リープ3 バタフライ・エフェクト その7
翌日。待ち合わせ場所に指定されたのは、夕方五時半の池袋駅東口である。西日が街を染めていくのに反比例して、街を行き交う人の数は多くなる。この街はまだまだこれからが長い。
約束の時間の十分前に到着すると、池里が腕時計をちらちらと確認しながら柱に寄りかかり待っているのが見えた。今日は黒縁の伊達眼鏡を掛けており、いつもと比べて漂う雰囲気がなんとなく違っている。
周囲を見回しても園の姿は見当たらない。待ち合わせの時はたいてい一番に来る男なのに、こんな大事な時に限って遅刻らしい。
ひとりで待たせても申し訳ないため、近づいて「おう」と声を掛けると、こちらを振り向いた池里は「女性を待たせるのはマナー違反ではなくて?」とおどけた調子で言って俺の肩を小突いた。
「池里が早すぎるんだ。俺達を待たせるくらいでよかったってのに」
「だって楽しみだったんだもん。友達と映画に行くなんて初めてでさ」
「大和撫子もラクじゃないってか?」
「まぁね」と池里は息を吐いてうなだれる。
「『エクスペンダブルズ3』を観たいから一緒に行こう、だなんて、イケメンが出てるだけで満足する映画が大好きな女の子達相手に言えるわけないでしょ?」
「そりゃそうだ。でも、俺達だってマッチョな俳優が出てるだけで満足するんだから似たようなもんだろ?」
「まあ、言えてる」と池里は言って笑う。釣られて俺も笑った。
「それにしても、一週間前はこうなるって思ってなかった、本当に」
「こうなるっていうのは?」
「こうやって、同じ映画を観るために集まって、他愛も無い話で笑いあうってこと。江波くん、初めて私に会った時は敵意剥き出しだったから」
「別に敵意があったってわけじゃない」
「じゃあなに? 恥ずかしかった?」
「……まあ、そんなとこだ」
「なにそれ。初対面の相手にウォーロックの話をするのは恥ずかしくなかったの?」
「バカ言え。恥ずかしかった。でも、聞かずにはいられないだろ。あんなもの使ってるところ見たら」
「まあね。わたしがあなたの立場でも、話しかけてたかも」
「だろ? でも、俺がお前ならパスタをひっくり返して逃げてたと思うけどな」
「呆気に取られちゃってなにも出来なかっただけ。本当だったら逃げてたよ?」
「じゃあ、あの時の池里に感謝だ。お前が声を上げて逃げなかったおかげで、今日の俺はウォーロックを楽しめるんだからな」
「わたしとじゃないと観に行きたくないってこと?」
「いや、お前が声を上げて逃げてたら、俺は警察の世話になって、今頃映画どころじゃなかったかもしれないってことだ」
俺がふざけてそう言うと、池里は「なにそれ」と言ってけらけらと笑った。こうやって裏表なく笑う奴の方が、〝清楚系美少女〟なんかよりもずっといい。
約束の時間から十分ほど遅れたころ、園がようやくやって来た。曰く、「トイレに寄っていた」とのことだ。大方、緊張で腹でも下したのだろう。「ごめんごめん」と何度も頭を下げる園へ、目尻を拭いながら「遅いよ」と言った池里は、俺達に先行して歩き出した。それを追って俺と園は歩き出したが、道中、園はひと言も喋らなかった。園の横顔からは、何を考えているのか読み取れなかった。
新文芸坐に着いた俺達は、通路のベンチに腰掛けて開場の時を待った。
これから上映される一本目の映画は、クリスチャン・ウォーロック主演の『プロジェクト・ブレイド』という、三十年ほど前に公開された作品である。サムライ・ヤクザ・ニンジャが率いる三つの組織が争いを繰り広げるトンデモ日本な世界観の中、〝ローニン〟と呼ばれる主人公が、愛する〝ゲイシャ〟のために押し寄せる敵を斬って斬って斬りまくる映画で、その突き抜けた荒唐無稽加減がマニアの心を捉えて離さない。
