リープ18 オール・ユー・ニード・イズ・キル その5
ふたりが帰ってから、俺はひとりで病室にこもり、ベッドに仰向けに寝転がって過ごした。蜜が落ちるようにゆっくりと時間が過ぎる中、俺が覚えていた感情は怒りだった。
あいつらは俺のことを思って、こんなとんでもない治療に賭けた。それはわかる。
でも、あいつらの治療の話を受け入れた俺自身がわからない。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も。ひたすら同じ一週間を繰り返す俺に付き合わせることを了承するだなんて、当時の俺は何を考えていたのだろうか。よほど強い説得を受けたに違いないが、何を言われても断るべきだったのは間違いない。
窓の外を見れば既に暗い。乾いた風が窓を時折揺らしている。あと五日もすれば俺は、空がこれだけ暗い理由も外がこれだけ寒い理由も綺麗に忘れてしまう。そして、周りの人に同じ質問をする。
「俺に何があったんだ?」と。聞かれた方は、きっとうんざりしている。
治療が始まってそろそろ一年が経つ。好ましい結果が得られていないのは自分が一番よくわかる。このままこんなことを続けていても、恐らく何も変わらないだろう。
だからふたりにはこの治療を辞めさせるべきだ。ずっと友人でいたいからこそ、こんな無駄なことは辞めさせるべきだ。
いつまで経っても進まない俺の時間に、他の誰かを巻き込むなんてしたくない。
〇
翌日。着替えと朝食を済ませた後、院内を周ってみたり、普段は決して読まない新聞なんかにぼぅっと目を通していたりしていると、十時を過ぎた辺りで園が病室にやって来た。「昨日はゴメン」と謝るその姿を見るだけで、申し訳なくなって胸が締め付けられる。
「いいんだ。俺こそ悪かった」
ベッドから立った俺はパイプ椅子を広げ、座るように勧めた。「ありがとう」とそこに座った園は、窮屈そうに身を縮めた。
「今日は、池里は一緒じゃないのか?」
「うん。大学院で説明会があるらしくって、今日は一日忙しいんだって。男ふたりだと、むさ苦しくってしょうがないね」
「いや、むしろ都合がいい。話したいことがあった」
ベッドの端に腰掛けて、真っ直ぐ園と向き合う。「なんだか顔が怖いよ」と言った園は、緊張したような笑みを浮かべる。俺はなんとなく、「もしかしたら園はこれから何を言われるのかわかってるかもしれない」、なんてことを思った。
「例の治療についてなんだけど、もう辞めにしないか」
園の眉が悲しそうに下がった。両目は一切動くことなく俺をただ見ている。真一文字に締められた唇には動く気配すらない。黙っていたらこのまま夜までそうしていそうだ。だから俺は、口を閉ざしたままの園に構わず話し始めた。
「俺だって、一週間で記憶が消える人生なんてのは嫌だ。でも、上手く付き合えばなんとかやっていける。それに、この病気も悪いことばっかりじゃない。同じ映画を何度見ても楽しめる。そうだろ?」
「そうかもしれないけど……でもダメだよ。辞められない」
「お前の気持ちはありがたい。池里にも感謝してる。でも、だからこそ辞めて貰いたいんだ。お前達の人生を奪ってまで、俺は生きていたくない」
その時、強張っていた園の表情が柔らかく崩れ、まるで面白いことを聞いたような楽しげな微笑みに変わった。唖然としてしまったのは俺だ。噓偽りのない本心を打ち明けたはずなのに、なんで笑われなければならないのか。
思わず深いため息をこぼすと、園は慌てて、しかしなお微笑みながら「ごめんごめん」と俺をなだめた。
「思い出しちゃってさ。この治療が始まる前、君がまったく同じ台詞を言ったことを」
なにかを懐かしむような表情で、園は天井を仰ぐ。
「僕やモンジロー先生がいくら説得しようと、あの時の君は首を縦に振らなかった。でも、そんな君を相手にしても池里さんは諦めなかった。『あんたに人生奪わせたつもりなんてない。わたしの人生はわたしの人生』って言って君を睨む。でも君はやっぱりうんと言わない。とうとう彼女、君を殴った。それで君が折れて、あの動画を撮ったんだ。僕、君より頑固な人を初めて見たよ」
園の微笑みが再び俺に向けられた。俺は思わず視線を逸らした。
「……園。なんでアイツはそんなに俺を治したいんだ。アイツは、俺にとってなんだっていうんだよ」
「わかってるのに気づかないフリが出来るほど、君は器用な人間じゃないはずだよ」
園は俺の額を人差し指で軽く弾いた。
〇
