第4話 カッコ三の答えは、三とマイナス二な。

 学校にどうにか到着した。途中、同級生に空と手をつないでいることを冷やかされたけれど、だだっ広い空に向かって落ちていく恐怖を思うと、手を放すなんて考えられなかった。

 玄関で下駄箱につかまりながら上履きに履き替える。美月がとなりにきた。

「美月、おは―」

 そういえば、美月とは昨日言い争いになって、けんか別れしていたんだった。小学校のころからの親友で、こんな風にけんかになることってなかった。どうやって仲直りしていいのかわからない。

「―よう」

「赤城、おす」

 空がわたしと手をつなぐ。美月の目が鋭くとらえる。わたしの心臓がピクンと反応する。美月にも、わたしの体のことを話した方がいいと思った。でも、今の美月とわたしの間は、話を聞いてもらうような雰囲気ではない。

「」

 美月が歩きだして、空とわたしもつづく。

「赤城はいつも涼しげな顔してるな。今日なんか蒸し暑くないか?」

「温度も湿度も同じ」

「顔にでないだけか。汗はでてないし、髪はさらっさらだし。同じ世界にいると思えねーな」

 わたしは、髪をなでつける。湿気があるとバサバサになって広がってしまうのだ。髪が傷んでいるからだなんていうけど、どこで傷んでるんだろ。美術部員で、日光をあびる機会なんて通学と体育の授業だけなのに。編んでもいないし、縛ってもいない。シャンプーかなという結論に落ち着いてしまう。でも、美月と同じシャンプーを使っても同じ髪質になる気がしない。体質じゃないかな。これはお母さんが悪いんだ、きっと。

 考えごとをしているうちに教室についた。もう大丈夫。

「空、大丈夫だから。手、ありがと」

「おう。おしとやかにな」

 小声での会話。空がつないだ手を放した。

 不安がやってくる。神経を足だけに集中する。氷の上を歩くような歩き方をしている自覚がある。

 足が重い。

 机の間を通って、自分の席にたどりつけた。美月も自分の席についていて、教科書を机にしまったりしている。やっぱりまだ怒ってるのかな。


 授業中、足首につけたウエイトが重くて気になる。

 数学の松本先生が二次関数の話をしている。中二のときは一次関数だった。中三で二次関数ということは、高校に入ったら三次、四次、五次とやるのかな。なんかちがうのかな。

 そんなことをぼーっと考えていたら、急にわたしの名前を呼ぶ声が耳に入った。わたしが指名されたのだ。

 わたしの番だった?

 慌てて立ち上がる。勢い余って足が浮き上がりそうになる。小さい悲鳴をあげて机の端を手でつかんで事なきを得る。

「どうした、曽根。話聞いてなかったか?曽根の番だぞ。練習問題二のカッコ三」

「すみません。ぼーっとしてました。やってません」

「気を引き締めて行けよ。あっという間に受験になるからな。ぼーっとしてる暇はないぞ。

 カッコ三の答えは、三とマイナス二な。曽根はもういいぞ。じゃあ、藤堂。次のカッコ四」

 力尽きて席にすわる。

 はあ、なにやってるんだろ。高校は普通科に進学しようと思っているのに、勉強がおろそかになるなんて。

 右斜め後ろをふりかえる。美月がわたしを見ていた。

 美月は音楽科に進学希望だといった。昨日の帰りのことだ。わたしは普通科が希望だと言ったら、美月は怒りだした。

 美月はピアニスト、わたしはゲイジツ家が将来の夢なんだけど、普通科から芸大に進学する人も多い。音楽のことはわからないけれど、普通科に進学したからと言ってゲイジツ家になるのに遠回りになるというわけではない。

 美月にそう説明したのだけれど、美術科に進学すべきだと言って譲らなかった。

 楽器の演奏となにかを作りだすこととは、いろんな点でちがうのだと思う。美月はピアノがすべてという生活が大切かもしれないけれど、わたしは普通に勉強することも自分にとって大切だと思っている。目指す世界がちがうし、考え方がちがうのだ。お互い認めあうこともできると思うんだけど、美月はわたしの考えを認めてくれない。

