リープ1 君の名は。

 五月末のとある朝。その日は授業も無かったので、下宿先のアパートでのんびりとスタローンの映画を観ていると、同じ専洋大学に通う学友である園敦から電話が掛かってきた。なんの用事だろうかと思いつつ、通話を繋げて「どうした」と問えば、『どうもこうもないよ!』という半ば怒りの混じった声が俺の鼓膜を強く揺らした。


「ずいぶん急だな。なんだよ。何かあったか」


『大アリさ! 君、あの約束を忘れたのかい?!』


「約束」と言われて俺は記憶のページを必死にめくったが、思い当たることは何一つとしてない。どうやら俺か園のどちらかが、大変な勘違いをしているらしい。


「待てよ。落ち着け。俺が約束をすっぽかしたなら謝る。でも、本当に覚えがないんだ。どんな約束だったんだ?」


 すると園は言葉に詰まり、『それは』と言ったきり黙ってしまった。なんだか訳が分からない。「どうしたんだよ」と声を掛けてみても返事が無いので、「切るぞ」と断った上で通話を終わらせようとすると、園がすかさず『待って』と言った。


『……江波。君を信じてるよ』


「何をだよ」と訊ねるより前に園の方から電話を切られた。園はいつもどこかがおかしな男だが、今日は輪をかけておかしかった。なんだか妙に気になったので、こちらから電話を掛けてみたが、何度かけても繋がらずに終わってしまった。





 その日は結局、家事をやったり身体を動かしたりしながら一日中映画を観て過ごした。


 翌日は授業を受けようとしたが、時間になっても教授はおろか生徒すら来ず、時間を無駄にしてアパートに帰るハメになった。


 その翌日には筋トレをしながら映画の時間。午後一番で宅配が来たから実家から何か送られてきたのかと思えば、届いたのはクリスチャン・ウォーロックの『クロスXレンジ・チャプター2』のブルーレイだから驚いた。確かにこのソフトは今日発売だが、果たして俺はいつネット注文なんてことをしていたのだろうか。さっぱり覚えがない。しかし、俺の部屋に届いたのだから俺が注文していたのだろう。


 早速鑑賞しようと思ったが、ビニールを破った辺りで俺は「待てよ」と手を止めた。何せ、ずいぶん長いこと待ち望んだ作品だ。どうせだったら最高の状態で鑑賞したい。


 ふと芽生えた欲望が瞬く間に力をつけ、あっという間に全身ムキムキになった。こうなればもう、俺自身でも俺を止めることは出来ない。


 俺は家にあるウォーロックのソフトを全て床に並べ、手当たり次第に再生した。ウォーロックの数ある名作を見続けることで気を高め、精神を最高の状態に持っていく。そうすることでこの、超名作間違いなしの『クロスXレンジ・チャプター2』を何百倍も楽しむことが出来る。そうに違いなかった。


 それから俺はウォーロックに浸った。彼と一体になった。俺がウォーロックで、ウォーロックが俺だった。食生活はブロッコリーと鶏ささみ中心になり、映画を観ながら常時、身体を苛め抜いた。授業などという軟弱なものは必要なかった。『クロスXレンジ・チャプター2』に伸びそうになる己の手を自分で叩いた数は覚えていないほどだ。


 そんな生活は数日続いた。俺の精神が最高の状態まで高まったのは、園から妙な電話を受けた日から数えて、ちょうど一週間目のことだった。





 いよいよこの時がやってきた。


 俺と映画のファーストコンタクトのきっかけを作った作品の続編であり、敬愛するクリスチャン・ウォーロックがこの世に残した最後の大傑作、『クロスXレンジ・チャプター2』を観る時がやってきたのだ。

