リープ3 バタフライ・エフェクト その5
園の〝タイムリーパー宣言〟から数えて三日目。五月は終わり、六月に入った。最近はこの時期から最高気温30度を超える日も珍しくなく、今日もその例に漏れず暑かった。もう半月もしないうちに、気の早い蝉が鳴き始めるのだろうか。
その日、俺は園、池里と共に喫茶店『しまうま』にてモーニングセットを取っていた。窓の外に目をやれば午前十時の眩しい太陽が、風に揺れる緑の葉を照らしている。商店街のやや奥まったところにある店なので、車を走る音は遠い。コーヒーの香りが鼻に通る。カウンター席に客がふたり。テーブル席には俺達も含めて二組。それ以外に客はいない。この店は今日も呑気である。
一秒が一分に感じられるような穏やかな時間に切り込んできたのは、「映画を観たいの」という池里の力強いひと言だ。
まだ半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した池里は、もう一度「映画が観たいの」と力強く宣言し、顔前で固めた拳をじっと見つめる。
「面白い映画が観たいの。刺激的で、素敵で、ゾクゾクする映画だったらなんだって構わない」
「だったらいい映画があるよ!」と勢いよく席を立ち、テーブルに両手をついて身を乗り出したのは園である。普段から声が大きい男なのに、池里と喋る時にはなおうるさい。
「ロビン・ウィリアムズの――」
「あ、コメディーはパス。別に嫌いってわけじゃないのよ。ただ、今の気分じゃないってだけ。ゴメンね、園くん」
そう言われた園は「そうかい」と呟き、ピアノソロの悲しいBGMが聞こえてきそうなほど悲壮感漂う表情で肩を落とした。
園という男は幸せそうな見た目の通り、観た人間の幸福指数を上げるようなヒューマンコメディーを好む。不幸せは幸せのスパイス。何かイザコザが起きても、誰もが笑ってノーサイド。後味の悪い映画を観た時は、三日は引きずる男である。
対する池里は見た目に反して、ドカドカ爆発してバラバラ薬きょうが落ちてドサドサ人が死ぬ、血沸き肉踊るアクションが大好物だ。右の頬を殴られれば左の頬を殴り返せ。いやむしろ撃ち殺せ。復讐バンザイ。娘をさらったテロリストは徹底的に痛い目に遭わせよ。そんな感じの女である。
二人の距離はあまりに遠い。園が池里の趣味に歩み寄ることが出来るのかは謎だが、いくら深い愛があろうと難しいのではないかと、俺は思う。
池里はこちらへ視線を向け、「さて、江波くんのオススメは何かな?」と煽るような言葉を投げてきた。
何の因果か俺は池里と映画の趣味がかなり似通っているから、コイツが好むような映画を挙げるのは容易い。スタローンなら『オーバー・ザ・トップ』、ヴァンダムなら『ユニバーサルソルジャー』、シュワルツェネッガーなら『イレイザー』、ウォーロックなら『レッド・オーシャン』……と、例を挙げていけばキリがない。しかしそんなことをしては、たとえこちらにそんな気が無くとも園を裏切ったような気がしてなんとなく嫌だ。
だから俺は「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも観とけよ」と適当に答えた。
「あー、あれね」と言って膝を打った池里は、前髪の先を人差し指で弄ぶ。「そういえばわたし、観たことないのよね、あれ」
あまりに信じがたい言葉が返ってきたため、思わず「は?」という素っ頓狂な声が出た。すると池里はもう一度、「観たことないのよ」と、とんでもない宣言をさらりとかます。それでも信じられなくて、思わず前のめりになりながら「ウソだろ?」と訊ねると、池里は何故か偉そうに「ウソじゃないんだなこれが」と胸を張った。
――まさか、まだバック・トゥ・ザ・フューチャーを観たことがない人類がこの世界に実在するとは。ツチノコなんかよりもよっぽど珍しい存在ではなかろうか。
「ほら、わたしってシリーズものを追いかけるのが苦手な人間じゃない? だから、あの映画が面白いってことはわかってるんだけど、ついつい見そびれてさ」
そんなことは知らん。知るわけがない。しかし、観たことがないのならば是非とも観るべきである。というよりも、観ないなんて選択肢はあり得ない。人として。
「よし。それなら俺がブルーレイを貸してやる。全部観てこい。面白いから」
「待ってよ。せっかくなら大きなスクリーンで観たいじゃない」
そう言って池里はスマートフォンを弄り始める。何を調べているのかと問えば、「新文芸坐の上映スケジュールを調べてる」とのことだ。
数分後、池里は「やってないみたいね」とうなだれた。
「やってると思ったのに。確か今年って、『2』で飛ぶ未来と同じ西暦だったよね」
