リープ47 時をかける少女 その4

 待ち合わせ場所に指定されたのは、午後三時の駒込駅前だ。こんな時間帯のせいか辺りを行き交う人は少ない。日の当たるところにいると、じりじりと頭が焼けるようである。


「暑すぎんだろまったく」などとぼやいていると、遠くからは一足先に地上に出てきたらしい蝉の声すら聞こえてくるではないか。地球温暖化とやらのせいか、年々蝉の聞こえる時期が早まっている気がしないでもない。冬になった時に、〝デイ・アフター・トゥモロー〟みたいなことにならないのを祈るばかりだ。


 改札を出ると、正面のコンビニからアイスコーヒーを片手に出てきた池里とばったり遭遇した。肩を出した白いブラウスを着こなし、片手には扇子、頭にはつばが広い帽子と、見るに涼しい一足早い夏仕様の服装である。園も北野も連れていないところを見るに、どうやら俺が二番手らしい。


 俺は「おう」と挨拶しつつ、首筋に垂れる汗を手の甲で拭う。


「暑いなまったく。考えられん」


「まあ、しばらくは我慢だね」と池里はアイスコーヒーのストローを咥える。「今日行くところの名前。六義園、だっけ? 江波くんは行ったことある?」


「いや、初めてだ。正直、名前を聞くのも初めてだった。池里はどうなんだ?」


「同じく。しかしなんだろうね。白鯨の監督さんは、時代劇でも撮るつもりなのかな?」


「そういう場所なのか?」


「聞いた話だとね。江波くんは時代劇好き?」


「好きだぞ。『十三人の刺客』とか」


「時代劇映画、それしか見たことないでしょ」


「バカ言うな。『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』だって観たことあるぞ」


 俺がそう答えると、池里は「それって時代劇に含めていいの?」と笑った。「『キル・ビル』だって時代劇だろ」と俺が続けると、池里は「やめてよ」と言ってなお笑う。


 なるほど。園が池里に惚れた理由がようやくわかった。ここまで爽快に笑える女を好きにならない理由なんて無い。


 池里の笑いの潮が引いたころ、園と北野がふたり揃ってやって来た。「そこでたまたま会ってね」なんて言う園は、池里の誤解を恐れたのだろう。まったく要らぬ心配である。


「早すぎたスか?」なんてふざけて言う北野へ、「もっと遅くてもよかったのに」なんて冗談で返した池里は、目尻を拭って歩き出した。


 国道沿いの広い通りを行くと、背の高いビルが建つ街中には似合わない、古い煉瓦の塀が見えてくる。その向こうでは緑の葉をつけた木々がこちらを見下ろし、大きな影を作っている。どうやらここが六義園らしい。先ほど聞こえた蝉の声も、きっとこの中からだろう。


 塀沿いを五分ほど行き、正門まで周ってそこから園内に入った。ここまで来ると、辺りを木陰が覆っていて涼しい。受付から漂ってくる線香の香りと汗ばんだ頬を撫でる風に、俺は田舎の景色を思い出した。


 入園してすぐのところにあるベンチへ俺達を座らせた園は、真面目ぶった調子で「さて、いいかい」なんて言ってサングラスのブリッジを小指で押し上げた。


「今日集まって貰った理由は他でもない。我らが『白鯨』のロケハンに協力して貰うためだ。……と言っても、別に難しいことをするわけじゃないから安心してよ。どんな場所なのかを一緒に見て、たまに写真撮影に協力して貰うだけだからさ」


「そんなことよりも園サン、あの話は本当なんスよね?」


「……わかってる。これが終わったら僕の奢りで焼き肉だ」


「よっしゃ!」と北野はガッツポーズして、池里も「やる気出てきた」とこれに続いた。


「じゃあ、暑いし適当に行ってさっさと済ませましょうか」と言って立ち上がった池里は、扇子で自分の顔を扇ぎながら歩き出す。すぐに北野がその後を追って横に並び、俺と園はふたりの後姿を見ながら歩く形となった。


 俺の見立てによると池里は、俺に対して恋愛感情のようなものは何一つとして抱いていない。今の関係性はせいぜい〝気の合う友人〟くらいのもので、そして恐らくそれはこれからも変わらないだろう。


 だから園が抱いている不安は言わば、「ターミネーターに襲われたらどうしよう」と心配するのと同じようにまったくの杞憂なのだが、言ったところでどうせ聞きやしない。園の気の済むまで付き合うしか、対処法はないのである。


