リープ18 オール・ユー・ニード・イズ・キル その2

 池里と入れ替わるような形で部屋にやってきたのは、若い医者と両親だった。三人に頭を下げた園は、「じゃあまた明日」と俺に言って部屋を出た。池里のことは聞けなかったが、明日また来るというのだから、その時にでも聞けばいいだろう。


「また忘れちゃったのね」と笑いながら言った母さんがベッドに腰掛け、父さんが「コイツは昔から忘れっぽい」と続く。園たちと違ってあまり悲観的になった印象を受けなかったので、なんだか少し救われた気分だった。


 両親と少し話した後、園から受けたような説明を医者からも受けた。ついでに、何故医者より先にあのふたりが来て、病気のことを伝えたのかと聞くと、何度か試した結果、俺の精神状態が最も安定するのがこの方法だからだと教えられた。


 それから病院の中をあちこち周り、なんだかよくわからない検査を次々と受けて忙しく過ごした。血液を採ったり、CTスキャンをしたり、MRI検査をしたり、とにかく夕方の四時を過ぎるまで色々やった。今のところは身体にも脳波にも、異常は見受けられないとのことだ。「異常が無いのなら帰りたい」と医者には言ったが、そうはいかないのだそうだ。


 五時半を過ぎたころになって、両親は「また来るから」と言って帰っていった。落ち着いたと思ったら、看護師が夕食を部屋まで持ってきて、それを食べながら入院時の注意点や施設の利用方法についてなどの説明を受ける羽目になった。


 諸々全て終わったのが七時前。それから少し身体を動かし、シャワーを浴び、順当に何もすることが無くなったところで、俺は両親が持ってきた新聞の切り抜きが貼られたスクラップブックを眺めてみることにした。大きな地震が熊本で起きたり、天皇が退位を表明したり、有名なアイドルグループが解散したり、アメリカの大統領が変わったり、この空白になった二年半の間に様々なことがあったらしい。


 紙をぱらぱらとめくる音だけが部屋に響いている。ふと手を止めてみると雪が降る音が聞こえたような気がした。ベッドを出て窓に近づき外を眺めてみたが、暗い空から落ちるものは何も無い。眼下にある駐車場の端には、汚い雪が積もっているのが見える。思わず「ひとりだ」という言葉が口を突いて出て、同時に、なにか胸の奥の方をそっと抓られたような気がした。


 今の今まで足首の下にあった非現実的な現実が、じわじわと水位を上げてくるのがわかる。



 俺はようやく、自分の置かれた現状を理解した。



 ここにいることがなんだか急に怖くなってきて、俺は慌ててベッドへ戻った。読みかけのスクラップブックをすぐに開いて眺めてみたが、一週間も経てば全て忘れるんだと思えば億劫になり、それから十分もしないうちに手を止めた。


 結局その日は九時になる前に眠ってしまった。





 翌朝、目を覚ましたのは五時過ぎのことだった。ずいぶん早くから眠ったせいだろう。


 昨日聞かされた話はまだはっきりと覚えている。交通事故の影響で、俺の記憶に一週間でリセットがかかるということ。こんな生活が一年以上も続いていること。そのせいで入院生活を送っていること。


 外の景色を見ればそれが夢ではないということもわかる。窓を開ければ現実が冷たい風と共に顔へ吹き付ける。


 しばらくすると朝食の時間になったらしく、看護師が味の薄い食事を部屋に持ってきた。黙々と食事を済ませ、それから軽く身体を動かしていると、部屋に誰かがやって来た。園と池里のふたりだった。ふたりとも、何やら大きな紙袋をぶら下げている。


「やあ、調子はどうだい」と園が言いながら紙袋を床に下ろす。昨日とは違って表情に緊張を感じないのは、俺に病気のことを伝えるという大仕事を終えたからなのだろう。


「身体にも脳波にも問題ないってよ。医者からのお墨付きだ」


「それなら、わたしのこと思い出してくれた?」と池里がこれに応じる。「思い出せてないから教えてくれ」と俺が言うと、「それは駄目って教えたことも忘れちゃったの?」と呆れたように笑って返された。


「悪いな。連日見舞いに来てもらって」


「いいの。日課みたいなものだから」


「……毎日来てるのか?」


「ええ。観たい新作映画の公開日以外は」


 冗談めいた調子で言ってウインクした池里は、「そんなことよりも」と話題の舵を無理やり切る。


「映画を持ってきたの。千晃が忘れてる期間の作品をいっぱい。一緒に観よ?」


 池里の持ってきた紙袋には、数多くの映画作品のパッケージが入っていた。それらのうちどれを手に取ってみても全く覚えのない作品で、こんな状況だというのに否応無しに興奮してくる。


 スタローンの新作、『ジュラシックパーク』の続編、『ゴーストバスターズ』のリブート作品……数ある中から俺が選んだのは、『ベイビー・ドライバー』という映画だった。この作品の監督であるエドガー・ライトを園が好んでいるということを思い出したから、なんとなく手が伸びたのだろう。


 パッケージを手に取って「これにするか」と言いかけた矢先、俺の頭にある考えがふっと過ぎる。もしかしたら俺は、毎週のようにこの作品を選んで、毎週のようにふたりと共にこれを観ているのではないか。


 一度そう考えてしまうと、もうどうしようもない。伸ばした手をゆっくりと引っ込めた俺は、「この中から選ぶのは止めないか?」と提案した。


「どうしたの、急に。選り取り見取りだと思うけど」


「ああいや、その……新しいのもいいけど、たまには古い映画が観たいなって思ってな。ふたりの趣味じゃないかもしれないけど、クリスチャン・ウォーロックの『レッド・オーシャン』なんてどうだ。悪趣味な映画だけど、たまにはそういうのも悪くないだろ」


 俺の提案を受けてそろって難しい顔をしたふたりは、共にため息を吐いて肩を落とす。「そんなにウォーロックが嫌か」と訊ねると、池里が半ば呆れたように「そうじゃないの」と否定した。


「千晃。確かにあなたの思ってる通り、わたしたちはここにある映画のいくつかを、あなたと一緒に何回も観てる。でも、わたしたちはあなたと映画を観たいからここに来たんだよ。作品なんてなんだっていいの」


 俺が「そうは言ってもな」と言うのを遮るように、池里は「それにね」と続ける。


「園くんはともかく、わたしはウォーロックが大好きなの。だから『レッド・オーシャン』なんて何回も見てる。それこそ、ここであなたと『ベイビー・ドライバー』を観た回数以上に」


 うんざりしたようにそう言った後で池里が見せた、はにかむような微笑みに、俺はただただ安心した。


「……それなら、遠慮することなんて無いな」


「ええ、もちろん。好きなものを選んで」


「ちょっといいかな。なんでもいいけど臓物と生首は勘弁して。この部屋が僕の朝食のコーンフレークまみれになっていいって言うなら、話は別だけど」


 園の冗談で部屋の窓が二人分の笑い声で揺れた。


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