それから一時間後、病院を出た俺は駅への道を歩いていた。本来、外出は禁止されていたのだが、室藤さんを呼び出して、「例の件を池里に話しますよ」と少し脅したら、「男と男の秘密だよ」と了解を得ることが出来た。まったくもってダメな大人だが、今ばかりはそのダメっぷりに感謝すべきだろう。
固まった雪をしゃりしゃりと踏みしめながら歩く。空は遠く、薄青く、昨日までのような灰色の雲はひとつも見当たらない。透き通った太陽の光に目を細めていると、街路樹から雪が融け落ちて俺の鼻頭を冷たくした。その時、ふと寒い時期の夜の空は綺麗に見えるということを思い出して、今夜には星を眺めてみようと俺は決めた。
文句のつけようもないくらいに冬真っ盛りだ。思えば、こうやって季節を感じながら歩くというのも本当に久しぶりな気がする。流れていく春夏秋冬を気にしなくなったのはいつからだろうか。
十分ほど歩くと最寄りの駅まで着いた。券売機で切符を買って改札を通る。数年ばかりのブランクがあっても、電車の乗り方は変わらないらしい。
たいしてホームで待つこともなく、電車はすぐにやってきた。いくつか空席はあったが、あえてそこには座らずに吊革に捕まった俺は、中吊り広告に目を移す。書いてある日付は当然ながら2018年のものである。治療の最中の俺が、こうして広告などにふと目を移して、何かが妙なことに気づいたこともあったのかもしれない。
俺が病院を抜け出したのは、池里に会って話をするためだ。明日を待てば、池里はきっと見舞いに来てくれるのだろうが、二十四時間が過ぎるのをじっと待つというじれったい行動は取れそうになかった。
園曰く、池里は白金にある大学で説明会を受けた後、専洋大学まで戻って何やら書類を提出する予定らしい。だから俺は大学で待つことに決めた。電話などで連絡を取らなかったのは、池里に気を遣わせないためである。
電車を乗り継ぐこと三十分。巣鴨駅で降りた俺は、近くの牛丼屋で昼食を取り、そこから大学まで歩いて向かった。
十七号線をのんびり歩く。車の通りは相変わらず激しい。しばらく行くと、大通りから一本外れたところに、俺と園の行きつけである『しまうま』という喫茶店が見えた。きっと、池里も俺達と一緒にあの店に顔を出したことがあるだろう。
大学へ着いたのは午後の二時過ぎだった。池里が参加した説明会が終わるのは四時辺りだという。かなり時間はあるが、遅れて会えないよりはずっとマシだろう。
学生が大学へなにか書類を提出する際は、基本的に六号館にある窓口で行うことになっている。窓口の近くのベンチに陣取った俺は、池里が来るのを待ち始めた。気分は忠犬ハチ公だ。
今が春休みだからだろう、構内を歩く生徒をほとんど見かけない。窓口の向こうにいる職員がカタカタとパソコンを打つ音や、電話の呼び出し音ばかりが聞こえる中、まばらな足音や話し声がこちらに近づいてはすぐに遠のいていく。
やることもなくしばらく待っていると、必然的にうつらうつらとしてくる。時計を見れば、まだ三時にもなっていない。仕方がないのでひと眠りしようとベンチへ寝転がったら、職員がやって来て「こんなところで寝るな」と咎められた。「わかりました」と身体を起こした俺は、腕を組んで壁に背を預けて目をつぶり、難しいことを考える顔をして眠った。
意識と身体が離れていく最中、ふと思い浮かんでくるのは池里の顔だった。短い記憶の中で見た喜怒哀楽の表情が、切れかけの蛍光灯のように明滅している。
やがて、誰かが俺の肩を軽く叩いた。眼を開けてみると目の前にいたのは、ベージュのコートを着込み、ピンク色のマフラーを巻いた池里だ。どうやら、すっかり眠ってしまっていたらしい。
「こんなとこで寝て、風邪ひいちゃうよ」
「大丈夫だ。バカは風邪引かない」
「そういえばそうだね」とあっさり言った池里は、俺の横に腰掛けた。「わたしが起こしてなかったらどうするつもりだったの?」
「かなり困ってたな。お前に会うつもりだった」
「知ってる。説明会が早く終わったから病院に行ったら、園くんしか居なくって、話を聞いてここまで来たの」
池里はムスッと唇を尖らせる。
「わたしに会いたいなら、連絡してくれればよかったのに」
「そんなことしたらお前、変に気を遣うだろ。大事な説明会を受けてる途中に、他のこと考えさせるのもどうかと思ったんだよ」
「前からそうだよね、千晃って。ヘンなとこでカッコつけたがるんだから」
「カッコつけてるつもりはないからな。これが俺の普通だ」
「ハイハイ、そうでしたそうでした」
そう言って呆れたように笑った池里は、何を思ったのかふと黙ってしまった。斜め上へ視線を向けた嬉しそうなその横顔で、いったい何を考えているのだろうか。今の俺には何もわかりそうにない。〝八日前〟の俺ならきっと、わかってやれたのだろう。