「本編を見たことが無いのにそういうことは知ってるんだな」
「あれだけニュースでやってるところを見たら嫌でも覚えると思うけど?」
「意外だな。ニュースなんて見るのか」
「普通は朝起きたら少しくらい見ると思うけど、まさか見ないの?」
「俺のテレビは天気予報の代わりにジャッキー映画のNG集が流れるんだ」
「どんなテレビ、それ。まあ、言いたいことはわかるけど」
その時、園がわざとらしく咳き込んでこちらの注意を引いた。見れば、目一杯両手を挙げてニカッと歯を出して笑い、何やらアピールしている。何か考えがあるらしい。
背筋を正した池里は、教師の如く「ハイ、園くん」と意見を促す。
「映画館みたいに大きなスクリーンがある! ……とは言わないけど、テレビよりもずっと迫力ある映像が観られて、無料で、おまけに誰も人が来ない場所を知っていてね。よければそこに行こうかな、なんて思ったりして」
すると池里は眼を輝かせて、「あらステキじゃない。どこなの、そこ」と訊ねる。
気を良くした園は軟弱ぺらぺらの胸をぐっと張り、細い二の腕に力こぶを作って言った。
「我らがサークル『白鯨』の秘密基地……『ミヤモト』へ行くっていうのはどうかな?」
○
ミヤモトというのは、専洋大学からそう離れていないところにある、既に潰れて久しい元レンタルビデオ店である。錆びたシャッターを引き上げてわざわざ店内に入っても、あるのは空っぽの棚ばかりだが、店の奥へ通じる扉を開ければ話は別だ。そこに待っているのは、なんと驚き、100インチを超えるスクリーンと5つのスピーカーが完備された最高級シアタールームなのだ……というのは、先ほど園から聞いた話である。
曰く、店の元店長がかなりの凝り性で、店が暇な時にいつでも映画を観られるようにあの部屋を作ったらしいのだが、寄る年端には勝てず店を畳むことになったから、日頃からよく店に顔を出してくれた『白鯨』の部員に使って欲しいとのことで、空き家になった店を部で管理する代わりに、部員ならばいつでもそこを使ってもよいことになっているのだという。
事情を聞いているうちに、「どうやら金持ちの爺さんが道楽でやっていた元レンタルビデオ店の維持・清掃を体よく押しつけられているだけらしいぞ」ということに気づいたが、何も言わないことにした。良い環境で映画が観られるのだから、余計なことを言う必要はない。
「白鯨って、〝あの〟白鯨? 園くん、あそこの部員だったの?」
「まあね。池里さん、映画好きみたいだし、映画仲間が欲しいならサークル見学に来るっていう手も――」
「ありがたいけど、遠慮しとこうかな。別にわたしが映画を作りたいわけじゃないし、それに、ウワサに聞いたんだけど監督さんがちょっとクセのある人みたいだし」
「そう」と園は深く息を吐いて落ち込んだ。
「まあ否定は出来ないよ」
俺も白鯨の噂はよく耳にしている。
小津という監督がインディーズ系の映画の賞をいくつも受賞したことがあるとか、町中でゲリラ撮影を繰り返したせいでカメラマンが警察に捕まったことがあるだとか、迫力のあるシーンが撮りたくて本当に車を爆発させたことがあるだとか、撮影現場にたまたま居合わせたが最後、無理やり撮影に参加させられるだとか、監督が怪人だとか、はたまた吸血鬼だとか、あるいは妖怪だとか……どれだけ尾ひれがついた結果こうなったのかはわからないが、少なくとも『白鯨』がとんでもない場所であることは間違いない。
大学入学当初、園に「見学に来ないかい」と誘われたこともあるが、噂を聞いていたこともあって、無論丁重にお断りした。
しまうまを後にした俺達は、その足でミヤモトまで向かった。
ミヤモトは歩いて二十分ほどのところにあった。閉じきりになったシャッターを上げ、店の扉を開けば、ひんやりとした空気が流れ出てくる。「魔法の国へご案内」なんてメルヘンなことを言いながら進む園に先導されるまま店を進み、レジカウンターの向こうにある扉を開ければ、壁一面に広がる灰色のスクリーンがまず目につく。小劇場のスクリーンの四分の一程度の大きさ、といったところだろうか。映画館に比べれば迫力には欠けるだろうが、個人で見るには十分過ぎるほどの設備だ。
「やるね」と言った池里は、わざとらしく口笛を吹いた。「そうだろう」と自慢げに答えた園は、スピーカーの配置と配線の確認を始めた。
園が上映の準備を進めるのを横目に見た俺は、そっと部屋を出てミヤモトを後にした。映画を観るにはポップコーンとコーラが必須だと思ったというのもあるが、園と池里を二人きりにさせてやる、〝気の利く男〟を演じるのも悪くないと考えたのが大きい。
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