二本目に待つのはこれまたウォーロックで、しかもなんと、つい一昨日ブルーレイが発売されたばかりの『クロスXレンジ・チャプター2』である。なんだかんだと最近忙しく、ブルーレイを買う暇すらなかったので、大きなスクリーンで観ることが出来るのはありがたい。惜しいのは、この後の園の動向が気がかりで、本腰を入れて映画を楽しむことが出来ないという点である。
しばらく三人で雑談を交わしていると、池里がポップコーンを買いにベンチを立った。俺は列に並ぶ池里の背中を横目に見ていると、園は「どう?」と俺に耳打ちする。
「彼女の思いがわかったかい?」
「ああ。お前が考えすぎってことがよくわかった」
「なんでわからないかな。あれだけ彼女の瞳はあんなにキラキラと光っているのに」
「……お前な、あいつを振り向かせたいのか、俺とくっつけたいのか、どっちなんだよ」
「別に僕は彼女と君をどうこうしようなんて思ってないよ。ただ、彼女の本当の幸せを願っているだけ」
「俺が池里とどうにかなるのが、あいつにとっての幸せか?」
「そうは言わないよ。でも――」
その時、園がふいに言葉を切ったのは、俺達の前に誰かが立ったことに気づいたからである。そちらに視線を向けてみると、そこにいたのはジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』のTシャツを着る筋肉質の男だった。プロレスラーかアメフト選手のように身体が分厚い。目深に帽子を被っているため詳しくはわからないが、外国人か何かだろうか。
「おう。声が聞こえてもしかしたらと思ったら、やっぱり園か」
どうやらこの男は園の知り合いらしい。口角を無理やりぐいと上げたような、少し暑苦しい筋肉漢的微笑みを浮かべつつ、男は俺にも「どうも」と挨拶した。
俺は「どうも」と挨拶を返したが、肝心の園は男のことを覚えていないのか、口を半分開けてまま目を白黒させているばかりだ。そんな園を見た男は、「覚えてないのか」と豪快に笑い、園の肩をばしばしと叩いた。
「この前、小津監督の『ライリーに捧ぐ』の撮影の時に一緒だったじゃないかよ。俺だよ、俺」
園は「ああ、あの時の」と調子を合わせて気まずそうに微笑む。その横顔を見ただけで、園が男のことを忘れていたわけではなく、忘れたフリをしていただけということ。そして、園はこの男を苦手としているであろうことに気づいた。
しかし男の方はよほど察しが悪いらしく、「いやまさかこんなところで会うとはな」なんて気安げに園へ話しかけている。こうなると園が哀れだ。助けるつもりで幾度と会話に割り込もうとしたのだが、知らない名前が出てくる話ばかりしているために迂闊には斬り込めない。
そのうちにポップコーンを買って戻ってきた池里が、一方的に園へ話しかける男を見て、俺にこっそり「この人誰?」と耳打ちした。
「いや、俺もわからん。園の知り合いらしいけど、見りゃわかる通り、園はあの人が苦手だ」
「なにそれ。助けないとじゃん」
「そう思ったんだけど、なかなか会話にも入れなくてな」
「大丈夫だよ。どんな人かはわからないけど、さすがに映画が始まれば、隣にまでは座ってこないでしょ」
そう言って軽くウインクした池里は、「そろそろ映画が始まるねぇ」とわざとらしく大きな声を上げて男の注意を引いた。
これはいい助け舟だ――と思っていたのも束の間、男は「よしそれなら俺がアクションのイロハを教えてやろう」なんてひとりで納得したように言って園の手を引っ張り、開場が始まった劇場の中へと消えていった。
ふたりの背中が見えなくなってから、「やっちゃったね」と言って笑った池里は、整った前歯でポップコーンをかじった。
〇
園が消えたからといって映画を観る予定に変わりはない。ふたりに遅れて劇場へと入った俺達は、最前列の席を選んで座った。ちらりと後ろを向いてみれば、偉そうに講釈を垂れる筋肉ダルマの横で窮屈そうに座る園が、最後尾に近い席でこちらに小さく手を振っている。