「……なあ、池里――」
「ねえ、千晃。覚えてる? わたしたちが初めて会った時のこと」
こちらが話し出すのを待っていたかのように、池里が喋り始めた。「覚えてない」と俺が正直に言うと、「だよね」と自嘲気味に笑った池里はさらに続ける。
「本当に驚いたんだから。わたしが大学の食堂でパスタ食べてたらさ、あなたが近づいてきて突然、『クリスチャン•ウォーロックは好きですか?』って。誰にも言ったことの無いことを、初対面のはずのあなたは知ってた。びっくりしてわたし、思わず『はい』って答えちゃった。そしたら、『僕もです』って。信じられる? 『僕』だよ、あなたが。似合ってなさすぎて笑っちゃったよ、本当」
いま池里が話したことは、冗談でも妄想でもないのだろう。しかし、俺にとっては昨日見た夢の話をされているのと同じで、何一つとしてぴんとこない。空っぽの映画館にひとりで座り、名前も知らない古い映画を観ているように、無性に悲しい気分になった。
俺はある種の確信を持って、ひとつの質問を池里にぶつけた。
「……池里。俺達って、付き合ってたのか」
「過去形じゃなくて現在進行形だけど、それ以外は正解。愛する恋人に何か言うことは?」
「……今まで悪かった。迷惑ばっかりかけて」
本当ならその言葉の後に、「もう辞めにしてくれ」という言葉を続けようとしたのだが、喉が締まってどうしても声が出なかった。とんだ臆病者だ。
「そうじゃないでしょ。君のことが好きだとか、愛の力で全部思い出しましたとか、色々あるじゃない?」
「茶化すなよ。真面目な話だぞ」
「わたしだって真面目だよ」と池里はわざとらしくニッと歯を出してシーサーのような表情をした。あれで真面目なら、鼻をほじっていたって真面目な顔ということになる。
「ねえ、千晃。わたしのこと好き?」
「……人間的には好きだ」
「やっぱり、そうなっちゃうよねぇ。難しいなぁ」
池里は苦笑しながらわざとらしく頭を抱えた。
「千晃の記憶ってさ、わたしと出会う、ほんの八日前に戻っちゃってるの。それで、わたしとの〝初対面〟の直前になって、記憶が一週間前に遡るの。なんか、ある意味では運命的だよね」
「妙なタイムリープモノの映画みたいだな」
俺がそう答えると、池里は何かを思い出したのか楽しそうにひとりで笑う。
「タイムリープといえばさ、園くんってタイムリーパーなの。知ってた?」
「そんなわけあるかよ」
「ところが、そうなんだよね。見た目は普通の大学生。でもその正体は、一目惚れしたわたしを振り向かせるために、千晃を巻き込んでひたすらタイムリープを繰り返す迷惑者」
何を言っているのか一瞬わからなかったが、すぐにそういう〝設定〟で治療を行っていたのだろうということに気づいた。
「妙な話でっち上げたもんだな。俺は信じたのか?」
「全ッ然信じなかったね。でも、そうしなくちゃダメだった。だって千晃ったら、初対面と同じシチュエーションを作っても、わたしに話しかけてきてくれないし、わたしから声を掛けても警戒するしで、どうしようもないんだもん」
「仕方ないだろ。見ず知らずの女に話しかけたなんて、自分でも信じられないくらいなんだ」
「〝美人の〟って言葉が頭から抜けてるけど?」
「自分で言うかよ」
俺が呆れつつも笑っていると、池里は傍らに置いていたバッグから冊子を取り出し、「見て」と俺に手渡した。ぱらぱらとめくってみれば、大学院のパンフレットらしい。
「ここで何を勉強するつもりなんだ?」
「心理学。こういうこと勉強すれば、少しでも千晃の助けになれるかなって」
「……大学を卒業しても、俺のために人生使うのかよ」
「うん。使うつもり。だってわたしの人生だよ? どう使おうが勝手でしょ?」
俺は「バカか」と呟くしかなかった。自分のことを何も覚えていない男のことをこうまで気にかけるなんて、バカという他に表現できない。
「誰に似ちゃったんだろうね」とわざとらしく肩を落とした池里は、鼻から深く息を吐くと、「よいしょ―」と勢いをつけて立ち上がった。
「わたし、千晃には何がなんでもわたしのことを思い出して貰うつもりだから。それで、わたしがあなたにかけた時間を、百倍の利子付きで返して貰うつもりだから。だから気にしなくっても平気」
そう言うと池里はぎこちなく微笑み、それからすぐに背を向けた。
「病院、戻らないと駄目だよ」
その声が僅かに湿っているのに気づかないふりをした俺は、「ああ」とだけ答えた。
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