「江波、わかってるんだろうね。これはデートなんだよ」と園は俺に耳打ちする。


「言われないでもわかってる。でも、向こうはそう思ってない。だから、ふたりで並んで歩こうとすれば怪しまれる。だろ?」


「確かにそうだ。でも大丈夫。君達をふたりきりにするプランは用意してある」


「信用出来そうにないな、それ」


「舐めて貰っちゃ困るよ。昨日は徹夜で恋愛指南の本を三冊読んだんだ。今の僕はヒュー・グラントやトム・クルーズ顔負けのモテ男さ」


 やはり信用出来そうにないなと、俺は再確認した。





 白石の砂利が敷かれた道を行った俺達は、小さな門をくぐって庭に出た。短く刈られた芝や松の木のさらに向こうには、正面には深緑色の大きな池と、そこに浮かぶ緑豊かなふたつの島が見える。島へと繋がる短い橋も架かっており、どうやら向こうまで渡れるらしい。しかし中々の見栄えだ。白鯨の監督がどういう映画を撮るのかは知らないが、ここならいい画になるに違いない。


 遊歩道を歩きながら辺りの写真を撮る園は、池里達の動向を気にしつつ俺に語った。


「実は、池里さんは虫があまり得意じゃなくってね。この六義園は自然豊かだから、ちょっと奥のほうまで行けば、カナブンだとか蜂だとか、そういうのがウジャウジャいる。でも、あいにく僕達はロケハンに来たわけだから、そういうところへも行かなくちゃいけない。そこで君の出番ってわけ。君は虫を嫌がる池里さんを連れて、虫のいない方へ行ってもらう。僕と北野が虫のいるようなところでロケハンを行う。ほら、ふたりきりのシチュエーションの完成だ」


「そりゃ名案だけど、そうなるとお前が池里の気持ちを見極める、なんてことは出来なくなるんじゃないのか」


「折を見て北野を撒いて、遠くからこっそり見守るから安心してよ」


 そう言って園はぺらぺらの胸板をむんと張った。俺達をふたりきりにするよりも、自分が池里とふたりきりになればいいのではないかと思ったが、無駄なので言わないことにした。


 俺達の先を行く池里と北野は、池の中央にある島を眺めながら、のんびりと順路を進んでいく。池を右手に観ながらしばらく歩いていくと、やがて園内にある『滝見茶屋』という場所に着いた。茶屋というのは名ばかりで、ただのあばら家とベンチがあるだけである。


「ちょっと休憩していかないスか」と言い出した北野が、俺達の返事を待たずにベンチへ座る。「賛成」とそれに続いた池里は、気怠そうに扇子をぱたぱたと扇ぎ始めた。園はベンチには座らず、緊張したような面持ちでふたりの様子を観察している。


 清楚系美少女と、自称タイムリーパーと、謎の金髪ギャル。


 この状況がなんだか猛烈にバカらしくなって、俺は三人と少し距離を取ることにした。


 瀧見茶屋の周囲には水が流れている。深緑色の池とは違い、底まで見えるような済んだ水だ。流れの中にある飛び石を踏んで向こう岸まで渡った俺は、ちろちろと流れる水の音に耳を澄ませた。


 つい最近は銃声だとか怒声だとか、爆音だとか悲鳴だとか、骨の折れる音だとかチェーンソーが回転して肉を切る音だとか。そういう物騒な音ばかりスピーカーから聞いていたものだから、こうやって作られていない自然の音を聞くのは、なんだかずいぶん久しぶりな気がする。まったく心地よい気分だ。


 緩やかに流れる時間を楽しんでいると、茶屋の方から「なに黄昏てるのよ」とからかうような池里の声が飛んできた。見れば、飛び石へと軽やかに足を伸ばしてこちらへ向かってくる最中である。


「たまには自然の音も聞かないといけないからな」


「そんなガラじゃないくせにさ」


「大きなお世話だ」と俺が答えた、その時のことである。


「わひゃあ!」という園の大きな叫び声が辺りに響いて木の間を抜けていった。声に釣られて「どうしたのよ」と振り返った池里は、あろうことか「ひぇ」と小さく悲鳴を上げて腰を抜かし――そのまま流れる水の中へと、背中から豪快に飛び込んだ。