否応なしに気分が高まる。あらぬ方向へテンションが向いているのが自分でもわかる。こういう時に必要なのは、ビールでもハイボールでもなくプロテインである。


 しかしあいにく冷蔵庫にはプロテインが無い。プロテインを割るための牛乳も無い。だから俺は財布を持ってアパートを出た。


 五時を過ぎた空はまだ明るい。涼しい風が心地よい。歩いているだけで楽しい。最高の気分だ。このままこの時が一生続けばいいと思えるほどに。


 ここから駅前の薬局まで行って戻ってきても、せいぜい三十分余り。六時前に戻ってきて、102分の本編をじっくり見てもまだ八時にもならない時間だ。余韻と共に夕食を噛みしめ、それから二週目。感想戦の三週目と続ける時間は十二分にある。焦る必要はない。そうわかっているはずなのに、どうしても脚が急いで動く。いつの間にか走り出していたのは、もう仕方のないことだろう。


 駅前の薬局に着いて、息を整えてから入店。プロテインと牛乳をスムーズに買い物カゴへ入れ、レジに並んで千円札を財布から取り出したその時、一枚の小さな紙がひらりと床に落ちた。拾ってみるとそれは何かの半券のようである。


 ゴミが紛れただけだろう。そう断じた俺はそれをポケットに突っ込んだが、どうしてかやけに気になって、すぐに取り出してじっと眺めてみた。


『新文芸坐』という覚えのない文字が印刷された小さな白い紙。理由はわからないが、やけに胸がざわつく。何かがある気がしてならない。


「買わないんですか?」という声が聞こえて、支払いの順番が来ていることに気づいた。「ちょっと考えます」と適当言ってレジから離れた俺は、『新文芸坐』という名前をスマートフォンで調べてみた。どうやらそこは名画座と呼ばれる類の映画館で、少し前の映画を上映したり、オールナイト上映というイベントを定期的に行っている、歴史ある映画館らしい。所在地は池袋。ここからそう遠くない。


 この時、俺が感じていたのは運命だった。ここに行けば何かが待っているという、筋骨隆々になった根拠のない確信だった。もはや、まともな精神状態ではなかったのかもしれない。


「行ってみるか」とひとり呟いた俺は、カゴに入れていた商品を棚へと戻しに向かった。


 薬局を出て駅へ向かい、電車に乗り込めば池袋までは数分である。東口へ出て、ピンク色の看板が目立つ裏通りの方へと歩を進めれば、目当ての『新文芸坐』が見えてくる。パチンコ屋の隣にある、ガラス張りのビルである。


 来た事なんて一度もないのに、胸が高鳴って仕方がない。まるで、ここで楽しいことが待っているということを、俺の細胞が知っているような感覚だ。


 弾む足取りで階段を昇り三階まで行く。入ってすぐのところにある券売機の隣に置いてある本日の上映スケジュールを確認すれば、『クロスXレンジ・チャプター2』が上映中だったので驚いた。ブルーレイ発売記念のイベントか何かだろう。やはり、ここに来たのは運命だったのだ。ウォーロックが俺をここに導いたのだ。


 映画はつい二分前に始まったばかり。となれば、今から入ってもまだ予告の上映中といったところだろう。心の中でガッツポーズを繰り返しつつ券売機でチケットを購入し、受付のところでそれを見せると、店員が俺の顔を見てぎょっとしたような表情をした。何か顔に付いているだろうかと思ったが、トイレで確認する暇も惜しい。チケットの半券を受け取った俺は、足早に通路を歩いた。


 館内へと続く分厚い扉をそっと開ければ、前方のスクリーンには既に配給会社のロゴが映し出されているのが見えた。身をかがめた俺は、そっと最前列中央の席に近づく。アクション映画を観る時に限り、俺は決まって迫力満点のその席を選ぶ。


〝定位置〟の左隣には既に先客がいたが、そんなことは関係ない。席に腰掛けた俺はスクリーンを見つめ、運命の瞬間を歓迎した。





 端的に言えば、『クロスXレンジ・チャプター2』の出来は最悪だった。


 ウォーロックの演技があまり良くないというのは百も承知だ。脚本がマズイというのだって百も承知だ。金がかかってなさそうだとか、全盛期に比べて明らかにアクションの質が落ちたとか、アサイラム製のサメ映画とどっこいどっこいだとか、そういうことだって全部まとめて百も承知だ。


