リープ3 バタフライ・エフェクト その3
翌日のこと。
空は呑気に青く晴れている。半袖で歩いても少し汗ばむほどだが、湿気がないので心地よい。行楽日和というのは、きっとこういう日のことを指すのだろう。こんな日には大学なんてサボって新宿辺りまで足を伸ばし、ミニシアターを巡って名前も聞いたことすらない名作を探すに限るのだが、今日は園の恋を助けるという面倒な用事があるからそうもいかない。
園の話によると、池里真春は今日の十一時十分に専洋大学の六号館食堂までやってきて、ひとりで早めの昼食を取るらしい。メニューはカニクリームパスタとミニサラダのセット。座る席は食堂の左最奥、窓際。例の〝バタフライ・エフェクト〟もあるから、必ずしもその時間にその場所でそれを食うとは限らないんじゃないかと思ったが、園曰く、「その時は別の候補がある」とのことだ。
それで、いま俺がどうしているかといえば、池里真春が座る予定になっているふたつ隣の席でインドカレーのランチセットを食っている。園は遠くから見守るばかりでこちらに近づこうともしないが、池里がやってきた時にこっそり知らせるという役目があるので仕方ない。
俺の役目は、食堂にやって来た池里に声を掛けることだ。自分から話しかけるパターンでは恋が実るどころか友達になれたことすら一度もないから、ウォーロックという共通点を持つ俺を使って突破口を開くのだというのが園の言い分である。身も蓋もなく言ってしまえば、話しかける勇気もないから、ウォーロックという共通点がある俺に任せただけだという話だ。自分の顔を鏡で見てみれば、少しは勇気も出てくるだろうに。
十一時を五分ほど回ったところで、園が両腕で大きな丸を作りこちらに派手な合図を送った。すると間もなくして、俺の席の隣の隣にトレーを置いて腰掛ける奴が現れる。
ちらと横目で見てみれば、そこに座っているのは例の〝清楚系美少女〟、池里真春だ。こうして改めて近くで見ると、やはりかなりの美人である。園が恋に落ちるわけだ。そうは言っても、〝少女〟とは言い難いが。
しかし、いったい俺は池里真春にどう声を掛ければいいのか。「そのパスタ、美味しいですか? よければ一口頂けません?」とかだろうか。いや、これじゃただの変態だ。そもそも池里からしてみれば、隣でインドカレーを食ってる見知らぬ野郎が突然話しかけてくるんだ。その会話内容が「今日もいい天気ですね」だろうが「パンツ見せてください」だろうが、なんらかの恐怖を感じることは変わりない。
つまるところどうあがいたってこの俺は、池里真春にとっては変態である。
「それならなんだっていい」と半ば自棄になり、昨日観ていたウォーロックの話題でも振ればいいだろうと考えつつ、「どうも」と話しかけようとしたその直前、池里のいじっているスマートフォンのカバーに俺の視線は釘付けになった。
――溢れんばかりの筋肉を細身のスーツの中になんとかねじ込むあの男。右手にコルトマーク4、左手にナイフ。短い髪に無精髭。
間違いない。あれは『クロスXレンジ』ブルーレイ化の際、100個だけ生産された超限定品のはずだ。当然俺も持っているが、まさかこれを惜しげもなく外で使う人間が存在したとは。
俺の視線に気づいた池里は、ぎょっとした様子でこちらを見て、ぎこちなく微笑み「どうも」と頭を下げた。「どうも」と頭を下げ返した俺は、小刻みに震える人さし指でそのスマホカバーを指した。
「それ……ウォーロックの?」
「……はい」と池里は首を斜めに振った。表情が微笑みのまま固まっているのは、俺を怪しく思ってのことだろう。
「いや、その、すいません。……ただ、そんな珍しいもの、外で使っていいのかなって思って」
「珍しいものっていうことは知ってますけど……でも、人から貰った物ですから。使わないとその人に失礼じゃないですか」
「ですよね」と笑った俺は、何がなんだかわからなくなって半ばパンク状態である。自分でも訳の分からないことを言ったなということくらいわかっているので、恥ずかしさが止まらない。だというのに池里の方は、ある種の慈愛にすら満ちた微笑みを浮かべているのでなおさら恥ずかしい。身体中の血液が集まっているのではないかと思うほど顔が熱い。今すぐ棺桶に閉じこもって、しかる後、そのまま穴の中に放り込まれたい気分だ。
結果、俺はインドカレーの乗ったトレーを手に持ち、「失礼します」と席を立った。
我ながらまったく情けないことをしたと思う。
