リープ18 オール・ユー・ニード・イズ・キル その4
室藤さんに少し遅れて、俺は病室をこっそり抜け出した。ただでさえおかしなことになっているこの頭が、あの医者と話すことにより、よりおかしくなるのを避けるためである。
廊下を歩くうち、この病院に中庭があることを知ったので、俺は試しにそこへ行ってみた。曇った窓から庭を覗いてみれば、人工芝が一面に張られており、軽い運動が出来るようになっている。ベンチもあるため日を浴びるにはうってつけだが、昨日まで降っていた雪がまだ積もっているためか、利用者は誰もいなかった。
靴に履き替え、引き戸を開けて中庭へ出た俺は、ベンチに積もった雪を退けてそこに座った。肌がぎゅっと引き締まるほどに空気は冷たいが、温い暖房の空気に慣れた身体にはこれくらいが却ってちょうどいい。
風に髪を撫でられるたびに頭が明瞭になっていく。同時に、ある疑問が浮かんでくる。
あの、退院が四月になるという話はなんだったのか。園は一週間後には検査が終わり、退院できると言っていた。室藤さんか園か、どちらの言うことが正しいのだろうかと考えた時、室藤さんが勘違いしているだけだろうとすぐに結論付けてしまうのは、あの人の纏う空気がそうさせるのだろう。
そんなことを考えているところへ、「おぅい」と声を掛けられた。見れば、園と池里が中庭にやってきたところだ。俺は手を振り返して、「こっち来いよ」とふたりを呼んだ。
「寒いじゃないか。中で話そうよ」
「暖房にばっかり当たってると、その身体が余計に貧弱になるぞ」
俺の言葉を受けて、園は渋々中庭に出てきた。池里も笑いながらそれに続いた。
ベンチの雪を掃いながら「病室に行ってもいないんだもん。探したよ」と池里は言った。
「悪いな。変な医者から逃げてたんだ」
「変な医者ってモンジロー先生のこと? 確かに変だけど、立派な教授だよ」
「いや、そのモンジロー先生って人は、インフルエンザと肺炎だかでダウン中らしい。来たのは、室藤とかいうモンジロー先生の後輩だよ。知ってるか?」
ふたりは俺を挟むように腰掛けながら「知らない」と言って首を横に振る。俺は「知らない方がいいぞ」と言ってさらに続けた。
「その医者、ずいぶん適当でな。モンジロー先生ときちんと話してないのか、俺の入院日程すら把握してなかった。一週間のはずが、4月まで入院だとよ」
半ば笑いながら俺はそう言ったのだが、池里達から返事はなく、俺達の会話に妙な間が空く。なんだか少し不安になって、「どうした?」と訊ねたその時のこと、「いやいやいやいや」と聞きたくもない声が聞こえてきた。
中庭にやって来たのは室藤さんである。ひょこひょこと跳ねるような歩き方でこちらへ来た彼は、額を拭いつつ安堵の息を吐いた。
「探したよ、江波くん。あれ、その人達はお友達? いいねえ、友達。ほら、僕ってあんまり喋らないタイプだから、人から誤解されることが多くってさ。そのせいか昔からあんまり友達いなくて、って、突然の告白。された方は困るやつ。でも、言った方は楽になるやつ。まあ、友達なんていなくっても生きていけるし、平気なんだけどさ。でもほら、休みの日はやっぱり寂しいよね。ひとりで映画なんてのはまだしも、ひとりで焼き肉とか、目も当てられない。あ、もしこの中にひとり焼き肉大好きな人がいたらゴメン。でも、僕もひとり焼き肉大好きだから、ノーカンってことでヨロシク」
俺は「また問診ですか」と言って会話の流れを丸ごと断ち切る。ひとり焼き肉云々の話になんて構っていられない。この人と喋る場合は、少々雑に扱うくらいでなければこちらが疲れるだけだと、既に学習済みだ。
「ああ、いや、違うんだ。ジロー先生から連絡があって、僕は診察やらないでいいって。って、軽くショック。ある種の戦力外通告的な。まあ、力不足ってことで仕方なし。で、用事なんだけど、さっきのは僕の間違い。だから忘れて欲しいな、っていうのを伝えに来てね」
「なんですかその、〝さっきの〟っていうのは」
「ほら、あれだよ。入院の期間のこと。4月まで入院って話したでしょ。あれ、一週間の間違い。ていうか、勘違い。来週には文句なしの退院。だから来週は好きな映画でも観て過ごして、って、大きなお世話?」
自分が言いたいことを言うだけ言った室藤さんは、「じゃ」と軽く手を挙げて、またひょこひょことした歩き方で元来た道を戻っていく。が、道中何かを思い出したのか、再びこちらへやって来て、真面目な顔で俺達を見回した。
「それと、さっき僕が話したことはここだけの秘密ってことで。じゃないと僕、怒られちゃうかも」
「〝かも〟って、まだ怒られてないんですか」
