第34話 ああ、ドビュッシーね。いいよね、その曲。わたし好きだよ――こうドバーって感じだよね
放課後の美術室。
空に手伝ってもらった美術展用の試作品。キャンバスは木枠に張りなおしてある。その前にすわる。
デカい。
わたしはキャンバスをまえに考え込んでしまう。爆発を表現しようと思っていたけど、どうやって表現するか、サッカーの部分しか考えていなかった。
こういうのは筆をとるまえに考える作業を終えていなくてはならない。描きながら考えていたら爆発にはならない。一度筆をとったらズバーッとババーッと一気にやってしまわないといけないのだ。だから、頭を使う。
パレットに茜色と空色の絵の具がのっている。いつの間に。まったく気づかなかった。自分で色を作ったはずなのに。
「遥ー」
「どうした」
「日が沈むのってさ。西だよね」
「天才バカボンでなければな」
「西ってどっちだっけ」
「大丈夫か?西と言ったら西だ」
「そうじゃなくてさ。地図でいったらどっちだっけ」
「小学生か。西は左だ」
わたしは茜色でキャンバスの左半分を塗りだす。キャンバスの中央から端にいくにしたがって濃くなるように。空が貢献した部分を適当によけながら、余白を埋める。次に右半分を同じように空色で。
うーむ。本番のときは、こんな感じで下塗りしておこうか。それに、白以外の色はもう少しずらして配置した方がいい気がする。白は水風船にいれる絵の具を少なめにして最後に割るようにしよう。それまでの爆発の色からあまりはみ出ないようにしたい。中央あたりは背景の色が白っぽいから目立たなくなってしまう。
あと、いまは真ん中あたりの一か所に水風船を配置しているから、まだキャンバスの大きさに対して絵の具が飛び散る範囲が狭すぎる。キャンバスに絵の具を先にのせておいたときよりいいけど。水風船ごとに位置を分散したほうがよさそうだ。松本先生が言っていた。キャンバスにおさめようなんて思ってたら爆発にならない。
そうすると、わたしは背景の下塗りだけしておけば、あとは空まかせで済んでしまう。楽チンだ。あとから、人間のいろんな方向からの絵をうまく組み合わせれば、完成するはずだ。
こんどは自分で描く方のメインの人間を進めなくてはならない。でも、今日はいいかな。
遥はまだなにやら取り組んでいる。
耳を澄ますと、ピアノの音がかすかに聞こえる。
階段をあがって音楽室のまえにやってきた。ドアののぞき窓から中をのぞく。グランドピアノの屋根が邪魔で演奏者が見えない。
ガラスに顔をつけたまま、体ごとドアをスライドする。隙間から体をいれる。床を蹴る。
おっと、宙を飛べないんだった。不便だな。
低い姿勢でピアノを横切って生徒用の机の群れの方へ移動する。最前列の席につく。机に肘をついて、手を組む。その上にアゴを載せて目をつむる。
昼寝にもってこいではないか。と思っていると、演奏が終わってしまった。これから心地よい眠りへ誘ってもらおうというところだったのに。
「サボっていていいの?」
「今日は開店休業」
「それ、意味わかって使ってる?」
「わかってるよー。お店は開店しているけど、毎日お店やっててもつまらないから店をあけて遊びに行っちゃってるってことでしょ?お客さんはお店の人がいないから、困っちゃって、こりゃ開店してるけど休業と同じだなってこと」
「全然違うと思うけど」
「えー、そんなことないよ」
「結局サボってるってことだよね。茜のいう意味であってるなら」
「え?まあそうともいうかな?」
「本当にいい加減だな」
「体重がもどったから、ピアノも弾けるようになったんでしょ?」
「まあね。でも、腕が重い。筋力衰えたよ」
「そうなの?さっきの演奏よかったよ?わたしあともう少しで寝られそうだったもん」
「ありがとう。寝てくれてもよかったんだ。襲ってよければ」
「ぎゃー。学校でー?こわーい」
「ちょっとこっちきたら?」
美月がピアノの椅子の空いたスペースをポンポンと叩く。
「ううん。いかない」
「あっそ。じゃあ、次の曲弾くか」
「うん。聴いててあげる。ミスしないか」
「茜わかるの?」
「なんの曲?」
「ドビュッシー」
「ああ、ドビュッシーね。いいよね、その曲。わたし好きだよ」
「わからないなら、わからないっていえばいいのに」
「わかってるもん。こうドバーって感じだよね」
「ドビュッシーは作曲家だけど」
「やだなー。冗談だよー」
「じゃ、弾くよ」
「おう、かかってきなさい」
ピアノからポーンと音が飛んでくる。美月がゆっくり体を動かしながら鍵盤に指を這わせる。
これは。まさに昼寝にうってつけではないか。音楽にも印象派があるんだった。これはきっと印象派だ。ちょっとけだるいような、キラキラしているような、のんびりした感じが。ふわっと浮いてまたおりるような。ああ、部屋で宙に浮いているときの気分を思い出す。
「おわぁっ」
わたしは跳び起きる。美月の唇が目の前にあった。
「ぎゃっ」
床に尻もちをついた。痛い。全身に鳥肌が立っている。美月が、寝ているわたしの耳に息を吹きかけたからだ。おどろいた拍子に椅子から転げ落ちた。
「敏感だなー」
「美月がいうといやらしく聞こえる」
「いやらしい気持ちでいったんだ。まちがってない」
うう。カミングアウトからのこの積極性。身の危険を感じる。
「ちょっと耳貸しなよ」
「断る」
「もうしないから」
「じゃあ、なんで耳貸さなくちゃいけないの」
「うん?ペロッとするだけだからさ」
「断じてことわる」
「で、どうだった?いまの演奏は。審査員」
なんとか椅子にすわりなおす。
「え?ああ、まあまあだったかな。ミスタッチしないようにね」
「はーい」
パコっと楽譜で頭を叩かれる。楽譜は薄いし軽くだから痛くない。
「寝てて聴いてなかったなら、素直に言え」
「えー、聴いてたよ。夢の中で」
「もう、いい。帰る時間」
おっと、美術室に戻って片付けなくちゃ。
「あー、いたいた。茜、こんなところで油売ってないで」
よっこいせと立ち上がるとき、声がして誰か音楽室にはいってきた。
美月がわたしの肩を引き寄せる。
んん!
