リープ2 恋はデジャ・ブ その1

 その日。俺は専洋大学に通う学友、園敦に呼ばれて大学の近くにある喫茶店『しまうま』へ来ていた。薄雲を突き抜けた太陽の光が窓から差し込み、僅かに舞う埃を照らしている。朝十時を過ぎた喫茶店には、少し遅めのモーニング目当ての客が数人いるばかりだ。俺を呼びだしたはずの園の姿は未だ無い。


 あの男が約束に遅れてくるなんて珍しいこともあるもんだと思いつつ、ホットコーヒーをすすっていると、もっと珍しい――というより、奇妙なことが起きた。対面の席に見知らぬ女が突然腰掛けてきたのだ。


 そいつは「どうもどうも」なんて少しも悪びれた様子も無く言って、両手で頬杖を突き、何かを確かめるような笑みを浮かべながらじっと俺を見る。俺が何も言えなかったのは、唖然としていたというのももちろんあるが、そいつがぎょっとしてしまうほどの美人だったからだろう。


 腰まで届く長い黒髪。眠たげで色気のある目元。薄い唇。細い肩。


 乾く喉を潤すためにホットコーヒーを一口飲んだ俺は、「何か用ですか」と牽制を入れた。


「用も用。大変な用事だよ」と軽い調子で言った女は、歩み寄ってきた店員にアイスカフェオレを注文し、それから俺の方へ向き直した。


「君は江波千晃くん。専洋大学に通う二年生。実家は狭山ヶ丘にあって、今はこの辺りのアパートに住んでる。映画が大好き。クリスチャン・ウォーロックが大好き。『クロスXレンジ』がオールタイムベスト。ここまでは合ってる?」


 背中に冷たいものが走ったような気がした。出会ったこともない女に自分のことをここまで言い当てられるなんて、恐怖以外の何物でもない。


 もしかしたら園が一枚噛んでいて、俺を驚かせようとしているのではないかと思い、ゆっくり周囲を見渡してみたが、女の方に「園くんは関係ないよ」と先制して言われしまいどうしようもなくなった。


「それに、園くんは今日ここには来ない。あなたを呼び出したのはわたしだから」


「……お前、何者だよ」


「池里真春。真の春と書いて真春。実はわたし、タイムリーパーなの」


 なんの恥ずかしげもなく〝タイムリーパー宣言〟とは。こうなると、いよいよ恐ろしい。もしかすると精神病院か何かから逃げ出してきた患者ではないだろうか。コーヒーをひっくり返して逃げてしまえば話は簡単だが、向こうは俺の個人情報を握っている。この場は凌げるだろうが、根本的な解決にはならないだろう。


 俺は拳を固めながら、「何しに来たんだ」と声を絞り出した。女はニッと歯を出して笑うと、「そう警戒しないでよ」と言った。


「ただ、あなたに会いたい一心で、未来から飛んで来ただけなんだから」


「警戒しないで」と言われたところで、警戒しないわけにはいかない。たとえ相手が美人でも――いや、美人だからこそ警戒しろというのは、ハリウッド映画の鉄則である。訳の分からないことを口走っている奴ならなおさらだ。


 だから俺は沈黙で対抗した。とりあえずは相手の出方を見なければ、下手には動けないと思った。


 池里はそんな俺を見て、苦笑しながら息を吐いた。


「さてさて、どうしたら信じてくれるのかねぇ。わたしに敵意は無いんだけど」


「どうしたって信じられるわけないだろ」


「悲しいなあ。時間を超える前までは、わたしたち、仲良しだったんだよ」


「そうかよ。だったら、その仲良しだった俺のところに行けばいいだろ」


「それが出来ないからここまで来たんじゃん。ちょっとは考えてよね、千晃も」


 初対面の相手に〝千晃〟と名前で呼ばれたはずなのに、不思議と違和感が無かった。それこそ、もしかしたらこいつは本当にタイムリーパーで、未来にいる俺と仲が良くて、なんらかの理由があってここまでやって来たのかと思わせるほどに。


