暗い廊下がのびているだけで誰も見つからなかった。
袋の中身を取り出す。
空と顔を見合わす。
トートバッグだ。ピアノのデザインになっている。サイドの部分に鍵盤が描かれている。
こんなプレゼントは、美月に決まってる。
「美月だ。空がきたときはなかったんでしょう?」
「なかった」
空とお姫様抱っこのシーンを見られてしまったか。恥ずかしい。というか、マズいんじゃないか?美月は空が好きかもしれないのに。
使い古しのトートバッグを肩にかけなおした。
翌日から、美月がくれたトートバッグを使うようにした。朝、美月にありがとうっていったけど、無言で見つめ返されてしまった。敵はまだ籠城をつづけるつもりらしい。やっぱり、わたしの作品で降参させるしかない。
「どうだ、ピアノの調子は」
「いいに決まっている。そっちは地区予選敗退らしいじゃないか」
「そうなんだ」
それって、わたしこと勝利の女神が試合開始に間に合わなかったせい?そうなの?わたしがいないときに点をいれられてしまったのは事実だし。でも、それは、あの事故ってた車が悪いんだし。
会話はつづいていた。
「夏休みの終わりに地区の予選、十月に地区の本選、十二月に全国」
「はじめから全国行くつもりなんだな」
「音楽科志望だから当然」
朝、空と美月が話していることが多い。わたしは後ろをとぼとぼ歩く。だって、美月わたしと話してくれないんだもん。
美月がピアノの調子がいいように、わたしだって美術展にだす作品が試作段階まできている。
結局、サッカーの要素の弱いアイデアを越えるようないい考えは浮かばずじまい。また空に依頼して試作をすることにした。今回は準備にひと手間がかかる。
わたしのアイデアはこうだ。
・前回と同じように水道の裏の壁に新聞紙とキャンバスを貼りつける。
・水風船に絵の具を詰めてふくらませる。
・水風船を紐で吊ってキャンバスの真ん中あたりに配置。紐は壁の上を通して水道側でガムテープで固定。
・空が蹴ったボールで水風船がわれると、絵の具がキャンバスに広がる。
この方法は、水風船の割れ方という偶然性が追加されて、より面白い効果が出そうなのだけれど、サッカーは水風船を割るという役目しかないから、ちょっとサッカー要素が不足気味だ。
放課後、水道の壁でキャンバスに絵の具を跳ね飛ばすセッティングをした。
「茜、おれがボール蹴るときは離れてろよ?」
「わかってる」
わたしだって二度と額でボールを受けたくはない。
準備ができて、空に合図を送る。
ボールが飛んでくる。
すごい、水風船に当たった。
ぶわぁ!
わたしは顔に絵の具がかかったことを知っている。だって、いまも顔が濡れて、絵の具が体の前面をしたたってゆくのが感じられるのだから。
前回の教訓を生かせずに壁の前にきてしまったわけではない。ただ、ボールをぶつけた衝撃で水風船を割ったときに、どの方向に、どれくらい遠くまで絵の具が跳ねるかの予測を誤ったのだ。
「まず顔洗え。目に入ったか?絵の具のパッケージに注意書きがあるんじゃないか?」
わたしは口を開けることもできず、ゆっくり首を振る。目のなかは大丈夫だ。口を開いたら確実に絵の具が口にはいることもわかる。
空が水道の前まで誘導してくれて、ジャージャーと流れる水道水に手を浸してくれる。顔を洗って、口のまわりの絵の具を落とす。
「ウォーター。ウォーター」
「それって、誰だっけ。三重苦の人だよな」
「ナイチンゲールじゃなかったっけ」
「そうそう。そうだっけ?って、それどころじゃない。早く顔洗え」
「うん」
水を手のひらにためて、さらに顔を洗う。絵の具は簡単に落ちないんだよなー。うちに帰ってお風呂でゆっくり洗い落とさないと。ヌルヌルが取れてきたところで、ガマンすることにする。
ハンカチで顔をぬぐって、制服の前を確認する。第一弾の黄色の絵の具がだらしなく垂れている。
「空、次お願い」
「ぷっ。大丈夫か?ひどい顔だぞ」
「むー、仕方ないよ。うちに帰るまでガマンする」
「じゃ、一枚」
ケータイの普及はいいこともあれば、悪いこともある。なんで、すぐに人の見られたくないところを撮影するのだろう。なにかあれば、とりあえずケータイを出して撮影する。ちぇっ。
わたしは、大きく口を開けて噛みつくぞというポーズで写真におさまった。これも青春の一ページというのだろうか。
さて、作品はというと、期待したほどの効果はあらわれていなかった。わたしの顔に絵の具が飛んできたのだから、キャンバスには少ししか絵の具がついていない道理だ。でも、これでよしとしよう。あとは自分で爆発させればよい。そういうわけで、作業続行だ。
「準備オッケー。空、もういっちょよろしく」
空が軽く手をあげて、ボールを蹴る。すごい勢いで壁に跳ね返る。ゴールキーパーというのは、こんなのを体の正面で受けたり、手ではじいたりするのだ。ひえー。
いまのは水風船にあたらずに失敗だった。
「もっと近づいてもいいよ?」
「いや、大丈夫。このくらいが狙いやすいんだ」
ふーん、そんなものか。今度は命中した。青色が飛び散った。
まったく、スポーツというのはとんでもない技術を要するものだ。どれだけ練習したらこれほど正確にボールを蹴ることができるようになるのだろう。わたしが小学校で空と一緒になってサッカーをしていたときは、正確にボールを蹴るといっても、ちゃんと足に当たって、狙った方向にいけばよいくらいのレベルだった。空はそのころからさらに三年練習してきた。通算で六七年の研鑽の成果だ。同じ練習をしても、誰もが同じように蹴れるようになるわけでもない。
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