〇
勢いに任せて食堂を出た俺のスマートフォンにすぐさま園から連絡があり、『しまうま』へ呼び出された。池里に話しかけた本当の理由が、ウォーロック云々ではなく園を手伝うためであったことを思い出したのはその時である。
店へ行ってみると、園は店の最奥にあるボックス席にひとりで座り、険しい表情で何もないところをじっと見ていた。よほど怒っているのかと思いきや、両目からめそめそと涙をこぼしている。「たかがこれくらいで情けない」と思ったが、同時に申し訳なく感じた。
園の正面の席に腰掛けた俺は、何を言うより先に「悪かった」と頭を下げた。せっかく頼りにして貰ったのに、園の期待に応えるどころか敵前逃亡とは、後ろから撃たれても仕方ない。
俺の謝罪へ「本当にね」と応じた園は、なおも虚空を見つめたまま目元を拭う。
「だいたい、なんであんなことになったの。遠くからだからよくわかんなかったけどさ」
「理由なんて無い。俺の力不足だ」
「ウォーロックについて話せばよかったじゃないか」
「言われんでもウォーロックについて話した。でも、ダメだった」
「……君って結構、美人に弱いタイプ?」
「弱くない男がいるのか?」
俺は運ばれて来た冷や水を一気に飲み干し、口元を拭った。
「ところで、この後はどうするつもりだ?」
そう訊ねると、園は一転して表情を引き締め、手のひらで口元を覆う探偵のような仕草を見せる。
「そこなんだよね、問題は。なんたってこれは一週間を繰り返した僕にとっても初めてのケースだから。慎重にいかないと」
「失敗を認めて、この一週間は諦めるってのはどうだ」と訊ねる俺は、一刻も早くこんなふざけたことからは足を洗いたいという思いでいっぱいである。
ところが園は、「いや、ここはむしろ動くべきだと思うな」なんてふざけたことをぬかしやがる。
「江波、言っただろう? バタフライ・エフェクトだって。どんな出来事が僕達を成功へと導く要因か、誰にもわからないんだ」
だからって、大学の食堂で繰り広げられた池里と俺による最悪に近いファーストコンタクトが、ゴールの見えない恋路を踏破するための足がかりになるとは微塵も思えないのだが、恋煩いを絶賛発症中の園に俺の言葉が届く訳ない。何か言うだけ無駄だ。
自分の世界に入った園は、「ああでもない」「こうでもない」とぶつくさ呟きながら次の策を練っている。「よくやるもんだ」と思いつつ、店員にコーヒーを注文した俺は、間もなく運ばれてきたそれを飲んで一息ついた。
予想すらしていなかったことが起きたのは、次の瞬間のことだった。
俺達のいたテーブルに、あの女――池里真春がやってきたのだ。しかも、何故か満面の笑みを携えて。
俺の顔には途端に火が吹く。何考えてるんだ、この女。
「ここ、空いてるかな」とこちらに訊ねる風に言いながらも、池里は既に俺達のテーブルへの相席を終えている。なんだかさっきの大人しそうな様子と違って、ずいぶん気安い感じの喋り方だ。園はいま起きている出来事が現実とは思えないようで、口をあんぐり開けたまま俺と池里を交互に見ている。
「どうしたの、この人」と池里が半笑いで俺に訊ねたので、俺は「時々こうなるんだ」と適当言った。「で、俺達になんの用だ」とぶっきらぼうな言葉遣いで続けたのは、恥ずかしいのを誤魔化すためである。
「あら、ご挨拶ね。せっかくわざわざ大学からあなたを追いかけてきたっていうのに」
「なんで追いかけて来たんだよ。まぬけの顔を拝みに来たか?」
「そんなこと無いって。ただ、クリスチャン・ウォーロックについて、あなたと喋りたいなって思って」
「待て。なんでそんなこと思う必要があるんだよ」
「直感に理由が必要?」
池里はテーブルに肘を突いて、やや前のめりで俺を見る。
「わたしさ、大学では清廉潔白、品行方正の大和撫子で通ってるの。だから、ウォーロック好きなんて周りに大っぴらには言えないわけ。でも、あなただったら大丈夫そうだなって思って」
そう言って池里は「えへへ」と笑った。その表情に釣られてしまったらしく、俺の口元にもだらしない笑みがこぼれてきた。
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね。わたし、池里真春。真の春と書いて真春。改めて、はじめまして」
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