 しかし、今回の『クロスXレンジ・チャプター2』の出来だけは許せない。あの超名作である『クロスXレンジ』の名前を冠した作品なのに、アクションがほとんど無いどころか、そもそもウォーロックの出演時間もかなり短い。というよりも、ほとんど無いと言ってもいい。こんなものを劇場で上映することは最悪の奇跡だ。詐欺だ。訴えれば負ける要素のない案件だ。


 あんな作品にウォーロックが出演していたとは信じられない。信じたくない。晩年の彼が自らの体力の衰えを嘆いていたことは有名だ。しかし俺は、そのままのウォーロックが観られればそれでよかった。あんな風に、顔見せ程度の出演でお茶を濁して欲しくはなかった。


 やり場のない怒りと虚しさを覚えながらスタッフロールを眺めていると、右目から涙がこぼれていることに気が付いた。これが悔し泣きというものだろう。そんなことを思いながら目元を拭っていると、左隣からすすり泣くような声が聞こえてくるのに気づいた。俺と同じく、この映画の出来がよほど悔しかったのに違いない。


〝同士〟の様子がつい気になって、隣を横目に見た瞬間、俺は身体中を何かが駆け抜けるような感覚を覚えた。隣に座っていたそいつが、驚くほどの美人だったからだ。


 暗い中でもくっきりとわかる白い肌。腰まで届く長い黒髪。泣いているせいかやや腫れぼったくなっているものの、眠たげで色気のある目元。薄い唇。細い肩。


 その時、そいつが俺の方を見て少し固まり、それからどこか悲しげに微笑んだ。


 まるで、時間が止まったような一瞬だった。


 頬の辺りが猛烈に熱くなっていくのを感じた俺は、慌てて顔を逸らしながら席を立ち、さっさと映画館を出た。頬の火照りが冷めたのは、駅に着いたころのことだった。





 その日の夜。アパートに戻った俺は暗い部屋で布団の上に横になり、ただ天井を眺めていた。脳裏に浮かぶのは、あの『クロスXレンジ・チャプター2』の残念なシーンの数々に加え、〝同士〟の泣き顔と、僅かに見せたあの笑顔である。


 男なんてものは、一日外を出歩けば五回は一目惚れをする生き物だと思っている。そして、翌日どころか十分後には、惚れた相手の顔を忘れる生き物だとも思っている。


 しかし、数時間前に出会った人の顔を、俺は確かに覚えている。あの目が、あの鼻が、あの口元が、はっきりと思い描けるほど網膜に焼き付いている。


 どんな理屈をつけたところで無駄だ。いくら考えたところで結果は変わらない。同じ映画を観て、同じ感想を持った人がたまたま横に座っていたから、気の迷いが膨れ上がっているだけだろう、なんて小賢しい理由をつけるつもりなんて無い。


 間違いなく俺は、彼女に惚れたんだ。


 しかし我ながらなんとも情けないことをしたのだろうか。いま思えば、せめて声くらい掛けるべきだった。後悔は先には立たないんだ。こんなことには慣れていないとはいえ、臆病風に吹かれすぎだ。あの〝清楚系美少女〟にもう会えるとも限らないのに――などと考えたところで、俺は「あほか」と呟いた。いくら浮かれているとはいえ、俺とたいして変わらないだろう年齢の女性に〝美少女〟は無いだろう。


 布団の上で右へ左へとゴロゴロ転がり、己の不甲斐なさを猛省した俺は、テレビ台の上にある黒い表紙のノートに手を伸ばした。そしてそれの空いているページに『新文芸坐』の半券を貼り付け、続けてこう書き込んだ。


「『クロスXレンジ・チャプター2』。つまらなかった。だから、左隣に座っていた美人の顔だけは覚えておくことにする」




 もう一度出会えたその時に、声を掛けられるように。




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