 水しぶきが辺りに跳ねる。幸いなことに水深は膝にも届かない程度で、池里は全身ずぶぬれになりながらもすぐに水から上がってきたが、表情はいきなり動物病院に連れて来られた柴犬の如く放心状態である。まだ自分に何が起きたのかわかっていないらしい。


 俺は慌てて池里に近づき、持っていたハンカチを渡そうとしたが、肌に貼りつくブラウスを目にしてその役目を北野に譲り、何故か尻もちをついている園の方へと駆け寄った。


「おい、園。どうしたってんだ」と言って俺は園に手を伸ばす。顔を青白くした園は、「蛇がいたんだよぉ」と力なく言いながら俺の手を掴み、よろよろと立ち上がった。


「蛇くらいでなんだ。情けない」


「そ、それより、行かないと」


「行くって、どこに」


「池里さんの着替えを探しにだよ。あのままにしちゃかわいそうだ」


 そう言うと園は六義園の出口に向かって、腰が砕けた状態のままふらふらと駆けだした。その姿を見た北野が、「園サンはどうしたんスか?」と訊ねてきたので、着替えを探しに向かったという旨を伝えると、北野は「サイズがわかんなくちゃどうしようもないでしょうに」と面倒くさそうに言って園の後を追う。


 残された俺に歩み寄ってきたのは池里だ。池里はたいして参っていない様子で「参ったねこりゃ」なんて言って笑っているが、俺の方はそういうわけにもいかない。髪の毛からつま先まで濡れた奴と一緒に残されても、目のやり場に困る。


「顔に向かって虫が飛んで来たのよ。ああいうのって苦手なのよね」


 水に落ちた恥ずかしさを誤魔化すためなのか、池里は聞かれてもいないことを勝手に喋り、自虐的に笑いながらベンチに腰掛ける。「そうかよ」と返した俺は少し距離を取ろうとしたが、「濡れたヤツがベンチにひとりで座ってたら変じゃない」ともっともなことを言われてしまい、仕方なく池里の隣に腰掛けて、明後日の方向に視線を向けた。


 すると池里はそんな俺がよほど面白いのか、こちらを見てくすくすと笑う。


「もしかして江波くん、恥ずかしがってるの?」


「当たり前だろ。そんな恰好してる奴が隣にいて恥ずかしくないわけあるか」


「わたしだって好きでこんな恰好してるわけじゃないわよ。それに大丈夫。別に見られて減るものじゃないし」


「バカ言え。羞恥心ってものが無いのか、お前には」


「そっちこそバカ言いなさい。あるに決まってるじゃない」


「そうかよ。俺の眼なんて気にならないってことか?」


「ま、そういうことになるのかな」


 その時、どこからともなくリンという涼しげな鈴の音が聞こえてきた。音の聞こえてきた方を見れば、上品な紫色の和服を着た背の高い女がこちらに歩いてきている。頭には笠、背中に背負うのは籠と、なんだかずいぶん時代錯誤な女だ。外国人受けを狙っているのだろうか。


 俺達の前で足を止めた女は、「どうやら困っているようだな」と男勝りな言葉遣いで言った。被っている笠が影を作って、どんな顔をしているのかはわからなかった。


「ええ、見ての通り濡れてしまって」と池里は答える。


「なるほど。それなら、私が着るものを貸してあげよう」


「いいんですか?」と池里が答えたのと、俺が「やめとけ」と言ったのはほとんど同時である。


「なんでよ。いいじゃないの、別に。貸してくれるって言ってるんだから。わたしだってこんな恰好してるの嫌だもん」


「バカ野郎。こんないかにも怪しいヤツから服借りるなんて、何かあったらどうするんだよ」


「安心しろ。見ての通り、私は流れの貸衣装屋でね。この辺りは外人の観光客が多いから、いつもは商売になるんだが、今日はどうにも駄目だ。もう諦めて帰ろうと思ったのだが、そこで濡れている君に出会った。私はただの商機と思って君達に近づいただけ。それ以上でもそれ以下でもない」


 流れの貸衣装屋というのが何なのかわからないが、商売のためというのなら、むしろただの親切よりも安心できる。「大丈夫そうだな」と俺が言うと、池里は「だから言ったでしょ」と答え、既に歩き出している貸衣装屋の女の後を追って歩いた。


 こうなると、着替えを用意する必要もない。俺は着替えを探しに行った園を呼び戻すためにスマートフォンを取り出して電話を掛けたが、無機質なコール音が虚しく響くばかりで通話が繋がることはなかった。

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