リープ18 オール・ユー・ニード・イズ・キル その1
起きると俺は、見知らぬベッドの上にいることに気づいた。とっさに飛び起きて周囲を見れば、白いカーテンに囲まれている。部屋全体にどことなく漂う薬品の香りといい、どうやら病院にいるらしいが、何故こんなところにいるのかさっぱり覚えがない。
昨日は確か園と一緒に映画を観に行って、外で夕食を取って、九時過ぎにはアパートに戻っていたはずだ。寝ているうちに体調を悪くして、自分でも知らないうちに病院へ運ばれたのだろうか。しかしそうだとすれば、今の自分の恰好が、普段から寝間着代わりに使っているジャージ姿というのが妙だ。
ベッドの上であぐらをかいて、いくら考えを巡らせても、自分の置かれた状況が理解できると思えない。幸い、身体には特に異常はないし、点滴注射が腕に刺さっているということもない。とりあえずここを出て、医者なり看護師なりに話を聞けば何かわかるだろう。
そんなことを考えてベッドから出ようとしたその直前、部屋に誰かが入って来る気配がした。カーテンを開けて確かめてみれば、部屋に入ってきたのは園だ。隣には見知らぬ女を連れている。長い黒髪と眠たげな瞳が特徴的な美人である。彼女か何かだろうか。なんにせよ都合がいい。事情を聴きに部屋を出る手間が省けた。
俺が「おう」と声を掛けると、園は「やあ」と気安げに言ってこちらへ軽く手を挙げ、ベッドの縁に腰掛けた。女の方は立ったまま、ぎこちなく微笑みじっと黙ってこちらを見ていた。
「体調はどうだい、江波」
「ああ。特になんともない。何でこんなところにいるのかわからないくらいだ」
「そうだろうね。そういう君を見てると、僕ですら何で君がここにいるのか、わからなくなるくらいだよ」
そう言って力なく笑った園は、ふと真剣な顔つきになって「いいかい」と続けた。
「江波。今の君は少し、特殊な病気でね。説明するのも厄介なんだ。だから……見てもらった方が早いかも」
「なんだよ、特殊な病気って」という俺の声に答えないまま、園はカーテンの閉められた窓の方へと近づいた。何をするのかと思えば、園は緊張したように背筋を正して一気にカーテンを引く。
曇った窓の向こうに広がっていたのは、まだ踏み荒らされていない雪が一面に積もった景色だった。どれだけ手の込んだ冗談だと思いながらベッドから立って、近づいて窓を開けてみれば、冷たい空気が部屋に入りこんでくる。肌が内側から引っ張られるような、真冬の寒さだ。
この感覚は嘘じゃないし、勘違いでもない。でも、嘘であってほしい。勘違いであってほしい。夢であってほしい。
「……おい、園。なんだこりゃ」
「昨日、大雪が降ってね。都内じゃどこもこんな感じだよ」
「ふざけんな。今は五月だ。北海道でもこんな雪は積もらんだろ」
「いや、二月さ。信じられないかもしれないけど……事実だ」
「じゃあなんだ。俺は、時間を超えたっていうのかよ」
「ある意味では、そうなるのかもしれない」
「結論言えよ。ある意味とかじゃなくて、簡潔に、きちんと説明しろ」
俺の言葉に辛そうに表情を歪めた園は、苦しそうに言葉を並べた。
「……江波。君の記憶は一週間しかもたない。君の時間は、もう何年も止まったままなんだ」
〇
都内の某所にある大学生がいた。それなりに映画が好きな、どこにでもいる普通の大学生だ。そいつは友人と共に映画を観たり、授業に出たりサボったり、バイトに勤しんだりする、なんてことのないモラトリアムを送っていた。
適度に充実した毎日を過ごす中、そいつはこんなことを考えた。
――俺はきっとこのままなんとなく大学を卒業するのだろう。それで、なんとなく就職して、なんとなく仕事をして、なんとなく生きていくのだろう。
そうなるはずだった。でも、ならなかった。
ある十一月の雨の日のこと。交差点で信号待ちをしていたそいつの横を、子どもが運転する一台の自転車が通り抜けていった。ブレーキが壊れたせいで、停めるに停められなかったのだという。