園もあんな状況であれば、上映後に池里が云々とは言い出さないだろう。となれば、今日は映画に集中出来る。ウォーロックの雄姿に集中出来る。園には申し訳ないが、怪我の功名とはこのことだ。
予告編がいくつか流れ、カメラ頭の映画泥棒が踊り始めた辺りで、池里は「ねえ」と呟いた。
「わたし、六日前にもここに来てウォーロックを観てたんだ」
「そうなのか」とすっとぼけた俺は、六日前と同じように横目で池里を眺めてみる。
僅かに潤んだ大きな瞳が、スクリーンからの光とウォーロックへの期待で輝いていた。
〇
端的に言えば、『クロスXレンジ・チャプター2』の出来は最悪だった。
ウォーロックの演技があまり良くないというのは百も承知だ。脚本がマズイというのだって百も承知だ。金がかかってなさそうだとか、全盛期に比べて明らかにアクションの質が落ちたとか、アサイラム製のサメ映画とどっこいどっこいだとか、そういうことだって全部まとめて百も承知だ。
しかし、今回の『クロスXレンジ・チャプター2』の出来だけは許せない。あの超名作である『クロスXレンジ』の名前を冠した作品なのに、アクションがほとんど無いどころか、そもそもウォーロックの出演時間もかなり短い。というよりも、ほとんど無いと言ってもいい。こんなものを劇場で上映することは最悪の奇跡だ。詐欺だ。訴えれば負ける要素のない案件だ。
あんな作品にウォーロックが出演していたとは信じられない。信じたくない。晩年の彼が自らの体力の衰えを嘆いていたことは有名だ。しかし俺は、そのままのウォーロックが観られればそれでよかった。あんな風に、顔見せ程度の出演でお茶を濁して欲しくはなかった。
その日、俺は人生で初めて悔し泣きというものを経験した。
上映終了直後、心に大挙した悲しさと虚しさにどうしようもなくなった俺は、何も言えないまま席を立った。隣に座っていた池里も、何も言わずについて来た。こいつもウォーロックファンならば、俺と思いは同じだろう。
無心で駅まで歩き、無心で改札を抜け、無心でホームに立ち、無心で来た電車に乗り込み、無心で揺られ、無心で電車を降りて、無心で改札を出る。その間、脳に入って来る音も映像も、全てが無意味だった。
池里が「ねえ」と声を掛けてきたのは、巣鴨の駅の改札を出た辺りのことだった。
「本当に最悪だったね、あの映画。あり得ない」
「最悪なんてもんじゃない。存在していい映画じゃない、あんなの」
「だね」と深く頷いた池里は、失望のため息を吐いた。
「……ねえ、江波くん。もしよかったら、ウチで別のウォーロック映画でも観て、気を紛らわさない?」
「いや、遠慮しておく。今日は何にも考えずに寝たい気分なんだ」
「……そうだよね。実はわたしも」
そう言ってまたため息を吐いた池里は、「じゃあここでね」と手を振った。
「また明日。今日の映画の愚痴はその時にゆっくりね」
「だな」と言って手を振り返し、俺は池里の背中を見送ってから自宅のアパートまで帰った。
アパートへ戻った俺は、靴を脱ぐついでに身につけていた全てを脱ぎ捨てた。それからすぐに替えの下着を履いて、寝巻き代わりに使っているジャージに着替え、そのまま布団に倒れこんだ。
枕に顔を埋める俺は、布団を拳で繰り返し叩いた。そして、叶うはずのない願いを心中で唱え続けた。
園が本当にタイムリーパーでありますように。そして、出来ることなら時間を巻き戻して、俺の頭から『クロスXレンジ・チャプター2』の記憶を丸ごと消してくれますように。
不毛な時間を過ごしているうちに、だんだんと眠くなってきて、俺は意識を失った。
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