 しかし、そんなことは気のせいに過ぎない。どうせ、話し慣れていない美人を相手にしているせいで、頭が若干浮かれているだけだろう。


 自分の思いを誤魔化すために、俺は「とにかく」とぶっきらぼうに言った。


「お前の目的は一体なんだ」


「お。話、聞いてくれるつもりになったの?」


「バカ言え。取引したいだけだ。お前は変な奴だけど、危険そうには思えない。だから、俺はお前の言うことを聞く。その代わり、お前は俺の言うことを聞け」


「いいよ、わかりやすくていい。それで、千晃の望みは?」


「俺や俺の周りの奴らに関わるな。それだけだ」


 ほんの一瞬だけ、池里の表情が暗くなったように見えた。覚えなくても構わない罪悪感が、胸の奥からぷつぷつと湧いてくる。コーヒーの液面に視線を落とし、「お前は?」と言ってから視線を戻せば、池里の顔に笑みが戻っていたのでどこか安心した。


 池里は胸を膨らませながら大きく息を吸うと、決心したように言った。


「簡単なことだよ。一週間、わたしとデートして欲しいの」





「デートして欲しい」


 まったく予想していなかった言葉に唖然としているうちに腕を掴まれた俺は、店の外に連れ出されていた。そしてそのまま質問する暇もなく引っ張られ、駅まで連れて行かれ、タイミングよくやってきた電車へと押し込まれた。


 俺が我に返ったのは、目の間で電車の扉が閉まっていくのを見送った後のことである。聞きたいことが多すぎて何から言えばいいのかわからず、とりあえず「どういうことだ」と訊ねると、池里は「こういうこと」と笑って答えた。まったく答えになっていない。


「ふざけてないで真面目に答えろ。その……俺と出かけたいって、何のために」


「出かけるじゃなくってデート。恥ずかしいの?」


「違う。意味がわからないだけだ」


「意味なら簡単。あなたのことが好きだから」


「……何か別の目的があるんだろ」


「そうだねぇ」と軽く言った池里は、空いている席を見つけてそこに座る。その後を追った俺は、対面に立って吊革を掴んだ。


「例えば、千晃が将来的にスカイネットを開発する技術者で、わたしはそんな千晃を抹殺するために未来から送り込まれたターミネーターだとか?」


「そうかよ。じゃあ、ショットガンでも持て」


「そうする。それに、サングラスもね」


 そう言って表情に力を込めて俺を見た池里は、耐え切れなくなったようにぷっと吹き出した。思わず俺も釣られて笑ってしまい、そしてそんな自分に呆れて深くうなだれた。


「……池里。映画好きなのか?」


「大好き。千晃と同じウォーロックのファン」


「本当かよ。そんな風に見えないけどな」


「そうでしょ。なんたって、〝清楚系美少女〟だからね」


 くだらない冗談を言った池里は、安っぽいウインクをこちらへ飛ばした。


 電車に揺られて向かった先は池袋だった。人混みの中をふたり並んで歩いて行く。道を行くうちにピンク色の看板が目立つ裏通りまでやって来て、なんだか妙に緊張してきたが、連れて行かれたのが『新文芸坐』という映画館だったので安心した。


 どうやらこの新文芸坐というのは、昔の映画をリバイバル上映する名画座と呼ばれる種類の映画館らしく、本日上映予定の映画はクリスチャン・ウォーロックの『レッド・オーシャン』だった。


 券売機でチケットを購入して間もなく、開場したシアターに入れば、まだ誰も座っていない座席と黒い幕のかかったスクリーンが俺達を出迎えた。「どこに座るんだ」と俺が問うと、池里は「当然ここでしょ」と言いながら、最前列真ん中の席を選んでどっしり腰掛ける。偶然にも俺と趣味が同じ――というわけではないのだろうということは、すぐに察した。


「この映画館のこの席にはね、今日じゃないわたしたちも座ったことがあるんだよ」


「未来の俺たちが、か」


「あるいは、過去のわたしたちかもね」


 やがて、学校のチャイムのような音が鳴り、幕がゆっくり左右に開いていった。平日といえどもよほど人気がない映画館なのか、俺達の他に観客はひとりもいなかった。


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