空遠く
九乃カナ
第1章 宙に浮いちゃう女の子、茜
第1話 裸だし、いきなりブラジャー飛んでくるし、茜は飛んでっちゃうし。
目覚まし時計が鳴っている。わたしを起こしたのは目覚ましくんだ。手を伸ばしてアラームを止める。
すずめが鳴いている。きっと外はいい天気だ。目を閉じると、ここ最近の気の早い夏みたいないい天気が目の前に広がる。
あまりベッドでのんびりしていて二度寝してしまうと学校に遅刻してしまう。ベッドを抜け出して立ち上がる。
ん?
足に床の手ごたえがない。足なのに手ごたえとは、これいかに。
そうではない。
足が体重を支えるために床を押す。その反作用として床が足を押しかえす。両者のつり合いによって、わたしは床に立ち上がるはずなのだ。なのに、反作用として押してくるはずの床が、わたしの足を押し返してこない。なんて意気地なしな床だ。
足を見る。
すらりと伸びた美しい脚。
そうではない。
足が床についていない。なんだこれは。
いやいや、そんなことあるはずがない。ということは、これは夢なのだ。夢なのであるからして、起きればいいのだ。
いや、待てよ。いま目覚ましが鳴って起きたばかりなのに、まだ夢の中などということがあるだろうか。
そうか。やっぱり、わたしは二度寝してしまったのだ。中学生はいくら寝ても眠いものだ。とくに中学三年生は部活に受験勉強に大忙し、体も成長を急いでいる。心も体も疲れ切ってしまって、寝ようと思えばいくらでも寝ていられるのだ。すずめの鳴き声がしていい天気が、などと花鳥風月にうつつを抜かしていたものだから、うつつがわたしを見放して夢に放り込んだのにちがいない。
さて、どうやって起きたものか。
起こしてもらえばいいや。
お母さんを呼ぼうか。いや、この状況でお母さんを呼ぶのは得策ではない。きっと笑われるだけでなにも解決しない。もっと地に足をつけて生きなさいなんて、うまいこといって満足されるのがオチだ。
となると、空しかいない。
空は幼馴染の同い年の男の子だ。小学校の頃はずっと一緒だったけど、中学に入ってからはお互い意識してしまって、一緒にいることはなくなった。でも、困ったときに頼りにするなら空しかいない。ケータイで呼び出そう。
ケータイ。
ベッドを立ったところから手を伸ばしても届かない。机のうえでわたしのことを待っている。魔王にさらわれたお姫様のごとく。
待ってて、いま行くから。
宙を歩こうとしても足に手ごたえ、もういいか。足は空を切って進まない。平泳ぎの要領で、手で空気をかき分けてみる。
おお、これは。すこしだけ進めそう。空気抵抗さまさまだ。
体勢はもう床に平行になって、空中を泳いでいる。こんな場面を他人に見られたら頭おかしいと思われる。おかしいのは世界の方なのに。
どうにか平泳ぎで泳ぎきり、ケータイに手が届いた!この達成感は並大抵のものではない。世界中の人から祝福されたい気分だ。
エイドリアーン。
お父さんはなにかを達成すると、こう叫んで両手を頭のうえにあげてガッツポーズする。出典は知らない。
さっそく空に電話をかける。
緊急、緊急、早くでろ!もしかしてまだ寝てるかな。そうしたら、かわいい女の子からモーニングコールだぞ。ありがたいぞ。早く起きて電話にでろ。
『なんだ、朝っぱらから』
第一声から芳しくない対応。
「あ、おはよー。寝てた?」
『寝てるわけねーだろ。朝練だ。もうすぐ始まる』
「えーと、久しぶりに話すね」
『切っていいか?』
男子はあまりオシャベリをするのが好きではないらしい。小学校の頃はそんなことなかったのに。寂しいことだ。
「用件ね。うん、すぐに話す。もちろん用があって電話したんだよ。それも緊急」
『用件は?』
「えーと、なんていったらわかってもらえるかな。説明がむづかしいんだけど」
『じゃあ、あとでゆっくり聞くわ』
「ちょーっと待って。緊急事態なんだって。わたし軽くなっちゃった」
『ダイエットに成功したのか。よかったな。じゃ』
「そうじゃない!そうじゃないの。わたしダイエットが必要なほど太ってるかな」
『男は女が思うよりぽっちゃり好きみたいだぞ。ガンバレ。じゃあ、朝練行くわ』
「ちがうって言ってんでしょ!宙に浮いてるの」
『なにが』
「わたしが」
『そういうのはさ、なんていうか別のやつあたってくんないかな」
「本当なのっ。いまだって、ケータイ取るのに空中を平泳ぎして、やっと手が届くところまで移動したんだから」
『はあ、お疲れ。で、その報告が用件なのか?』
「なにその無感動。わたしはすっごい頑張ってケータイを手にして、世界中の人に祝福されたい気分だっていうのに」
『アホか。そんなもん誰も祝福なんてしてくれねーよ』
「もうわかった。じゃあ、すぐうちきて。そして助けて」
『助けてっていう割には命令口調だな。朝練終わってからでいいか?』
「大至急応援求む!」
『これで行ったらなんでもなかったなんてことになったら、まじ怒るからな』
「え、うん。大丈夫。きっと度肝抜かれるから」
『茜って、ボキャブラリーがヘンだよな。じゃ』
じゃ?で、どうなったの?結局きてくれるの?