「うんギリギリセーフ。でも、池里って人に知られたらマズイって。どんな人かは知らないけど、怒らせると相当コワイってウワサ。ってことで、僕は怒られたくないから、この件は改めて秘密でヨロシク」
ひょこひょこと歩く室藤さんの背中は既に視界に入っていなかった。俺の目に映るのは、苦しそうな表情で奥歯を噛む池里だけだ。
池里はきっと、俺に何を訊ねられるのかをきっとわかっている。それで、自分がその質問に答えない限り、俺は何度も同じことを訊ねるだろうときっとわかっている。
だから池里は、まだ口に出していない俺の質問へ先に答えた。
「……千晃がここにいるのは検査のためじゃない。とある治療のためなの」
〇
同じ一週間をひたすら繰り返す俺を見て、園と池里のふたりは自分達にも何か出来ることがあるんじゃないかと考えた。なにか治療方法があるのではないかと、似たような症例を探したり、様々な医者のところへ話を聞きに行ったりした。
そんなふたりに接触したのが、例のモンジローこと斎藤次郎という脳神経科学を研究する教授だった。
「遠隔記憶を一部失う逆向性健忘と、近似記憶が一定以上蓄積すると、まるでバケツの底に穴が空いたようにその蓄積された記憶が消える、特殊前向性健忘の併発――〝トニ・エクスト症候群〟。非常に珍しい症例で、基本的には一生付き合っていかなければいけないものだけど、完治に至った例が一件だけある。その患者の友人達は、患者が失った当時の記憶を再現して体験させた。するとどうだい。驚くことに、その患者は徐々に快方に向かっていったんだ。その治療法が正しいのかどうかはわからないけど、まだ希望はある」
ふたりは斎藤先生の言葉を信じ、彼と共にある治療を始めた。繰り返す一週間を使って、俺に過去の記憶を追体験させようとしたのだ。当然、俺はそれを断ったという。「そんな厄介なことやらせられるか」と、治療を頑なに拒んだらしい。
だからふたりは強引な手段を取った。俺に、俺の病気について何も知らせないまま、治療を始めたのだ。
一週間が始まるたびに、俺はふたりに連れられて、覚えていない自分の思い出を巡った。2015年の5月30日からの一週間をひたすら過ごした。
しかしそんな小細工も、冬だけはどうしても通用しない。五月にこれだけ寒い日が続くわけがない。五月に雪が降るわけない。治療を始める前に、それが治療だとわかってしまう。
だから俺は今、こんなところにいる。
四月まで待って――また俺を騙せるような季節まで待って――〝治療〟を再開するために。
〇
池里の口から短い話がゆっくりと語られた。俺はどんな顔をして、なんと言えばいいのかわからなくなって、落ちた雪を見つめたまま黙ってしまった。池里も黙った。代わりに口を開いたのは園だ。
「江波。君の気持ちはよくわかる。でも、僕達だって悪意があってやったわけじゃない。治療について君に伝えなかったのは、混乱を避けるためなんだ。決して騙そうなんて考えてない」
「お前がそんなあくどいことするような奴じゃないってことはわかってる。でも、俺の同意も無しにこんな治療始めたのかよ」
「いや、君は賛成してくれた。その……覚えていないかもしれないけど」
そう言うと園はポケットからスマートフォンを取り出し、その画面を俺に向けた。ベッドの端に座った俺が、カメラに向かって照れ臭そうに喋っている映像が流れていた。
『よお、俺。えーっと……あれだ。信じてないんだろ? 今の自分の状況とか、とんでもない方法で治療されてることとか。でも、全部本当だし、全部俺が……つまりお前が同意したことだ。シュワルツェネッガーの『トータルリコール』じゃ、過去の自分の言うことを信じなかった結果、悪の親玉を倒して終わったけど、今回は別だ。お前は俺で、俺はお前だ。俺の言うことを信じろ。しっかりやり切れ。わがまま言って、ふたりに迷惑かけるなよ』
映像を止めた園はスマートフォンをポケットにしまった。俺は何も考えたくなくて、自分の口から出ては消える白い息をただ見つめていた。
俺の唇は勝手に言葉を紡いでいた。
「……ふたりとも、今日は帰ってくれ」
「待ってよ。せめてもう少しだけ弁明の時間を――」
「いや、必要ない。ただ、色々混乱してる。ひとりで考える時間が欲しいんだよ」
俺の言葉を険しい表情で受け止めた園は、無理やり自分を納得させるようにゆっくりと頷いてベンチを立った。ひとりで残った池里はじっと俺を見ていたが、俺に何も喋る気が無いということを悟ってくれたのか、しばらく遅れて園の後をついて行った。
また来てくれとは、言えなかった。
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