 普通の勉強も大切だと言っておきながら、いまの体たらく。美月にはノーカンということにしてもらいたい。


 休み時間、トイレに行くにも一大決心が必要だ。

 トイレまでの道のりをシミュレーションする。途中誰かにぶつかられたりしたら、わたしの体はどうなるのだろう。吹き飛ばされるかもしれない。軽くぶつかっただけなのに派手に吹き飛ぶなんて嫌がらせかと思われる。

 足を引きずるようにペンギン歩きをしながら、周囲に注意を払って廊下をゆく。

「おい、大丈夫か。また手つなぐか?」

 空がきてくれた。

「ううん。大丈夫だと思う。トイレに行くだけ。近くまでとなり歩いてくれる?」

「わかった」

 トイレの扉の前で空とわかれてトイレに入った。個室で便座に腰かける。頭をかかえてしまう。障碍のある人の気持ちがすこしはわかったと思う。足が重い。まわりの人の動きが怖い。まわりの人にどんな風に見えるのか気になる。これだけのハードルがあると、トイレにくるだけでも憂鬱だ。

 トイレからの帰りも、どこからか空がやってきて一緒に教室までもどってくれた。

 中学に入ってからはずっと疎遠だったのに、急に昔にもどったみたい。むしろ中学の間も仲良しだったんじゃないかと錯覚する。


 放課後になってしまった。まだ美月にわたしの体のことを話せていない。

 美月はいつのまにかいなくなっていた。もう教室をでてしまったのかと思ったけど、まだカバンがあるからもどってくるはずだ。そういえば、今日は日直が美月なんだった。きっと日誌を職員室にもっていったんだ。

 やっぱり。教室のドアを開けて美月がもどってきた。

 机につかまって伝い歩きをしながら美月の席にやってきた。美月がわたしを見上げる。

「あの、美月。わたしは美月のこと大好きだよ?自分の夢のことも真剣に考えてる。それで、いま美月の助けを借りたいんだけど。助けてくれる?」

「」

 美月はわたしのエス・オー・エスを無視して教室をでていってしまった。

 自分の席にもどって机に突っ伏す。美月はもうわたしのことを好きじゃないのかな。わたしが美術科にいくかどうかが、美月にとってそんなに重要なのかな。

 今朝の美月のするどい視線を思い出す。美月はもしかして空のこと。ううん。もし空のことが好きだとしても、わたしを嫌いになる理由にはならない。今朝まで空とわたしは仲良くなんてしてなかったんだから。でも、わたしが普通科に進学することは許せるけど、空と手をつないでたことが許せないということも考えられるかもしれない。

 空の助けがなければ学校の行き帰りもできないというのに、どうしたらいいんだろう。美月が助けれくれればいいのだけれど、しばらくはむづかしそうだ。わたしは美月と親友のままでいたいのに。

 あれ?

 上半身は机に突っ伏しているけど、お尻が落ち着かない。椅子から浮き上がってる。足も床についていない。机にしがみつく。ウエイトをつけているのに。なんで?さっきよりも軽くなってる?ダイエットしたい女子に恨まれそうだけど、体重がマイナスって全然うれしくないよ。

 そうだ、空。

 ああ、ダメだ。部活中だ。ケータイにメールしても見てもらえない。

 美月はわたしを無視して帰っちゃったし。

 どうしたらいいの?

 自分の机だけでは間に合わない。左右の机を引き寄せて、片手づつつかまる。自分の机は太ももを押さえてくれる。

 どうせ空がいなくては家に帰れないのだ。わたしはカバンからケータイを取り出して空にメールした。部活が終わったら教室にきてという内容だ。緊急事態に備えてベストのポケットにケータイをしまう。今日は美術部にでられそうにない。

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