顔の前になんかきた。
顔を引く。
目の前に、うなじ?
セクシーじゃない。
「ぶわぁっ。三浦!なんで、また三浦と」
空?
わたしは椅子にひっかかって後ろ向きに倒れる。後頭部を打った。
いったぁい。
目の前がちかちかする。股のあいだになにか落ちてきた。
スカートがめくれてる!
スカートを直して、手と足を使って床の上を後ずさる。スカートの中から空の頭が出てきた。
「うぉおー」
わたしは叫び声とともに上履きの裏で、起き上がろうとしている空の胸を蹴った。
空はスローモーションでカエルのように後ろに倒れていった。
ゴッという空の頭が床に落ちる音がした。空は床で頭を抱えてのたうちまわる。
「ああ、ごめん空」
空を蹴り倒すつもりはなかったけど、体が勝手に。
わたしってやっぱりおてんばなんだ。
すぐに膝に空の頭をのせてなでる。
ああ、思いっきりタンコブできている。
「美月!いまなにしたの!」
「え?三浦が悪いんだ」
「なにしたの!」
「突き飛ばした」
「なんで!」
「三浦とキスしたから」
「むかっときた。なんで美月と空がキスすることになるの!」
「割り込んできたんだ」
「なにが!」
「茜とわたしの間に三浦が」
「美月、わたしに無理やりキスしようとしたってこと?」
「まあ、そうですが」
「そうですがじゃない!女の子でしょ?無理やりキスされて、わたしがどう思うかわからないの?」
「強引なのもいいかなって」
「だったら、空が割り込んでキスしちゃっても、いいかなって思えばいいでしょ!自分が悪いことしておいて他人を突き飛ばすなんて、ヒドすぎる」
「ごめんなさい」
「今度やったら、絶交だから!」
空は大丈夫なんだろうか。救急車を呼んだほうがいいか。
「空、どう?まだ痛い?」
「うう、赤城とキスしちったからな、茜がキスしてくれれば痛みも治ると思う」
「バカなこと言わないの」
空のおでこをペタンと、平手で叩く。
「いてっ、けが人になんてことするんだ」
「よかった。大丈夫そうだね。すごい音したから本当に心配したんだから」
「茜が蹴ったんだけどな」
「ごめんなさい。体が勝手に動いちゃったんだよ」
「いいさ。こんなことでもないと、茜の膝枕にはありつけないからな。いまのうちに堪能しておこう」
もう大丈夫そうだねといって、立ち上がろうとすると、空は頭を押さえて痛がる。わたしの負い目を利用する戦法だ。
「でも、もう帰らないと。遥待ってるだろうし」
「加賀は先に帰るって言ってたぞ」
「薄情な。もっと仲良くしてくれてもいいのに」
「ベタベタしない方がつきあいやすいだろ」
空は膝枕のまま美月に顔を向ける。美月はしゃがみ込んで燃え尽きた灰になっていた。
空のいうとおりかもしれない。遥は遥。遥があんまりやさしかったら気持ち悪い。
「名残惜しいけど、帰るか」
「そうだよ。床かたいし。足痛い」
美月が立ち上がる気配がない。
「美月、帰らないなら置いてくけど」
はっと意識をとりもどした。
「待って、いま片付ける」
「美術室で待ってるよ。わたしも片付けないと」
「じゃあ、三浦はのこれ」
「断る。さっきキスした相手と一緒なんて気まずいからな」
「あ、こらっ。茜とふたりになるな」
もう病気の美月は置き去りにして美術部へもどる。
「絵は、こんな感じにすることになったのか?」
「背景はね」
水風船を割って模様をつける部分を手描きで追加して、空色と茜色で余白を塗りつぶした試作のキャンバスを空が見ている。本番はこんな感じになる予定だ。
「さらに絵が加わるってこと?」
「そうだよー。いろんな角度から人間を描くんだよ」
「へー。まえ壁に貼ってたやつだな」
「まだ覚えていたなんて、空のエッチ」
「貼っておくほうが悪い」
「ふんだ」
すぐに美月もやってきて、三人で帰った。
毎日いろんなことがあって疲れる。
クローゼットの前で着替えるとき、腰に巻いたウエイトをはずそうとしてしまった。もうウエイトは巻いていないのに。空がいったことがあたっているかもしれない。
ちょっと寂しい。
部屋に設置したポールはすでに撤去してある。
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