ケータイは通話が切れて、ツーツー言っている。
空はなんでもなかったら怒るといっていた。どうしよう。いまは宙に浮いているけど、空がきたときは元通りになっていたら。
いや、これは夢なんだ。起きたら元通り。夢の中で空を怒らせても、なんてことはない。うん、そうだ。
ぎゃー。しまった!わたしパジャマだ。空にこんな姿見せたくない。それは、夢の中であってもだ。
わたしは必死になって宙を泳ぐ。もう平泳ぎなんていっていられない。クロールだ。ノーブレス。
どうにかクローゼットまでたどり着けた。もう汗だく。
手をかいたときの手ごたえのなさは絶望的だった。ケータイまでの移動はほんの数十センチだったから空気抵抗万歳と思えたけど、こんどは二メートルか三メートルくらいの移動だった。全力で泳いでも、ちっとも前に進まないのだ。空気の役立たずと呪いながら、でも仕方ない、わたしは全力で泳ぎきった。
ティーシャツにハーフパンツのパジャマを脱いでハンカチで汗を拭く。シャワーを浴びたい気分だけど、贅沢が言える状況ではない。ブラをつけようとして取り落としてしまった。そうだ、重力はわたしの足に向かっているのではなかった。いま、体は床と並行なのだった。クローゼットの扉につかまって体勢を整え、扉につかまったまま床に落ちたブラを拾う。やれやれ。
コンコンとノックの音がして、ブラを手にした中腰の姿勢から顔をあげる。
ドアが開いて、
ジャージ姿の空と目があった。
「あ」
空の顔にブラが直撃した。つい、投げつけていた。
「見るなー」
胸を手で必死に隠す。
「え?あれ?うそ。ちょっと。空。空、助けて。なにこれ」
世界が自分の周りを回転するというのは、すごい恐怖だ。しかも自分の意思でどうにもできない。わたしは後ろ向きに回転しながら、空から遠ざかってゆく。
回転がとまったと思ったら、わたしの裸の肩を抱いて、空がベッドの上に立っていた。こんどは顔がそっぽ向いている。
「茜さ、本当わけわかんねーな」
「わたしじゃなくて、世界。わけわかんないのは」
丸めていた体を伸ばす。ベッドに足がついた。
こんなことがあっても夢から覚めないということは、これは現実ということだろうか。
目の前にブラがあった。空は顔でうけとめて、そのままもっていてくれた。
「ありがと」
「すげービックリしたぞ。裸だし、いきなりブラジャー飛んでくるし、茜は飛んでっちゃうし。茜、本当に宙に浮いてるんだもんな。ニュートンが怒るぞ」
「えー、ニュートンって、こう髪の毛くりくりの人?」
「それ、音楽室のバッハとかモーツァルトじゃねーの?」
「ニュートンって誰?」
「それは、あれだよ。リンゴの科学者。エジソンの友達だな」
「本当?」
「知らない」
沈黙。
「それにしても、なんでこんなことになってんだ?なんか悪いもの食ったか?」
「食いしん坊みたいにいわないでよ。ヘンなものなんて食べてませんー。というか、なに食べたらこんなことになるっていうの?」
「そうか。心当たりはまったくないのか?」
「あるわけないでしょ?体が浮いちゃうことになるような心当たりなんて。お腹に肉がついた心当たりとはわけがちがうんだから」
「それもそうだな」
また沈黙。
「えーと。ごめん。つい昔の癖ですぐにドアを開けちった」
「うん」
「それから、なんというか。一瞬だったからよく見えてないから。うん」
「うん」
「昔の茜とちがうから、話すのも照れるな」
「うん。空も」
わたしは恥ずかしすぎて、顔の火照りで目玉焼きが焼けそうだった。さっきハンカチで拭いたのに、また全身から汗が噴き出ている。恥ずかしさでだ。
こんなことならパジャマのままで、空がきてから着替えればよかった。いや、年頃の娘の部屋に勝手に男子を通すお母さんが悪い。
のんびりしてる場合じゃなかった。わたしはまだパンツ一丁なのだった。空の背中につかまったりしながらブラをつける。でも、まだやっと下着姿になったところだ。
「まだ見ないでね」
「見ないよ」
「でも、見たい?」
「見たくない」
「どうせ魅力ないですよーだ」
「茜は男子に人気だぞ」
「そうなの?」
「見せたいと思った奴にだけ見せろ」
「うん」
ふん。空になら下着姿を見られてもいいかと思ったのに。ブラなしは不可だけど。
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