リープ18 オール・ユー・ニード・イズ・キル その6

 病院に戻る気にはなれず、かといって、今はアパートの鍵も持っていない。だから俺は埼玉にある実家まで向かった。


 大学から電車を乗り継いで一時間半余り。埼玉の狭山が丘というところに、俺の実家はある。茶ばかりが辛うじて有名なこと以外、どこにでもあるような何も無い町だ。


 自宅の最寄り駅で電車を降りると、澄んだ空気の中に微かな土の匂いがした。電車の音が離れていくのと同じ速度で、身体の奥から懐かしい気分が込み上げる。ここまで来るのは夏以来だから無理もない。実家までは駅からバスを使って十五分ほどだが、俺は歩いて帰ることにした。


 夜の街をひとりで行く。寂しい駅から離れて住宅街へ入ると、よりいっそう景色は寂しくなる。茶畑を眺めつつ、薄い灯りの照らす道をぼんやりと歩いていると、閑静というのには静かすぎる通りへ出た。空を見上げて星を眺めると、小さな光が瞬く音が聞こえるような気さえもした。


 実家まで辿り着いたのは、夜の八時を回ったころのことだった。扉を開けて「ただいま」というのもなんだか恥ずかしくて、なんとなくチャイムを押すと、父さんが出てきて「おう」と笑って手招いた。


「なんだ。チャイムなんか押して。ここが自分の家ってこともわからなくなったか?」


「どうだろうな」と返した俺は、招かれるまま玄関へと足を踏み入れた。


 久しぶりに帰ってきた実家は、ずいぶんと様相が変わっていた。リビングにあった古い座椅子は消え、見たことの無い黒革のソファーが鎮座している。脱衣所へ行けば洗濯機は乾燥機能付きのドラム式に進化しているし、キッチンにあった古い電子レンジは新しいものに取って代わり、皿が回らなくなっている。俺の感覚では数か月でも、実際には二年以上も経っているのだから、あちこち変化があるのも無理はない。


 家を一通り見て回った後でリビングに戻ると、父さんがカレーの鍋に火をかけていた。しかし、それを作ったであろう母さんの姿が見当たらない。買い物にでも行ったのかと訊ねると、父さんは「いんや」と首を横に振ってうんざりしたような顔をした。


「ついさっきまで、お前が入院してる病院から何度も何度も連絡があってうるさくってな。こっちは『息子は必ずウチに帰るから大丈夫だ』って言ってるのに、向こうが話を聞かないもんだから、母さん息巻いて病院に乗り込んでったよ。さっき連絡しといたから、そのうち帰ってくるだろ」


「……俺がここに帰るってわかってたのは、前にもこんなことがあったからか?」


「初めてのことだけど、わかるに決まってる。親子なんだから」


 そう言うと父さんはコンロのツマミを捻って火を止めた。


「腹減ったんだろ? 先に食べて待ってよう」


 俺達は骨付き鶏肉のカレーを食べながら母さんの帰りを待った。久々に親子で囲んだ食卓には、テレビから流れる意味の無い音しか聞こえない。話したいことや聞きたいことは山ほどあったが、言葉にするのが難しかったからだ。


 すると、父さんがふいに「真春ちゃんのことだけどな」ともごもご言い出した。


「あの子はいい子だぞ。結婚するなら、ああいう子を選ばにゃならん」


 突然の発言に俺はカレーを危うく吹き出しそうになり、思い切りむせ返った。何を言ってるんだ、この親父は。


 鼻の奥に入った米粒をティッシュに吹き出した後、俺はスプーンを皿に置いて父さんに向き合う。


「急になんだよ。というか、池里のこと知ってんのかよ」


「当たり前だ。お前が家まで連れてきたんだぞ」


「……まだ学生なのに、そんな浮かれたことやったのかよ、俺」


「まあ、母さんが『見せろ見せろ』って駄々こねて、半分無理やり連れて来させたようなもんだから安心しろ」


 なんて気の早い母親だ。というよりも、その言葉を受けて池里を家に連れてきた俺も俺である。断固として断るべきだっただろうに。


「俺と母さんは真春ちゃんを信じてる。下手したら、息子のお前よりもな。だからあのわけのわからん〝治療〟についてもあの子に任せたんだ。あの話を持ってきたのが園くんだけだったら、『馬鹿言うな』って追い返してるさ」


「……池里のこと、ずいぶん信用してるんだな」


「当たり前だろ。お前なんかにはもったいないくらい可愛いしな」


「大きなお世話だ」


 父さんはニヤリと歯を見せていやらしく笑う。歯の隙間に詰まる鶏肉の欠片を見て、俺はなんとなく嫌な予感を覚えた。


「覚えてるか? いや、覚えてないだろうな。お前、真春ちゃんを連れてきた日、俺にこう言ったんだぞ。『運命かもしれない』って。俺、悪いと思ったけど笑ったよ」


「笑うな。ていうか、いくら浮かれてたってそんなこと俺が言うわけないだろ」


「いいや言った。だから驚いたし笑った。でも、笑ったのはそれだけじゃなくて、真春ちゃんも母さんにこっそり同じことを言ってたってことだ。馬鹿なのか、ふたりとも」


 父さんは皿を手に持って、勢いよくスプーンを動かしてカレーを一気に口の中へと掻きこんだ。


「余計なこと話したらカレーがやけに甘くなった。まったく、ご馳走様」





 それから三十分もしないうちに母さんが家に帰ってきた。母さんは俺が勝手に病院を抜け出したことなんかよりも、父さんとふたりで勝手に夕食を食べたことに対して怒り、「信じらんない」と言ってふてくされた。俺と父さんは仕方なく、母さんと共にカレーをもう一杯食べることになった。


 食事の後。十二分目になった腹をさすりながら風呂へ入った俺は、湯船につかりながら先ほど父さんから受けた話を反すうした。そして、「運命かもしれない」と恥ずかしいことを口に出して言ってみてから、湯の中に頭の先まで沈めた。


 淡い初恋の経験は小学校の頃だった気がする。一目惚れの回数は、きっと数えきれないほどある。でも恐らく、そのどれもが本気じゃなかった。何せ、相手の顔も名前も覚えていない。本気だったら少しくらい覚えていてもいいだろう。


 そんな俺が「運命かもしれない」と言った相手が池里だった。そして池里もまた、俺のことを「運命かもしれない」と言った。


 なるほど、バカだ。大バカだ。どこのラブコメの主人公気取りだ。救いようのない恋煩いの重病患者だ。ふたりまとめて病院送りにするべきだ。


 そこで息が苦しくなって、俺は湯船から顔を出して思い切り息を吸い込んだ。顔が熱くなっているのは、風呂に浸かっているせいだけではない。


 高鳴る胸を深呼吸で落ち着けながら、俺は「でも」と思い直す。


 俺が――江波千晃が池里に惚れていたというのは間違いない事実だ。何一つ記憶は残っていないが、その思いはきっと本物だった。



 だから信じてみるのもいいだろう。



 バカになった、熱に浮かされた、周りがちっとも見えていない、恥ずかしいことを恥ずかしいとも思わない、若気の至りの極致に至った――とにかくどうしようもない自分を。

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