交差点に乗用車が近づいているのを見ていたそいつは、とっさに飛び出して子どもを庇い――そして、車にはねられた。
そいつは身体の骨を数カ所折ったものの、幸い、命に別状はなかった。しかし、頭の打ち所が悪かったのか、そいつはしばらく目を覚まさなかった。
そいつが目を覚ましたのは、事故から二か月後のことだった。そいつの両親や友人は大変喜んだが、そいつ自身は困惑した。事故当時のことはおろか、知っているはずのことすら覚えていなかったからだ。調べると、どうやらそいつの記憶は事故に遭う一年以上も前――2015年の5月30日まで遡っているらしいということがわかった。
脳への損傷も認められないことから、医者を含めた周囲の人間は、事故のショックで一時的に記憶の欠如が発生しているものだと思っていた。そいつも医者の話を聞いて納得したし、リハビリを重ねることにより記憶は徐々に戻るのだろうと、そう信じていた。
そうじゃないとわかったのは、そいつが起きてから八日目のことだった。
八日目の朝。目を覚ましたそいつは、「自分がどうしてこんなところにいるのか」ということを周囲の人間に訊ねた。そいつは、再び記憶を失っていたのだ。
次の八日目の朝も、また次の八日目の朝も、そのまた次の八日目の朝も……そいつは、「どうして自分が病院にいるのか」と質問した。
そいつの記憶は、一週間で全てリセットされるようになっていた。まるで、容量がいっぱいになったバケツの底が抜けるように。
〝そいつ〟というのは他でもない、俺のことらしい。
〇
園の話がどこか他人事のように、右から左へと耳を抜けていった。現実味が無さ過ぎる話に理解が及んでいないのか、それとも自分が置かれた状況を受け入れるのを脳が拒否しているだけなのかわからないが、とにかく俺は、「ああ」と、自分でも驚くほど軽い返事しか返すことが出来なかった。
「それで、今は何年の何月なんだ?」
「……2018年の2月」
「そうか。……俺はその事故があってからずっとここに居るのか?」
「いや、ここに来たのはつい昨日だ。ただの検査入院だよ」
「それなら、MCUシリーズの新作は映画館で観れるな」
「そうだね。聞いたところによると、ジェイソン・ステイサムが鮫と戦う映画が公開されるらしい。……面白いよ、きっと」
「観に行きたいな」
「……僕もだよ」
俺達の会話をどこか寂しげに聞いているのは、園と共に病室へやってきた女である。あんな美人は俺の知り合いにはいない。もしかしたら、忘れているだけかもしれないが。
あまり放っておくというのも悪いかと思い、俺は彼女に「どうも」と頭を下げた。すると彼女は笑みを浮かべると共に俺に歩み寄ってきて、「やっほ」と気安く言って手を上げた。やはり知り合いだったらしい。
「はじめまして……に、なっちゃうんだよね」
「そうなるな」と答えると、そいつは「だよねー」と乾いた笑いをこぼして、ちょっとふざけたようにがっくりとうなだれた。
「池里真春。真の春と書いて真春。そろそろ覚えてよね、千晃」
知り合いだろうということはなんとなくわかっていたが、まさか〝千晃〟とは。初対面の相手から名前で呼ばれるのは妙だったが、しかし不思議と悪い気分ではなかった。
俺は「悪いな」と頭を下げてから、さらに続けた。
「その……変なこと聞いて悪いんだけど、俺はお前のことをなんて呼んでたんだ?」
「さあ? 自分で思い出してみなよ」
「それが出来ないから聞いてるんだろ。教えてくれよ。池里でいいのか?」
「どうなんだろうね。わかんないや」
そう言うと池里は軽い足取りで部屋を出ていった。その寂しい背中を何度も見たことがあるような気がしたのに、どこで見たのかはどうしても思い出せなかった。
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